72.郭へ
13/10/23 郭に戻った後の美雪との会話を追加。(次話は彼女の視点を予定しているので)
でも、大きな変更ではありません。
別に驚くようなことではないが、桜泉楼への帰り道で、恋歌たちの会話は盛り上がらなかった。
固い決意とともに出島に乗り込み、しかし恋歌は為すことなく帰って来た。
ところが出島に入ってはいけないはずの、出島には入れないはずの高村晋輔が必要な情報を手に入れてきた。ありうべくもない助言までつけて。
実際、恋歌の立場はなかったが、それでも彼は恋歌の失敗を挽回してくれたのだ。礼くらいは言うべきだろうし、恋歌は言った。
「ありがと」
「礼を言われるほどのことでもない」
高村晋輔はそっけなくそう応える。
それで会話は終わる。
それでも、確認すべきことはある。
高村晋輔が問いかける。
「結局、吸血鬼が苦手なのは……」
「太陽の光。キリシタン信仰の道具……っていうのかな。十字架でしょ。それから聖水だっけ?」
「でも、私、聖水なんて作れないわ」
と、美雪が申し訳なさそうに言う。
どうやら聖水というのは、キリシタンの中でもそれなりの地位にあるものしかできないらしい。こちらで言えば、坊主でなければ除霊のお札は書けない、というものだろうか。
だが、それは別に美雪が謝るようなことでもない。
恋歌は首を振って、気にしないように伝えた。
「それより、白木の杭で心臓を貫く、というのは……」
「夜は鬼の肉体は無敵なのだから、先がとがった木の杭くらいで貫けるとも思えない。多分、奴らが日中眠っている間なのだろう」
恋歌の疑問に、高村晋輔が思案しつつ答える。
「そうね」
恋歌は頷いた。
「色々教えてはもらえたけど、無条件で鬼を倒せるものってなかなかないのね」
「火、も絶対ではないみたいだしね」
と、美雪が重い口調で口を開く。
実際、そのことを考えると、本当に気分は重くなる。
小百合と高村晋輔によれば、吸血鬼は火を握りつぶしたのだという。
もちろん、それは彼らが火を恐れている証拠だと言える。
だが、恋歌たちにしてみれば、火を恐れて鬼が近づけないような絶対性を期待していたのだ。離れた場所から火を消せるなんて、ずるい。遊戯だとすれば反則そのものだ。
結局、恋歌たちは重い気分を抱えたまま、郭の暖簾をくぐった。
こちらも恋歌は驚かなかったが、高村晋輔は廓で歓迎されなかった。
恋歌、美雪に続いて彼が廓の暖簾をくぐった瞬間、廓の中のざわめきがはっきりと小さくなり、口をつぐんだ連中の目は恋歌と高村晋輔に向けられた。視線に釘付けにされたみたいに、高村晋輔は足を止め、自分を見る客と女たちを見渡した。視線には好意なんて、これっぽっちも含まれていないはずだ。
歓迎されていないのは、高村晋輔だけではないのかもしれない。それがわかっていたから、恋歌はわざわざ彼らの目を見返したりしなかった。
それでも恋歌の足は勝手に止まる。
前を歩いていた美雪が振り返るが、恋歌は手を振って、先に行かせた。
「先に行ってて」
「わかった。またあとでね」
「うん」
恋歌は頷いた。
少しぎこちないがそれでも笑顔は浮かべられている、と自分で思えた。
そのとき、声が彼女を呼んだ。
「恋歌」
勿論、好意がないから、と、こちらが見なければ相手が遠慮してくれる、などと期待したわけでもない。振り返るまでもない。が、振り返るしかない呼び声。
「楼主」
自分にできる最上級の笑顔で振り返る。
本来ならこれだけで普通の男が一日に稼ぐ分くらいを請求していい微笑だと恋歌は思っているが、勿論、楼主は笑顔など返してはこない。恋歌は楼主が心の底から笑っている顔を見たことがなかった。ただ一度、楼主が自分の部屋の中で金を数えているのを盗み見た時を除けば、だ。
「首尾はどうだった」
答えを知っている質問者というのはたちが悪い。
恋歌が逡巡していると、楼主はもともと細い目を更に細くして煙管を吸った。来る、と目を閉じた恋歌の顔に、予想通りに煙を強くふきつける。
「なんでこんなに早く返ってきた?」
死にたくないから、と心の中でだけ答える。
「なんでそんなに足取りが軽い?」
「え?」
「破瓜したばかりの女が、そんなにひょいひょい歩けるわけないだろう」
大きなお世話だ。
「恋歌……?」
「すみません」
二度目の問いかけに、恋歌は頭を下げた。
「転んで頭ぶつけちゃったんです」
「おまえがか?」
「いえ、相手の人が……」
「…………」
「それでぶつけどころが悪かったらしくて、動かなくなっちゃって……」
嘘ではない。
スヴェンは確かに頭を打ったし、激しい運動は禁じられた。
もちろん、その後のゴタゴタは、また別の話だ。自分の抱える遊女がカピタン相手にキリスト教について尋ねたなんて、楼主も知りたくなんかないだろう。
そう思い、必要な部分だけを答えた恋歌だったが、楼主はひどく落胆した様子で目を閉じ、肩を落とした。
目を閉じたまま、楼主は平坦な声で尋ねる。
「……なんでそんなことになる」
「それは……」
恋歌は答えられない。
スヴェンの怪我に関しては、恋歌には後ろ暗いところがある。かなりある。
「あいつが何かやったんじゃないだろうな?」
