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69.トーマス・ファン・ラヘー4

 自分はこの若侍に守られている。

 ラヘーはそれを理解したが、だからと言って、すぐさま何かが変わるわけでもなかった。

 ラヘーが反応するには、すべてが目まぐるしく動きすぎていた。


 女吸血鬼の指先を「蹴って」、少年の体が翻る。

 彼はまた、ラヘーを引きずり倒そうとしている。引きずり倒そうとしてくれているのだ。傷だらけ泥だらけになったラヘーには、感謝の念を感じるのが難しいとしても。


 だが、少年の手は、ラヘーの襟首を離れていた。たった今、ラヘーが振り払ったからだ。

 だから、少年はラヘーの髪を掴んだ。

 彼の怒鳴り声がラヘーの耳朶を打つ。


「飛べっ」

 今度はその平易な日本語が理解できた。


 座り込んだラヘーは、そのままの姿勢から足に力を込める。

 考えるより先に、本能が少年の指示に従った。もちろん、座った姿勢から跳躍などできない。それでも、その不自然な姿勢から、体の重心はわずかに浮き上がり始める。

 その髪を若侍の手が引っ張る。自らの体を女から蹴りはがしながら。

 ラヘーは引きずられる。

 頭髪を引かれ、首が不自然に曲がる。グキッ、と音がして、首が痛んだ。

 その眼前を女の手が掠めてゆく。

 青白くひび割れた指が空振りする。

 

 そして、背中から倒れたラヘーのすぐ上を女が掠めてゆく。

 やはり、女は笑っていた。


 ちくしょう。

 ラヘーは頭をうち、頬を擦りむき、それでも少年の指示に従って体を動かし続けた。

 ……跳べ。右だ。左だ。後ろだ。

 ちくしょう。

 少年の手には刀がある。

 あれで戦えばいいではないか。

 ラヘーは疲労と痛みにふらつきながら、そうも考える。


 そう考えながら、けれど、それが不可能なのだ、と悟ってしまう。

 この若侍は、女吸血鬼の指先を踏み台にする。

 たかが軽く伸ばされた指先が踏み台になるほど強固な力を持っているのだ。

 吸血鬼に刃は通じない。

 それはそうだろう。簡単に刃物で傷つけることができ、それがそのままダメージになるのなら、吸血鬼など怖るるに足らない。刃の通じない頑強な体。訪れるはずの死を拒絶する不死の肉体。それを誇るのが吸血鬼なのだ。

 少年はそれを知っている。

 だから、少年はひたすら逃げているのだ。

 逃げるために相手の頑強さを逆手に取り、自らの敏捷さだけを武器にラヘーを怪物の手から逃がしている。

 彼には戦えない。

 彼には、他に選択肢がないのだ。


 いや。


 違う。本当はもうひとつ選択肢はある。

 ラヘーは、今やそれを知っている。


 女はラヘーを狙っていた。

 その手はラヘーに伸ばされていた。


 ならば。

 少年はラヘーなど放っておけばいいのだ。

 

