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70.トーマス・ファン・ラヘー5

活動報告にも書きましたが、パソコンが壊れました。

更新速度は、また遅くなります。

すみません。

「消えた……」

 トーマス・ファン・ラヘーは呆然と呟く。


 女は嗤っていた。

 最後まで彼女は嗤っていて、そして彼女は消えた。

 初めは目の錯覚かと思った。吸血鬼の足元から煙が噴き出したように見えたのだ。煙にしては、炎を伴っていなかった。

 まるで霧だった。

 女の足元から霧が湧いてきたのだ。

 いや。

 女の体が溶けて、霧になってゆくのだ。

 女の体が完全に消えるまでに、大した時間はかからなかった。

 ラヘーは動かなかった。

 サユリも。若侍も。



 だが、緊張は解かない。解くわけにはいかない。

 相手は吸血鬼だ。いきなり現れ、いきなり消える。

 だから、また現れて襲いに来るかもしれないのだ。

 ラヘーは立ち上がり、だが、腰を落として身構える。


 だが、その隣で若侍は、カタナを鞘に納めていた。

 鋭い刃が収まる音と同時に少年の体から緊張感が抜ける。

 ……おい。

 ラヘーは唖然とする。

 見えなくなったからと言って、安全になったと判断するには早すぎるだろう。

 単純な若者の早とちりに、ラヘーは抗議する。

「何をしている」

 ラヘーは問いかける。

 が、もちろん、若侍には通じない。

 苛立ちながら、ラヘーはサユリに視線を向けた。

 訳せ。

 視線だけで伝わったのだろう。

 サユリは日本語で若侍に話し始めた。

 若侍は退屈そうに、だが小さな苦笑いを浮かべて、ラヘーに顔を向けた。

 そうして若侍が言った言葉をサユリが翻訳したのは、

「あの女が自分で楽しんでいいのはこの辺までなのだろう、と彼は言っています」

 ということだった。

 意味が分からない。

 そう伝えると、サユリは若侍と少し日本語で会話してから、その内容をラヘーに伝えた。


「あの女は、楽しみを別の男に残したのだそうです。彼女がここで彼を殺してしまっては、その男の楽しみを奪うことになるのだそうです」

「男、というのは?」

「彼が言うには、もう一人吸血鬼がいるそうで、そいつは男なのだ……そうです」

「その男に楽しみをとっておいてやるために、私たちを本気で殺すことはなかった?」

「このお侍はそう考えています」


 何故、そんなことがわかるのだ。

 ラヘーには、そのことがわからない。

 だが、あの女の笑い方。

 確かにラヘーたちは遊ばれていた。

 この若侍の考えがあてになるかどうかは別として、その考え方は少なくともラヘーを納得させるものだった。


 もし、若侍の言うことが正しいのだとしたら、とりあえずラヘーたちは命拾いをしたことになる。

 だが、同時にそれは吸血鬼の再来をも意味している。

「また、奴らは来るのか」

「……それはないだろう、と彼は言っています」

 ラヘーの問いかけに、サユリは若侍との短いやり取りののち、そう答えた。

「何故、そう言える」

「狙われているのは自分であって、カピタンは巻き込まれただけだから、だそうです」

「彼がそう言っているのか?」

「……はい」

 信じられるのか。

 わからない。

 そもそも他人どころか、もはや人間でさえない者の考えなど、どうしてこの少年に理解できるだろう。

 ラヘーは、しかし、短い逡巡ののち、その根拠のない意見を信じることにした。


 肩の力を抜く。

 若侍に引きずられ、あちこち擦り傷ができている。正直、かなり痛い。

 だが、やはりこの若侍には感謝すべきなのだろう。そのくらいはわかる。


 一方、ラヘーから翻訳の要求が途切れると、サユリは早口の日本語で、若侍を低い声で責め始めていた。

 その理由はラヘーにもわかる。

 こんな監獄のような人工島に、わざわざやってくる非常識を責められているのだ。


 何故彼がやってきたのかはわからないが、あまりにリスクの高い行為であることは間違いない。


 いや、彼は最初に問うたはずだ。

「レンカという女がここに来ていないか?」

 彼はあの遊女を心配してきたのだろう。

 可哀そうな丸山遊女。


 この国では迫害される信仰を胸に秘め、この息苦しい人工島を訪れた美貌の遊女。


 吸血鬼などという言い訳まで作って、オランダ人とのつてを作ろうとした……

 

