7. 鬼
一瞬前まではいなかった。ただ、濃密な闇の中で何かが揺らめいただけだった。そして今はそこに善次郎よりも頭ひとつ高い人影があった。頭から大きな布を被っていて、顔は見えなかった。正確には布というべきではないのかもしれない。それは衣服の一部のようでもあった。袖もあり、顔を出す穴も開いてはいるが、一枚の大きな布を頭から被っているような、簡易だが奇妙な服だった。頭も目も隠れた中で、異様に赤い唇が死者のように青ざめた肌に貼りついているのだけが、恋歌には見えた。
善次郎が振り返った。
恐らく善次郎にとっては、敵は前にだけいて、そいつの性格は把握できていた。くそ真面目な高村晋輔は彼に指一本触れることはできないはずで、善次郎はこの窮地を逃げられると確信していたのだろう。それなのに不意に現れた気配に、善次郎は反射的に振り返った。彼は怯えてはおらず、まず背後の気配が何かを知りたがったのだ。
美雪は正しく行動した。
彼女は好奇心よりも恐怖心を優先させていた。善次郎の腕の力が瞬間的に緩んだのを感じた彼女は、渾身の力で善次郎の腕から逃れ、必死で恋歌たちの方へと足を踏み出した。彼女が振り返らなかった背後の人影は、本来は彼女を見ていた。節くれ立ち、指のねじ曲がった白い腕は彼女を捕らえるために伸ばされた。彼女が刻んだ僅か二歩が、その腕から彼女を救ったのだ。
高村晋輔は何が起きたのかわからないながらも、仇に隙ができたことを見て取り、一歩だけ踏み出して、しかし、その場で静止した。その間に、美雪は武器を持つ晋輔の背に隠れた。
そいつは大きかった。そして更に大きくなろうとしていた。善次郎よりも頭ひとつ高かった背が、更に頭ひとつ分高くなってゆく。善次郎を除く三人が、そいつの足元を見て、その男が地に足をつけていないのに気づいた。そいつは首でも吊っているように身体を宙に浮かせていた。もちろん、首に縄などつけてはいない。そしてそいつの唇は笑っていた。美雪を求めて空振りした手を下ろすこともせず、ただ空中に浮いて笑っていた。
「なんだ……お前は……」
善次郎が嗄れた声で誰何した。
「なによ、あんた……」
恋歌の誰何も嗄れている。
答えはなかった。そいつは視線を善次郎に向けていた。その腕を善次郎の方へ動かし、彼の肩を掴んだ。その腕は青白く、細かった。老人のようにひ弱そうだった。そして、大して力を入れているようにも見えなかった。それなのに、その腕が、ひ弱で力を持たないその腕が、善次郎の肩を砕いた。
善次郎が悲鳴をあげなかったために、その音は三人の耳にはっきりと届いた。凄まじい痛みが彼を襲ったはずだが、彼は目と口を大きく開けて相手を見つめるだけだった。
口からほとばしるべき恐怖と苦痛の叫びは、彼の喉元で凍りついているようだった。
恋歌から見える善次郎の横顔の中で、目だけが彼の叫びを伝えていた。
その視線を正面から受けながら、そいつはゆっくりと首を傾け、笑みで歪めた唇を微かに開いた。
開いた唇は赤く濡れていた。
そしてその中に「それ」があった。
真っ赤な唇の奥には、血の気のない口腔があり、その小さな暗闇の中でそれは浮き上がって見えた。暗色に支配されたそいつの顔の中で、それだけが白く、輝いてさえ見えた。
上唇の奥から僅かに湾曲しながら、下へとのびた骨。先端は鋭く、犬や猫の歯よりも尖っている。
「……まさか」
しかし、それは確かに牙だった。恋歌の知るどんな獣よりも鋭く大きな二本の牙が、そいつの口からあらわれていた。
……こいつは何だ。一体、何者なの?
