80.最後の夜 1
用心棒、だそうだ。
彼はそう呼ばれている。
使われる組織によっては、一応敬う形をとって、「先生」などと言われる場合もあるらしい。そんな話を聞いたこともある。本当かどうかはわからない。笑い話かも知れない。
彼にはそんな言葉が使われることはない。そんなことを望んでいるわけでもなかった。
郭で羽目を外し過ぎた酔客を、力ずくで止める。
稀に郭に持ち込まれる客同士の諍いを、容赦なく叩き潰す。
その恐怖をもって、さらに抑制効果をもたらす。
暴力を生業とする、暴力以外何の取り柄もない……下衆。
そうとも。下衆だ。相手が怯えることは、彼には気分がいい。叩きのめした相手が恐怖と苦痛に震えるさまは、彼の溜飲を下げる。
敬意など払われるわけもない。
遊女たちからも厭われているのを、彼は知っていたが、それを不満に思ったことはない。それでいいのだ、とさえ思っていた。
だからといって、ここまで蔑ろにされることを望んでいたわけもないが。
今や両手首を折られ、自分ではうまく小便もできなくなった彼。
だからといって、誰かが彼のイチモツを持ってくれるわけでもない。
彼は痛みに震えながら、着物の前をはだけ、小便をほとんど垂れ流し、今朝は犬のように口を茶碗に近づけて食料を貪った。
それでも、辛うじて食い物は貰えている。そのことに対しての感謝もある。だが、いつまでこの待遇が維持されるか。
もともと腕っ節だけで求められ、暴力だけでここに置いてもらえていたのだ。今や刀を持つことも出来なくなった彼に、何の価値を見出してもらえるだろう。
彼の扱う大刀は、他の侍どもが使うものよりもかなり大きく、重いものだった。その分、切れ味を抜きにした打撃力がある。加減をしてやれば、骨を折りながらも、殺すことはない。色々と便利に使える刀だった。
だが、腕が折れている今、その重さのせいで、彼は刀を持ち上げることも出来ずにいた。
暴力で身を立てていた者から暴力が奪われれば、もともとの弱者よりも惨めになるしかない。
そして、彼は惨めだった。
だからといって、その報復というわけではない。
惨めさから来る鬱憤を晴らそうというわけではない。
やり方は聞いていた。
そのことに用心棒は感謝している。
これは彼の望みなのだ。
苦痛があることは理解している。
あまりに残酷な遣り方だともわかっている。
だが、用心棒にとっては、苦痛は大きな問題ではなかった。
彼自身の不遇も問題ではない。これはそんな鬱憤を晴らすための行動ではない。その程度の軽い理由で選べる過酷さではない。彼はそれを知り、その上でそれを願ったのだ。
「俺を鬼にしてくれ」と。
女がいた。
春風、と呼ばれた女だ。彼は女の本名を知っていたが、呼んだことはない。地味で、あの女に相応しいぱっとしない名前だった。まあ、郭の源氏名と比べればたいていの名前は地味だろうが。
女は自分が地味であることを知っていた。自分が醜いと思っていた。
そうかもしれない。
少なくとも、彼もあの女の美しさに惹かれたわけではない。あの女を美しいと思ったことは一度もない。
丸顔。団子っ鼻。細い目。
無理に作った笑顔はいつもぎこちない。微笑んでいるのか、睨みつけられているのかわからないくらいだ。
それでも、あの女といる時間を彼は楽しんでいた。
好かれている、などと自惚れてはいない。本当は自分は好かれてはいないのだと知っていた。
女は、他に話し相手がいないから、仕方なく彼の話に付き合ってくれているだけだった。彼の暴力に怯えて、できれば、彼の暴力を味方につけたくて、彼女は彼に付き合っていただけだ。
そのくらいのこと、彼にも理解できていた。
それでも。
それでも、彼は楽しんでいたのだ。
だが、女は死んだ。
彼は泣かなかった。
ただ、空っぽになっただけだ。空虚な体から溢れるものなどあるはずもない。
彼は空っぽになり、惨めになり、そうして世界からあぶれ、消えてゆくのだと思っていた。それでいいと考えていた。もう、それでいい、と。