 いや、そうではない。

 そうではないのだ。

 吸血鬼は実在したのだ。

 あれは、キリシタンがオランダ人と接触するための稚拙な言い訳ではなかった。


 では、あの遊女はキリスト教徒ではないと断言できるか。

 それもまたわからない。


 少なくとも、彼らは吸血鬼に対抗する最良の手段がイエスへの信仰だと知っていたのだ。それはやはり、彼らの中にキリスト教の知識があることを示している。


 ラヘーは神を信じている。

 もちろん、神を信じている。

 ラヘーの中にも信仰はある。


 だが、優先すべきことがあった。

 利益だ。

 会社のため、国家のために、ラヘーの務めは少しでも多く利益を出すことだった。


「君たちの神はそれだ」

 そう言ってオランダ人に投げられたコイン。

 オランダ人に対する痛烈な皮肉。


 いいだろう。

 それで1ギルダーでも多くの利益を見込めるのなら、コインを神と崇めてやる。

 ラヘーはそう考えていた。


 だが。


 吸血鬼は存在した。

 悪魔の手先は存在する。


 それは皮肉なことに、逆に善なる神の存在をも証明して見せていた。

 信仰は経済活動の合間に飾るアクセサリーとは違う、ということが証明されたのだ。


 そして、ラヘーの脳裏には、先ほど追い返した遊女のことが思い出されていた。


 何故、自分は戦わなかったのだろう。

 もちろん、トーマス・ファン・ラヘーは非力だ。

 不死の怪物と戦って勝てるはずはない。

 だが、奴らは信仰の証となるものに弱い。例えば十字架。あるいは聖水。

 キリスト教を禁じたこの国で十字架を首から下げていることはできないが、それでも聖書の代表的な部分を暗唱するくらいはできる。

 だが、ラヘーはそれさえもしなかった。



「君たちの神はそれだ」


 もちろん、そんなことはない。

 オランダ人だって、他の国の者に負けないくらい強い信仰心を持っている。

 だが、少なくともこの国においては、それを声高に主張することはなかった。

 利益。

 それを守ることがラヘーたちの目的だった。何よりも大切な目的だった。


 それを恥ずかしいと思ったことはない。

 そのことに疑問を感じたことはない。

 今までは。


 だが。

 それでいいのか。

 ラヘーは自分に向けた問いに自分で答えることができず、茫然と立ち尽くした。


 そのとき、若侍が再び思い出したように尋ねてきた。

「ところで、レンカという女が来ていないか?」


 若侍は、もう一度ラヘーに尋ねる。

「レンカを知らないか?」

 レンカ。

 先ほど彼が突き放した遊女。

 だから、ラヘーは答える。

「彼女は返した」

 オランダ語を彼は解するだろうか。

 もちろん、この若侍は解さなかった。


 ラヘーはサユリに状況を話し、少年に説明させた。

 その言葉の何に反応したのかはわからない。

 不意に少年は、眉をひそめた。

 そしてラヘーに向き直った。

「お前」

 と、若侍がラヘーを見据える。

 彼が相手に聞かせようとゆっくり話しているからか、比較的聞き取りやすい日本語だった。

 それだけに、彼の声が低く落ちた理由を理解できた。

 怒りだ。

「お前、レンカの頼みを断ったのか?」

 サユリが通訳し、ラヘーはその言葉の意味を知る。

 やはり、若侍はあの少女の知り合いらしい。

 ということは、この少年もクリスチャンなのだろうか。

 あるいは、この少年こそがあの少女の「背後」にいると感じたキリスト教徒なのかもしれない。


「何故拒んだ。あいつはお前たちを信じていたのだぞ。レンカがどれほどの気持ちでここに来たと思っている」

 サユリが躊躇いがちに翻訳する言葉が、ラヘーを責める。

 その気持ちは、ラヘーにも理解できる。

 だが、だからといって簡単に節を曲げるわけにもいかない。


