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78.美雪4

 その時、その道に人はいなかった。少なくとも生きている「人」は。

 人通りの途切れた廓への道。青白い月明かり。

 明るいが冷たい月光の中、民家の影に半身を切り取られ、暗闇に沈んでいる人影。

 表情も細かい部分もわからない。以前見たときと同じように、頭から布切れを被っている。

 そいつは何をするでもなく、ただ立って、美雪を見ている。


 そのことに美雪は疑問を感じない。

 見るべき価値はあるのだろう。見て嘲笑う価値があるのだろう。

 本当に美雪は裸だった。

 着るべきものは着ている。郭の外に出るのだから、それほど華美なものではないが、それでも街中で誰と偶然に会うのかもわからない。桜泉楼の遊女として、見られて恥ずかしい格好はできないし、その辺美雪はいつも気を使っているつもりだ。

 外見で言えば、今でも美雪は一般の町民から見て華やかに着飾っていると言える。

 それでも彼女は「裸」だったのだ。


  怖い、と思った。

 こいつと会ったのは二度目。

 その間に善次郎や春風と対峙している。

 生命の危機に曝されるのは初めてじゃない。

 鬼との戦いは初めてじゃない。


 それでも怖かった。今までで一番。


 まるで相手が一回り大きくなったような。

 違う。

 自分がちっぽけになっているんだ。

 自分が汚れてしまっているんだ。


 そう萎縮してしまいそうになる心を、自分で叱咤する。 違う。

 汚れてなんかいない。


 でも。


 でも、信仰は残っている!

 今までと変わらず残っている。


 でも、踏んだ。


 いいんだ。あんなのは、連中を誤魔化すための方策だ。

 あのくらいでは美雪の信仰は揺るがない。


 でも。

 踏んだ。

 キリシタンではない、と言ってしまった。


 いい。いいんだ。あんなのは。

 あんなのはどうでもいいことだ。毎年自分はやってきて、それでも善次郎は美雪の信仰を怖れたのだ。怖れてくれたのだ。

 信仰はここにある。

 私の胸の中に間違いなくある。

 美雪はそれを確認するように幾重にか重ねた布の上から自分の胸に触れる。

恋歌よりやや大きなその胸の中に、確固とした信仰があるはずだと自分で言い聞かせながら。


 だが。

 もはや、それを証明することはできない。

 主に対しても。

 自分に対してさえ、も。


 暗い中の影は、輪郭も定かではない。

 頭から布切れのようなものを被っていて、その髪型もわからない。だから、男か女かもわからない。

 だが、何故か、美雪は自分に向けられたその視線を「女」だと感じた。

 視線に含まれている感情は、挑発。侮蔑。そして……

 暗くてよく見えないのに、その薄く開いた唇の間から鋭い牙が覗いているのはわかった。


 そいつは足を踏み出した。

 踏み出す調子は遅かった。前進する身体が足よりも先に出て、身体が前のめりに倒れる。

 鬼がいきなり転倒し昏倒して美雪は救われる、などという状況を本気で期待したわけでもなかったが、それでもその動きは美雪の想像外だった。

 もちろん、鬼は倒れなかった。


 とん。


 と、鬼の足が、地を蹴る。軽く。

 次の瞬間、鬼は美雪の前にいた。

 鬼は嗤っている。

 その力は強く恐ろしい。


 美雪は?


 美雪の信仰もまた強いはずだ。

 鬼を退けることだってできる……そのはずだ。


 でも、美雪は踏んだ。

 踏んでしまった。


 だから、鬼は嗤っている。

 その薄く開いた唇からは、鋭い牙が覗き、強い血の匂いが溢れ出してくる。 美雪はそいつを倒す力を引きずり出そうとする。心の中から。魂の中から。


 負けない。

 鬼になんて負けるわけがない。


 美雪もまた足を踏み出す。踏み出そうとする。

 でも。

 でも、美雪は主と聖母の顔を踏んでしまった。


 鬼は嗤っている。

 嗤って、その腕を伸ばしてくる。


 美雪は……後退する。

 踏み出した足は勝手に下がった。体の主の意思に反して、彼女の足はそれ以上前に進めなかった。


 それでも美雪は口を開き、鬼を退ける聖句を唱える。


 だが、美雪の信仰は穢れてしまった。

 だが、穢れてはいない、と表面的な意識が反発する。


 だが。だが。だが。


 善次郎と対峙した昨夜と何も変わっていないはずだ。


「地とそれに満つるもの。世界とその中に住むものは皆、主のものなり」


 美雪の口は、再び詩篇を紡ぎだす。

 美雪は幼いころからたくさんの聖句を覚えさせられた。

 美雪は、その気になれば幾らでも聖書を諳んじることができる。

 だが、何故それを選んだのだろう。

 昨夜と同じ詩篇の23篇を選んだのだろう。

 美雪は何も考えなかった。

 昨夜の奇跡を求めて、昨夜は効き目があった言葉に縋ったのだ、と自分では考えなかった。


「主はその基を大海の上に据え、大川の上に定めたまえり」


 昨夜は効いた。

 十字架は光り輝き、善次郎は退いた。

 だったら……。


「主の山に登るべきは誰ぞ。その聖所に立つべき者は誰ぞ」

 そうとも。

 昨夜は十字架が光り輝いたのだ。

 その十字架は、まだ美雪の袂にある。

 こいつを取り出したら、目の前に鬼も血相を変えるだろう。

 嫌らしい笑みを浮かべてなんていられないに違いない。


 彼女は袂に手を入れる。

 そこに彼女の信仰を形にした十字架があった。


 あった。

 十字架はそこにきちんとあった。



「手、清く、心いさぎよき者。その魂虚しきことを仰ぎ望まず、偽りの誓いをせざる者こそ、その人なる」


 美雪は十字架を取り出す。


 十字架は輝いていなかった。


 昨夜のような甲高い音を立ててはいなかった。悪を削り取る鋭い切削音を響かせることはなかった。それはただ薄汚れて、縛り付けられた二本の棒にすぎなかった。


 何故?