そのつもりだった。
だが、そうではなかったらしい。
彼の怒りに気づいたのは、彼自身ではなかった。
鬼が彼に囁いたのだ。
「本当にそれでいいのか」と。
今、目の前で白い牙が凄んでいる。
それに噛まれれば、彼も鬼になる。
彼が首を傾けると、鬼は無言でその首に牙を突き立てた。
鬼。
それは単に強く凶暴なだけの存在ではない。
彼が変化するとすれば、それは春風が耐えられなかった「狂気」に襲われる存在でしかないのだ。
血を抜かれた彼は、朦朧としながら鬼を見つめる。
じっと。
鬼もまた、頭から被った布の下から、暗い目を向けている。品定めするような視線を、彼は感じていた。
やがて、彼の前に刀が置かれた。
刃を上に向けて、鬼は彼の前に大刀を寝かせた。
彼はそれに自分の手首の3寸下を押し付けた。
まずは軽く。
あの若侍に折られた手首ごと切り落とすのだ。
本当にこんなことに意味があるのか。
彼にはわからない。
だが、失った矜持と失った女の顔を思い浮かべ、彼は右手の二の腕を振り上げ、渾身の力で刃に振り下ろし、叩き付けた。
彼は強かった。
常に暴力に身を浸していれば、自分が痛い目にあうこともある。凶暴さを売りにする男が、いちいち悲鳴をあげていたら舐められるだけだ。だから、表面的にだけでも痛みを押さえ込む術を彼は身につけていた。自分は我慢強い方だと、用心棒は信じていた。
だから、彼は悲鳴はあげなかった。
絶叫は、勝手に口から迸った。
刃に叩きつけた彼の膂力は、彼の腕を切断していた。
右の手首から先がない。
絶叫は止まない。
それが死ぬ前の春風と同じ損傷であることを、彼は聞かされていた。
この痛み。
失意。そして恐怖。
「ちくしょう……」
彼は低く囁いた。
そのつもりの声は吠えるような怒声だった。
ちくしょう。
この痛みと恐怖をあの女に味合わせた男がいる。
気弱な春風を怯えさせ、右手を切り落とした男がいる。
そいつは今、丸山一番だとされる美貌の高慢な遊女の隣で笑っている。
笑っているのだ
右手の切断面からは、血が止まらない。
口からはまだ声が止まらない。だが、それは痛みのせいだけではなかった。
涙が出る。
ともすると泣き声になりそうな自分の声に力を込め、彼は憤怒の声を振り絞った。
血は止まらない。
腕を通る主要な血管が切断されているのだ。放置しておけば止まるような傷ではない。出血が長引けば、大量の血が失われ、更には命が失われるだろう。
春風が簡単な治療さえ受けられなかったように、彼もまた治療を与えられなかった。手首を縛り出血を抑えるという、もっとも基本的な処置さえ。
だから。
彼は死にかけていた。
だが、彼は「死なない」。
彼の身体は死を拒絶する。
だから。
彼の身体は再生を始めた。
切断面に何かが蠢いた。何か小さく汚らしい虫が、彼の腕の中で動いている。小さなミミズが彼の肉の中で蠢いている。無数のミミズが手首の中で暴れているようだった。それは互いに交わり、捩りあいながら、紐になった。更にその紐が縄になり、縄が寄り合うことで、無数の細い血管と筋肉が、太い綱を形成してゆく。
そしてその「綱」を操り、彼は大刀を握った。
それは想像を絶する痛みだった。
こんなものに耐えねばならないのなら、折れた腕で刀を振り回したほうが、きっと楽に違いない。
だが、それでは勝てない。
彼が十全であったときでさえ、あの若侍は彼を軽くあしらって見せたのだ
腕が折れ、刀どころか箸さえ持てずにいる今の彼に、あの小僧を殺すことは絶対に出来ない。
殺す。
殺してやりたい。
あの小僧。
涙が出る。
今度は、彼は自身に泣くことを許した。
痛みではない。
悲しみのせいでもない。
ただ、憤怒だけを表す涙。
それを滂沱のごとく流すことを、彼は自分に許した。
それを目の前の鬼が満足げに見定めていることを感じながら、彼は抗え切れない血への渇望と、微かに残った自らの意思をもって、鬼への変異を始めた。