「会社の利益に反する」


 その言葉を口にしながら、ラヘーは初めての逡巡を感じていた。

 自分の行動原理の第一原則。

 それを主張することに対して、初めてラヘーは躊躇った。

 それでいいのか。

 わからない。

 ラヘーは躊躇っている。


 だが。

 ラヘーの躊躇いは言葉になっていない。

 ラヘーの後悔は、サユリに翻訳されない。


 そして彼が伝えた自らの行為は、若侍の静かな怒りを買ったらしい。

 右手で掴んだ刀のつばが親指で押された。


 その意味を、もちろん、トーマス・ファン・ラヘーは理解していた。


 この若い少年のような侍は、出島でカピタンに対して抜刀しようとしている。

 あり得ないことだった。

 そもそもここに入ること自体、常識のある人間なら試みない。

 ここに入ること自体が幕法に反し、しかも、捕えられる公算が極めて高い。

 そんな場所で、オランダ側の最高責任者を殺傷するなど狂気の沙汰としか思えない。


 サユリが血相を変えてその手にしがみつく。

「DAME DAME DAME! BAKA Na Mane wa Yamete」

 若侍はラヘーを睨んでいる。

 その目に、保身の色はなかった。

 自分がこの「国営の監獄」から生きて出るために、彼はこれっぽっちの保身さえ望んでいないのだ。


 サユリがその手を離したら、ラヘーは本当に一刀で斬られるかもしれない。


 ラヘーは生命の危機を感じながら、それでも、もめ続ける彼らに近づいた。

「なんで近づくのっ。逃げて。逃げてくださいっ!」

 サユリが叫ぶ。


 彼女に顔を近づけて、ラヘーは話し始めた。

「彼に伝えてくれ」

「いいから逃げてくださいっ」

「吸血鬼を殺す方法はいくつかある、とされている」


「え?」


 思わずサユリが止まる。

 その手から力が抜けそうになり、若侍がカタナを抜こうとする。

 それで慌てて、サユリはしがみつく。


 そして彼女は叫んだ。


 その言葉がどういう日本語であったのかはラヘーにはわからない。

 だが、その言葉で若侍は止まり、驚いた表情でラヘーを見上げた。

 その顔に、ラヘーは言葉を続けた。

「すまなかった。私が彼女を追い返したのは間違いだったかもしれない。今更彼女に教えることはできないが、君から彼女に伝えてくれ。私の知る限りのことを教えよう」

 サユリが驚いた顔で翻訳をつづける。

 ラヘーが続ける言葉を、逐一若侍に伝えている。

 ラヘーは、自分の知ることを教えた。


 吸血鬼は日光に弱い。

 なので、昼間はどこか暗い所で眠っている。

 そして、吸血鬼は十字架を怖れる。

 吸血鬼は聖水に弱い。


「聖水に弱いのは勿論だが、それだけでなく、流れる自然な水に弱いともされている。それらは生命の象徴であるからだ。そして彼らはニンニクを嫌うらしい。理由はわからないがね」


 あとは何があっただろう。

 吸血鬼は首を切り落とされると死ぬ。

 心臓に白木の杭を打たれると死ぬ。

 それと……銀の武器があれば、それは吸血鬼に対して有効かもしれない。


 ラヘーはそれらを伝え、そこでほんの少し沈黙した。

 サユリが次の言葉を待ち、若侍もまたラヘーからもたらされる知識を待っていた。


 吸血鬼に関する知識など、一般のオランダ人にとっては噂話程度のものでしかない。ラヘーだって、それほど多く持ってはいない。

 だから、伝えるべきことはもうないのかもしれない。

 だが、ラヘーは再び話し出した。

 何も残すわけにはいかない。今、自分は神に見られているのだ。ラヘーはそれを確信していた。

 サユリの顔色が更に変わり、蒼白になってゆくのを視界の隅で見ながら、ラヘーは自分が「伝えるべきこと」を話しつづけた。

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