 自分ならそうする。

 自分の武器が役に立たず、相手を倒すことはできない。そして狙われている男は自分とは無関係で、そいつが死んでも自分には何ら損はない。

 だったら、そんな男のことは放って、自分だけ逃げればいいのだ。

 それを責める者はいない。それを責められる者なんているはずがない。


 もちろん、この若侍が出島に侵入した目的にラヘーが関わっている可能性はある。だが、実のところ、その可能性は低いとラヘーは思っていた。

 彼はレンカのことを訊いていた。ラヘーになど全く関心を持っていなかった。

 あるいは、少年は自分が助けている男が、この出島におけるオランダ側の最高責任者なのだとわかってさえいないのではないか。

 ラヘーはそんな風に思うのだ。



 女は、執拗に追ってくる。

 それを死に物狂いでかわす。

 その度に、女は笑う。嗤う。哂う。

 その戯れるような動きから、こちらは死に物狂いで逃げ回る。

 女は、苛立たない。怒らない。

 彼女は嗤う。愉快そうに。


 ラヘーはひたすら引きずられる。繰り返し。繰り返し。

 だから、自分の位置をゆっくり確認する余裕はなかった。

 彼にとっては、少年の叫びに従って自分の重い体を持ち上げ、そして襟首を掴んで引き倒されることの繰り返しだった。

 向きは変わる。

 東に倒されると今度は西へ引きずられる。

 その度に口の中に砂が入った。

 傷口に砂をすり込んだ。


 引き倒そうとするその力に差があることなど、彼には理解できていなかった。


 だから、少年の行動は、ラヘーにとっては突然で、その意味をすぐには理解できていなかった。


 幾度も繰り返したように、ラヘーは背中から引き倒された。

 だが、その先が今までと違った。その瞬間、若侍は自分が前に出ながら、ラヘーの襟から手を放したのだ。


 今まで少年の手は、ラヘーを引き倒しながらも、最後の瞬間には逆に持ち上げるように上向きの力を加えてくれていた。

 だから、ラヘーは後頭部を強打しないですんでいたのだ。

 だが、少年が手を放したことで、ラヘーの体を衝撃から守ってくれる力はなくなった。

 ラヘーは背中を打ち、ほとんど同時に後頭部を地面に叩き付けた。

「っ……」

 息が止まる。

 頭蓋の中で星が炸裂し、夜空が白濁して輝いた。

  

 明滅する視界のなかで、若侍が剣を旋回させる。

 その顔が一瞬、視界に入り、ラヘーは困惑する。

 反応はしない。

 反応できるような時間ではない。

 ただ、少年の視線がラヘーでも吸血鬼でもなく、カムロのサユリを捉えているのをラヘーは見た。そして若侍は剣を振りぬき、だが、吸血鬼の肌に刃を止められた。

 石壁でも叩いたように剣は止まる。

 吸血鬼は止まらない。剣を弾きながら自らはラヘーの体を掠めて通り過ぎる。

 少年は驚いていなかった。カタナを生身の体に止められながら、それでも少年はその反動を利用して自分の体を前進させた。

 転倒したラヘーを残して、吸血鬼と若侍の位置が変わった。



 そして。

 若侍は、小百合の手から提灯を奪い取った。


 炎。


 もちろん、それは吸血鬼の弱点だった。

 ラヘーも本物の吸血鬼など見たことはなかったが、その程度の知識は吸血鬼の噂話と同時に耳に入っていた。

 炎こそは、信仰に寄らずしてすべてを浄化する力だ。

 むしろ、自分こそそのことを最初に思い浮かべるべきだった。

 ラヘーはそう思い、考えの至らなかった自分に苦笑いを浮かべる。もっとも、口の中の傷が痛み、ちゃんとした笑顔にはならなかった。

 だが、炎を手にした以上、吸血鬼もこちらには簡単に手は出せない。

 そう考え、ラヘーは、機転を利かせた若侍に心の中で賛辞を送った。


 吸血鬼は黙って見ている。


 見ているしかないだろう。

 噂によれば吸血鬼にとって、炎は最大の弱点の一つだ。

 

