79.美雪5
2014/1/10 言葉を若干変更しました。
物語に影響はないのですが、最後の一行を追加しました。
美雪の視点は一旦ここまで、ということで。
で。
この変更のために、「今年はここまで」の後書きは削除しました。
次話は明日投稿される予定です。
今年もよろしくお願いします。
痛みはなかった。
自分の首に打ち込まれた牙に、美雪は体の芯を貫かれたように動きを止めた。
廓で初めての客に破瓜された時のように、彼女は動きを止めた。
もっとも敏感な神経を削り取られるように怯え、動かないでほしいと相手に願う。だが、あの時の客以上に鬼は容赦がなかった。
鬼は美雪の咽頭部の血管を切断し、更に奥へと牙を侵入させる。
美雪は体を強張らせ、同時に首から大量の血を垂れ流す不思議な解放感に弛緩させる。
それは苦痛であり、快楽でもあった。
動けない。
動かないでほしい。
動きたくない。
そして動かなくても、その感覚は全身を支配する。
その感覚に美雪が支配され、陶酔しそうになったとき、
「誰かいるのか?」
不意に男の声が聞こえた。
美雪は身体を動かせなかった。顔を振り向かせる動作さえできなかった。
ただ、凍りついた身体の中で、眼球だけを動かし、そちらを見た。
暗がりの中、男が一人立っていた。
もちろん、高村晋輔などではなかった。そんなに都合よく現れてくれるはずはない。恋歌に対してならともかく、高村晋輔が自分をそこまで注視し続ける理由はないだろう。
それでも、偶然ここに居合わせたこの誰かは、美雪があげた大きな泣き声に、反応してくれたのだ。
混濁した苦痛と快楽に埋もれようとしていた美雪の意識が、正常な判断力を辛うじて取り戻す。
助けて。
美雪はそう訴えようとする。
だが、身体は串刺しにされた鮎のように動かない。
ただ、辛うじて回した眼球が、驚いた表情の男を捉え、男の視線が美雪を捕まえたことを教えてくれた。
同時に。
「どうしたのよ」
建物の陰から別の人影が現れる。女だ。男の連れなのだろう。
袂が崩れている。
ふたりでイイトコロだったのかもしれない。
寄り添うように見える美雪たちを見て、女は面白そうに口を歪めた。
「邪魔しちゃ悪いわよ。お互いにね」
チガウ。
美雪は動かせぬ身体の代わりにせめて視線に力を込める。
チガウノ。タスケテ。
その力が届いたのかもしれない。
笑みを浮かべ、美雪たちに背を向けようとする女に、男は強張った声をかける。
「いや、あれは……」
美雪の咽喉に顔を埋めていた女が顔を上げる。
美雪にその顔は見えなかったが、自分の肌から離れた口が大きく開き、牙をむき出しにして笑ったのを、美雪は感じた。
男に見えたもの。
それは首筋を露わにした女。
女は首から血を流している。そしてもうひとりの女は、鋭い牙を剥いて笑っている。その口元は、女が首から溢れさせた血に塗れているのだ。
「うわああああああっ」
男が悲鳴をあげた。
同時に、美雪は自分の視界が急に歪んだのを感じた。
歪み、暗闇の溶けてゆく視界の端に白い靄がかかる。
それは「霧」だった。
美雪は、その意味を理解した。
今まで見せられた鬼が霧に変わる瞬間を、今、美雪は内側から見ているのだ。
美雪は鬼に拉致されて、こいつと一緒に霧に溶けてゆこうとしているのだ。
悲鳴をあげた男は間に合わない。
いや、そもそも男の踏み出した足は後ずさりのためのもので、眼前の少女を救うために踏み出されたものではなかった。
長崎の町が歪む。
美雪を見る男女の姿がぐにゃりと歪み、長崎の町が歪む。
長崎の町が闇に溶ける。
それらは凄まじい勢いで流れだした。
美雪は、長崎の町を風になって移動しているのだ。
暗闇に溶け。
暗闇の中を通り抜ける。
人気のない路地を抜け、閉ざされた扉の隙間を抜ける。
ネズミや虫でさえ通れぬ隙間を通り抜け、地を這い、月光の冴えわたる夜空を駆ける。
視界は歪み、凄まじい勢いで流れる景色の意味するところはわからない。
そもそも美雪は、今も吸血鬼の牙に貫かれ、動くことができずにいるのだ。
それでも身体が霧に溶けている今だからこそ、「動かしたい」という意思は彼女の動きそのものになっていた。肉体を失っている今だからこそ。
頭にあったのは十字架だ。
鬼を退けられなかった十字架。
彼女の信仰と同じように、役に立たなかった十字架。
もう、それは鬼に捨てられてしまった。
それでも彼女の意識は、それがいつも隠してあった場所に伸びた。
今そこにあるのは十字架ではなかった。
恋歌に渡された……春風の簪。
銀の簪。
銀は。
吸血鬼への武器になる。
恋歌にそう教えられたはずだ。
恋歌が身の危険を冒してまで入った出島。そして、それよりも更に危険な侵入を果たしてまで、高村晋輔がオランダ商館長から聞いてきた吸血鬼の弱点。
今、それを突かずに、いつこの切り札を使えるんだ。
美雪は必死に腕を「動かす」。
そこにそれはある。
だから、美雪はそれに手を伸ばす。
銀の簪。
美雪はそれを掴み。
そして、その手を弾き飛ばされた。
「あ……」
霧の世界から、それは消える。
霧に溶けている今だからこそ、美雪の動きは鬼の支配下にあった。
美雪の「意思」は、今や鬼の牙に抑えられているのだ。
鬼が牙をゆする。
美雪を貫く凶暴な牙が大きく揺すられる。
苦痛と快楽に美雪は悲鳴をあげた。
動かないで。
鬼は聞かない。
ただ、美雪の耳に他の者には届かぬ笑い声が聞こえた。
美雪の首筋に貼りつけた唇から、聞こえぬはずの哄笑が直接美雪の体を震わせた。
銀色の光は一瞬で美雪の視界から消えた。
そして次の瞬間、美雪は冷えた土の上に横たわっていた。
勢いをつけて地面に叩き付けられたように、美雪は全身に強い衝撃を感じた。
「……っ」
衝撃に息が止まる。
痛みに体を動かせない。
そもそも、出血と疲労による脱力で、自力ではほとんど動くことはできなかった。
あるいは。
ここが。
目的地なのかもしれない。
ここが吸血鬼の寝床なのだろうか。
おそらく。
ここが吸血鬼の寝室で。
居間で。
屠殺所で。
厨房で。
食卓なのだ。
今、美雪は、薄暗い土蔵のような場所で冷たい土の上に横たえられ、それよりも冷たい一対の目に見下ろされていた。
その視線の冷たさに震え上がり、凍え、怯えながら、美雪は意識を失った。