「鬼……」
美雪が囁くように呟いた。
それは恋歌の頭にも思い浮かんだ言葉だった。
牙を持ち、死者のような肌色。そして宙に浮いている。
人間じゃない。人間ではあり得ない。
そいつは化け物じみた力で、善次郎を引き寄せた。引っ張られた勢いで、善次郎の頭が、風に吹かれた稲穂のように揺れた。善次郎の喉がそいつの牙の前にさらされた。
鬼は躊躇うことなく、善次郎の喉に食らいついた。
「……っ」
美雪が小さく息を吸い込んだ。
幸いにも、恋歌にはそいつの口元は見えなかった。だが、そいつが伏せた顔を揺らすたびに聞こえてくる血を啜る音はどうしようもなかった。
善次郎は抵抗していた。自分の喉笛に食らいつく顔を引き剥がそうと半狂乱になっていた。今では自分を抱きかかえる鬼の身体を殴り、蹴り飛ばそうとしている。悪態をつく彼の声は、しかし、はっきりとは聞き取れなかった。喉に痰でもつまっているかのように、喉がごろごろとなっているだけだ。その間にも善次郎の顔から、手から、足からは赤みが消え、蒼白になってゆく。彼は生者の地位を失い、死者へと転落しつつあった。頬がこけ、目は虚ろになり、体中から生気がきえる。やがて善次郎の腕から力が抜け、だらりと落ちた。
恋歌はその光景から目をそらすことができなかった。高村晋輔でさえ一歩も動けずに、自分の敵が突然の闖入者に殺されるのを黙って見ていた。
気がつくと、鬼は地に足をつけており、鬼が腕を離すと、つい今し方まで善次郎であった肉体は、意外に軽い音とともに倒れた。
そして、鬼が恋歌たちへ目を向けた。
息が詰まった。
突然周囲の空気が固化したみたいに息が吸えなくなった。恋歌は、自分が人形になってしまったみたいに動けなくなった。
殺される、とは思わなかった。
食べられる、と恋歌は思った。
目の前にいる怪物が、自分たちを殺す正当な捕食者なのだと、本能に根ざす部分が恋歌に教えた。
美雪は晋輔の後ろで震えている。高村晋輔は太刀を強く構えた。構えは微動だにしなかったが、彼がつばを飲み込む音が恋歌にも聞こえた。
恋歌は、やはり何もできずにいた。
美雪は口をぱくぱくさせている。念仏でも唱えているのかもしれない。
その声は恋歌の耳には届いていなかった。耳元で叫ばれたとしても、恋歌には聞こえなかったかもしれない。鬼は恋歌を見ていた。依然として頭から被った袋のような服で、そいつの顔は見えていなかったが、恋歌は何故か自分が見られたと感じた。確信していた。
そいつは血濡れた口で笑っていた。
そして、高村晋輔が動いた。
彼は速かった。
彼の動きは速く、そして無駄がなかった。
彼の太刀が鋭い粉を描いたとき、鬼は動いていなかった。高村晋輔の動きに鬼はまったく注意を払っていなかった。回避どころか、防御の姿勢さえとらず、無防備に晋輔の太刀の下に身をさらしていた。
太刀は袈裟切りに鬼を両断する……はずだった。
晋輔の太刀は一瞬も速度を弛めることなく、旋回した。晋輔は完全に太刀を振り切っていた。
恋歌は見ていた。
目をこれ以上なく大きく開き、目の前で高村真輔が繰り出した斬撃の軌跡を網膜に焼き付けた。
美しい動きだった。
一瞬の斬撃だった。
だが、そこに鬼はいなかった。
晋輔は素早く太刀を引き、身体の体勢を立て直しながら、飛び下がった。恋歌の目から見ても、晋輔は動揺していた。今の太刀筋をかわせるはずがないのだ。
鬼はいなかった。
晋輔も、恋歌も、美雪も周囲を見渡し、鬼の姿を探した。完全に無防備な姿勢から、神速とさえ言える晋輔の剣を一瞬にして避けた鬼の姿を。
鬼はいなかった。
鬼はどこにもいなかった。
三人は暗闇の中から再びあの姿が現れるのを怖れ、忙しく振り返り、目を動かした。しかし、もう濃密な闇はただの影でしかなく、何者も隠してはいなかった。鬼は現れたときと同じ様に唐突に消えてしまっていた。
「あ……」
美雪が何事かに気づいたように声を上げる。
素早く振り返った恋歌は、そこではじめて善次郎の姿も消えてしまったことに気づいた。
「俺の仇が……」
高村晋輔が、間の抜けた呟きを口にした。
恋歌は笑ってやろうかと思ったが、少しもおもしろくないのに気づいてやめた。
やがて、三人の安否を気遣う声が、地上階から聞こえてきた。
ファースト・コンタクトでしたので、少しあっさり、かな。
ここまでで一日目です。