楼主は、開いた目を恋歌の背後にやりながら聞いた。
振り返るまでもない。高村晋輔のことだ。
「このことにあいつは関係ないですよ」
と恋歌は答える。
このこと、とはスヴェンが怪我をしたこと、だ。だから、高村晋輔が関係ないと、正直に答えられる。それ以外のことで高村晋輔が何もしなかった、とは言えない。全然言えない。
だが、それは言う必要のないことだ。恋歌はそう考えることに「した」。
その躊躇が伝わったのかもしれない。
「関係ないけど、何かやったのか……?」
「……私は出島に行ったんですよ?」
それは事実だ。
そこから何を汲み取るかは、人それぞれだろう。
だが、楼主は恋歌の望んだとおりの推論を続けてくれた。
「……そうだな。もちろん、そうだ。無関係のものが出島の中でのことに立ち入れるわけもない。そうだ、そうだったな。奴に何かできるはずがないんだ」
そう呟いて、楼主は頷いた。
後半は強引に自分を納得させようとしているようにも思えたが、恋歌は何も言わなかった。もっとも、それから十を数える間もなく、後悔することになったが。
高村晋輔が関係ない、という結論に達したのだろう。
楼主はそれで納得し、それから翻って、思考をさかのぼった。
「……ということは、問題はやはりお前か」
「うっ……」
これもまた、否定できない。
まったくできない。
別にオランダ人に抱かれたかったわけではないのだ、と主張するわけにもいかず、恋歌は答えに窮した。
その恋歌をしばらく見つめ、楼主は再び肩を落とした。
「………………おまえは疫病神か」
怒るきっかけを失ったようで、楼主は絶望的な表情で頭を抱えた。何故だ、何故だ、と伏せた顔で呟く。
「俺が間違っていたのか?女衒の野郎から、とんでもない貧乏くじを引かされたってわけか。でも、これだけの美貌なら、賭けてみたくもなるさ」
くそっ、と誰にともなく悪態をつき、それから楼主は再び恋歌の背後に目をやった。
「それでだ、恋歌」
「はい?」
「あれはなんだ」
振り返ると、高村晋輔は懐に手を入れていた。何を探しているのかと思って見ていたら、彼は何かの布を丸めたものを取り出した。それから無造作に大刀を引き抜き、目の前に立てる。晋輔や恋歌が何も騒動を起こさないので戻ってきていたざわめきが、一瞬にして消え、廓の中は静まり返った。
郭で太刀を抜き、垂直に立てて眺める男。
恋歌は慌てて、高村晋輔を怒鳴りつける。
「ち、ちょっと、あんた何をしてるのよっ」
「準備だ」
「何の?」
遊女の一人が怯えながら晋輔に訊く。楼主は恋歌の顔を覗き込みながら訊いてきた。
「そうだ、何の準備だ?」
「さ、さあ」
「何故、あいつがここにいる」
「…………」
恋歌は答えを探した。
あるいは、楼主が言いつけた用事はもう終わったのだろうか。
不器用なりに高村晋輔は真面目に過ごしていた。
とても不器用ではあったが、二階の雨戸の修理もしていた。
本当に不器用ではあったが。
とはいえ、楼主が聞く「何故、ここにいる」の「ここ」とは、客が集まる入り口のことだろう。本来なら、用事がなければ、地階の部屋にでも引きこもっているべきなのだ。
恋歌は、楼主を納得させる答えは思いつかなかったが、高村晋輔が勝手に作り出した。
彼は、突然、財布を落としたのだ。ずしっという重みと微かな金属音が誰の耳にも聞こえた。楼主の耳には財布の生地が擦れる音まで聞こえただろう。短い沈黙の後、楼主は、急に得心したように頷いて見せた。
「そうか。さすがだな、恋歌」
「…………」
「自分で客を引いてきたか」
「……はい?」
「仕方ない。本当ならあんな端金ではお前は売れんのだが。お前の考えているとおり、今となっては、買いたたかれるのはどうにもならんだろう」
「…………いや、あれは……」
「違うのか?」
笑顔を見たことがなくても、不機嫌な顔というのはわかるものだ。恋歌は刻一刻と不快さを増して行く相手の顔と、まだ体に残る痛みを天秤の一方に乗せた。もう一方には高村晋輔に対するいらだちと、あんな奴に抱かれてたまるかという矜持を乗せる。意外なことに、矜持が勝った。胸を張り、顎を突き出して首を左右に振る……つもりでいるのが楼主に伝わったようだ。煙管が恋歌の胸を押した。天秤が揺れ、片方に恐怖がもう一枚乗って、天秤はひっくり返った。
「あたしの客にします」
「廓の女はそうでなくちゃならん」
「…………ありがとうございます」
まあ、いいや。と恋歌は諦めたように頭を下げた。
もう、どうだっていい、と思っているのは、実は楼主も同じだったのだが。
楼主は手を叩いて若衆を呼び、すぐに水揚げの準備をするように指示した。
ちょっとした騒ぎになった。突然の突き出しだから、というのも理由だったが、それ以上に「お騒がせの二人」が枕を並べるということが皆の好奇心をかき立てた。
楼主はあまり騒がなかった。
どうせ動くのは端金だ。それもモノの善し悪しもわからぬ小僧が一人。手間も金もかける必要がない。
「膳には余り物と酒だけのせておけばいいだろう」
間に合わせで十分だ、と恋歌の目の前で若衆に言った。恋歌は楼主には何も言わなかった。
だが、若衆が、
「そうですね」
と答えたときには、軽い殺意を抱いた。