 何故、輝かない?


 彼女を守ってくれるはずの十字架なのに。


 だが、何故?


 そうだ。何故。

 そもそも、何故、これが彼女の手にあるのだ?。

 美雪はようやくそのことに気づく。

 キリシタンを疑惑を抱かれ、略式とはいえ審問を受けた美雪の手に、何故十字架が残っている。

 美雪は持ち物の検査さえされていないのだ。


 鬼は嗤っている。勝利を確信した余裕の笑み。


 そのとき、不意に美雪は理解した。

 理解したような気がした。

 禁制のキリシタンの疑惑がある美雪に対して、役人たちが何故、特例まで設けてまで寛容な態度をとってくれたのか。


 恋歌は昨夜、大勢の男たちに襲われたという。

 そいつらのことは高村晋輔があしらってくれたらしいが、そもそも何故、そいつらは無関係の遊女を拉致するなどという凶行に手を染めたのだろう。

 恋歌は春風の指示で動く男たちに襲われたとき、そいつらを「寝ぼけているみたい」だった、と感じたらしい。

 それはまるで操り人形のようだったのかもしれない。

 あの鬼たちには、そういう力があるのかもしれない。

 かもしれない、だ。


 だが、今日の男たちはどうだっただろう。

 特に変わったようには見えなかった。

 それでも、もし、あの鬼たちに人を思い通りに動かす力があり、今日の役人たちがその影響を受けているのだとしたら。

 彼女は意図的に「逃げ道」を用意されたのだ。

 狩人が愚かな獣を誘導して屠るように。

 戦場で軍師が劣った指揮官を罠にはめるように。

 彼女は逃げる選択肢を提示され、救いのない袋小路に追い詰められたのだ。

 罠だった。


 これは罠だったのだ。

 もし、美雪の十字架が見つかり、美雪に対する疑惑が確信に変わり、美雪に対して行われるのが「取り調べ」ではなく「棄教を強いる拷問」であったなら。

 美雪は抵抗しただろう。

 棄教だけは受け入れられない、と死に物狂いで抵抗しただろう。それこそ命を賭して。命を捨ててでも信仰を守り抜こうとしただろう。


 だが、美雪には逃げ道が用意された。

 そして、美雪は選ぶ権利が与えられた。

 辛く苦しくとも、信仰を明らかにする道と。

 隠すという名目で、信仰をないがしろにさせる道。


 美雪は選んだ。

 選んでしまった。

 楽な道を。


 罠だ。

 罠だったのだ。


 鬼が嗤っている。

 その目にある嫌な光は。

 最大の武器を自ら手放した愚か者に対する軽蔑。




 そして。

 失望。

 美雪が正しく理解しているのなら、鬼は美雪の敵でありながら美雪が大きな力を失ったことに失望していた。


 鬼の手が、躊躇のない膂力で美雪の肩をつかむ。

 美雪は抵抗する。

「やめて」

 その声は震えていた。

 泣いていた。


 その瞬間、美雪は自分が負けたのを悟った。

 自分が敗北を認めたのを、美雪は知った。


 虚勢を張り、自分を納得させようとしたかりそめの信仰が剥がれ、自分が本当に「裸」になってしまったことを自覚した。

 自覚させられてしまった。


「いや……」

 自分の頬と目が嫌な形に歪む。

 それは最低の泣き顔だった。

 鬼の顔が近づく。

「やめて……」 

 美雪は鳴き声で懇願する。

 自分が悪魔に慈悲を求めていることを自覚した。


 もちろん、そんなもの、鬼は与えてはくれなかった。


 砕けるほどの力で肩が握りしめられる。

 近づく顔を拒もうとする手は軽くあしらわれる。


「やめて……」

 生臭い血の匂いを吐きながら、鬼がその口を近づける。

 鋭い牙を剥き、鬼が美雪の血流を求めている。

 恐慌を来たしながら、美雪はその女の顔を押しのけようとする。

 渾身の力で。

 奇跡を纏わぬ非力な女の力で。

 その美雪の力をものともせず、女は顔を近づける。

 こいつに噛まれたら。

 春風の変貌が鮮やかに思い出されていた。


 人としての姿を失い。

 人としての尊厳を失い。

 浅ましく残酷な欲望に突き動かされ、言葉も理性も失って。

 血を吸う獣に堕ちる。

 あの……醜い姿。


 いやだ。あんなのはいやだ。

 恐怖が理性を弾き飛ばした。

 顔が歪む。視界が涙で歪み、声が涙でひび割れる。

 お願い、と美雪は懇願した。

「いや。いや。いや。やめて。やめてください。お願い。助けて」


 鬼の吐息は臭い。吐き気がするほどだった。

 むせ返る様な血の匂い。

 そして、もしかしたら腐敗臭。

 腐敗さえ拒む不死の体から?

 だが、確かにそれは腐敗臭だった。


 拒み切れぬ魂の腐敗と嘲りを含んだ吐息が、美雪の喉に吹き付けられる。露わになった肩に鬼の口から垂れ流される涎がぼたぼたと落ちた。

 鬼は嗤っている。

 抑えきれぬ乾いた嘲笑が、腐敗臭とともに美雪を汚した。

 美雪は泣きながら暴れ、懇願した。


「いや。いや。いやだいやだいやだ。やめて。お願い……」


 それ以上は言葉を出せなかった。


 獣のように大きく口を開いた鬼の牙が、美雪の咽喉に突き刺さったのだ。 


 

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