 その苦手な炎を見せつけられて、こちらに突っ込んでくるほど相手が馬鹿だとは思えない。

 それでもわが身の安全を願う限りにおいて、ラヘーは、今夜のところは「助かった」と思えた。


 吸血鬼は黙って見ている。


 ラヘーはにやりと笑った。


 吸血鬼がにやりと嗤った。


 その笑みの意味が、ラヘーにはわからなかった。

 それは、余裕の笑みだった。

 女は首を傾け、上目づかいでラヘーたちを見た。

 笑っている。嗤っている。


 その笑みが恐ろしくて、ラヘーは怖気に震えた。

「なんだこいつ。まるで……」

 ラヘーは呟いた。呟く声は震えていた。


 そのとき、傍らの若侍も、同時に呟いていた。

 ラヘーはその日本語がわからず、若侍にもラヘーのオランダ語はわからなかった。


 だが、それでも若侍の言葉はラヘーの言葉を引き継ぐように呟かれたのだ。


……まるで、遊戯に興じてでもいるようだ、と。



  *



 遊戯に興じていた。

 彼女は予想外にやりがいのある遊戯に興じていた。


 おもしろい。


 ゼンジロウがハマるのもわかるかもしれない。


 この少年は神への信仰を武器としていない。

 彼の握る刃は、彼女たちには意味をなさない。

 それなのに、こいつは彼女の手から繰り返し逃げていた。


 吸血鬼の禁忌を知らぬ者には遮ることのできぬ飢えた手。

 血を渇望してやまぬ貪欲な指先。

 だが、こいつは敵わぬはずの相手の絶対的な力を逆手に取り、捕食者から自らを引き離す足場にしていた。

 面白い。

 こんなやり方があろうとは。

 いや、こんなやり方は、誰にでもできるものではない。

 無駄に刃向わぬ潔さ。それを支える冷静な判断力。そして、鼠のような敏捷さ。


 面白い。

 本当に面白い。


 あげくに目の前の少年は、炎を手にしたのだ。

 そいつの安堵がわかる。

 隣にいるオランダ人の高揚感がわかる。


 炎は吸血鬼にとって弱点だ。


 だが。


 だからこそ。


 彼女は嗤い、背筋を伸ばす。

 そして、右手を伸ばした。


 人間にとって、炎とは熱と光の塊にすぎない。

 遠ざかれば、単に夜道を照らす便利な存在として重宝する程度だ。


 だが、闇に属する汚れた存在にとっては、炎はそこにあるだけで脅威だ。

 その存在そのものが、彼女たちを威嚇し、脅かす。

 その熱を感じずとも、体を焼かれる痛みを感じる。

 その光が見えずとも、魂を焦がす苦痛が苛む。


 距離は関係ない。

 触れなくても、意思を持たぬ炎の「悪意」を感じるのだ。


 だから。


 だからこそ。


 彼女は右手を伸ばす。


 炎が遠くにあってなおこの身を脅かすものならば、この身は炎に触れずして、炎を……


 握りつぶす。


  *


 炎が消えた。

 その不自然な現象に、ラヘーは息をのんだ。

 提灯を抱えるようにして持っていたサユリの手の中で、炎が不意に消えたのだ。


「え?」

 サユリが驚きの声を上げる。

 若侍も、今度ばかりは呆然として、消えたろうそくを見ている。


 女が伸ばした腕の方向。

 そして、火の消えたそのタイミング。

 まるで、女が炎を握りつぶしたようだった。

 

 いや、本当にそうなのだろう。


 女は嗤っている。

 驚いた様子はない。

 偶然ではありえない。

 だから、こいつがやったのだろう。

 こいつが、炎を握りつぶしたのだ。


 だが、どうやって。


 ラヘーにはわからない。

 ラヘーにわかるのは、「安全」は遠のいた、ということだ。

 

 女は嗤っている。

 小首を傾げ、ペロリと舌を出して唇を嘗める。おどけたような仕草。恫喝するような仕草。

 愛らしい仕草だった。だが、微かに開いた唇から牙をのぞかせて行うそれは、ひどく醜悪で攻撃的な仕草だった。

 口を開き、牙を剥く。

 その威嚇に退くラヘーの背に、若侍は無言で近づいてきた。

 そして、そっとラヘーの襟首を掴んだのだ。


 また、やるのか。

 うんざりする。

 だが、拒否することもできない。


 ラヘーは彼の顔を見る。

 少年もラヘーを見ていた。その顔にラヘーは問いかける。

「またやるのか?」

 オランダ語だ。

 もちろん、少年にはわからないはずだ。

 だが、何を言ったのか想像がついたのだろう。


 少年の顔に、ある表情が浮かんだ。

 申し訳なさ。同時に、やりぬくための躊躇のなさを感じさせる冷淡さも。


 それは引きずり倒される方としては不愉快で、たが、頼もしさも感じる表情だった。

 ラヘーは笑った。単なる苦笑いだったかもしれない。

 だが、彼は吸血鬼に向き直ると、いつでも跳躍できるように腰を落として身構えた。


 女は。

 吸血鬼は笑っていた。

 その笑いがどういう笑いだったのか。

 嘲笑であっただろう。

 同時に憐憫でもあったのかもしれない。

 吸血鬼は、その笑いを暗闇とラヘーの網膜に刻む。

 そして、その直後、女の姿をした吸血鬼は暗闇に消えた。


 

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