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68.トーマス・ファン・ラヘー3

いつもより少し長いです。

「そういえば、あの侍はどこにいったんだ?」

 両手を体の後ろで縛られ、不自由な姿勢から、人質の男は問いかけてきた。

 恋歌と顔馴染みらしい蘭学者。

 オランダ語に堪能な雇いカムロ小百合の父。

 彼を人質に、恋歌は小百合を連れて出島に向かった。

 で、美雪は高村晋輔とともに、人質が騒ぎ出さないように見張っている。

 ……はずだった。


 美雪も気にはなっていた。

 実のところ、美雪は先ほどから、そのことばかり考えていた、と言ってもいい。

 だから、もちろん、その問いかけを受けるまでもなく、彼女はそのことに気づいていた。


 あの侍。それはもちろん、高村晋輔のことだ。

 美雪とともにここに残って恋歌を待ち、人質にしたこの蘭学者の男を見張るはずの若侍。


 その彼の姿が見えないが、と人質の男は、大して興味もなさそうに聞いたのだ。

 美雪は周囲を見渡す。

 彼女も先ほどから気づいてた。

 高村晋輔はここにはいない。

 つい先ほどまでいたのだが、突然何も言わずに外に出たのだ。

 きっと用を足しにでも行くのだろう、と美雪は何も言わなかった。

 だが、用足しにしては、少し時間が経ちすぎている。


 どこにいったのだろう。

 美雪から見て、あの若侍は恋歌に好意を持っているように見える。


 少し胸騒ぎがした。


 だが、現実的に考えて、彼がどこに「行ける」というのだろう。出島など部外者が入れる場所ではない。

 バカバカしい。

 美雪の役割は「人質を見張ること」だ。仲間の高村晋輔を見張る必要はないはずだ。

 では、彼は?

 彼は用を足しにでも行っているのだろう。もちろん。小用にしては時間がたちすぎている理由は……、あるいは小ではないからかもしれない。

 いずれにしても、そんなに心配しなければならないことではない。そうであるはずがない。

 だから、美雪は首を振り、気にしなくてもいいわ、と蘭学者に告げた。


  *


 それがどういう理屈に基づいているのか、出島商館長トーマス・ファン・ラヘーにはわからない。

 その「女」の肉体には、飛ぶための生物的器官は見当たらなかった。鳥のような翼はもちろん、コウモリのような羽も。

 それでも「女」の身体は、雨を前にしたツバメのように、地を這うような低さで大気を滑ってきて、障害物を回避するツバメのように鋭く軌道を変え、ラヘーの身体を掠め飛んで行った。



 ツバメと違ったのは、その後だ。


 引きずられ尻餅をついたラヘーを、笑みを貼り付けた顔で見下ろした女の足がふわりと上がる。空中で倒立するように、足の先端が上向きに弧を描く。

 扇が開くように片方の足が先行し、もう片方の足がそれに追随する。

「前」へと飛ぶツバメには不可能な動き。翼を使わない自由な軌道で、女は向きを変える。

 そうして、女は両足を地に向け、ストンと地に降り立った。


 その動きを呆けて見つめるラヘーを、カムロのサユリが、これまた呆けたように見ている。

 それでもラヘーが落とした提灯に気づく程度の余裕はあったらしい。

 運よく、火が消えることも、覆いの紙を燃やしてしまうこともなく落ちているそれを、サユリは慌てて拾い上げる。ラヘーよりは落ち着いているのかもしれない。

 彼女の視線を感じながら、ラヘーは今自分の周りで起きた出来事を急いで理解しようと考え始めた。


 女がツバメのように自分を掠めていった風の匂いをラヘーは覚えている。

 それは死臭だった。

「掠め」たのは、ラヘーが背後から引きずられ、倒れたからだ。

 襟首を引かれなければ、あるいはラヘーは、カラスに攫われる鼠のように捕えられていたかもしれない。そう考えれば、自分を引き倒した男に感謝すべきかもしれなかったが、いきなり自分を背後から引き倒して平然と自分の要件を口にする若造に感謝する気にはなれなかった。 

 今もその若侍は、視線は女から外さぬまま、ラヘーの襟首を掴んでいる。

 ラヘーを引き倒したこの若侍は、何と言った?

 思い起こす必要もなく、もう一度その問いはラヘーに向けて発せられた。


「レンカという女が来ていないか?」

 その簡単な日本語は言葉は焦ることなくゆっくりと発音された。


 レンカ。オンナ。キテ。そして語尾が「か」で終わり、発音的にも高い音になっている。つまりこれは、ラヘーに対する問いかけなのだ。


 だから、その問いかけは、危険を感じて緊張しているラヘーにも理解できた。


 レンカというのは、もちろん、つい今しがたラヘーが追い返した遊女のことだろう。

 だから恐らく、ラヘーが返すべき返答は、

「レンカは先ほどまで、この出島にいたが、私が追い返したから、今はいない」

であるはずだった。

 だが、今のラヘーにとって問題なのは、一介の遊女のことではない。

 むしろ、問題は、たった今、目の前にいる若侍自身だった。

 また知らない顔だった。

 出入りを厳しく管理される出島において、こんなに勝手に人が入ってくるなどありえない。

 ラヘーは出島の厳重な監視体制に初めて疑問を抱き、怒りを覚えた。ほとんど吸血鬼への恐怖を忘れてしまうほどに。


 正確には、出島であれ、唐人屋敷であれ、絶対に入れない、とは言い切れない。

 意外なことではあるが、これら外国人居留地の歴史を振り返ったとき、簡単に出入りしている人間は少数ではあるが存在する。

 唐人屋敷で昨年あったという塀を乗り越えての唐人の出入り。

 出島においても、丸山遊女に恋した商館員が出島の塀を乗り越えたという事実は存在する。

 そう。

 物理的に部外者が出島に入ることが可能か、と問われれば、その答えは「可能だ」なのだ。

 だが、それはあくまで「物理的に可能」であるにすぎない。中に入って人目に付くことが避けられない以上、侵入者は結局捕縛され、厳しい罰を受けることになる。


 だが。

 それにしても。

 こんなに簡単に入ってこれるとは考えてはいないかった。

 まして、吸血鬼のような人外の存在であればともかく、目の前の若侍は間違いなく生身の人間だ。

 そもそも、この国に住む者が、それも侍というこの国の階級組織に所属する者が、幕法に反して出島に侵入するなど、ラヘーには考えられなかった。

 実際、サユリも驚いた表情で、その侍を見て何事か呟いている。


「BAKA dawa. Hontou no BAKA dawa」


 それはやはり平易な日本語のようだが、早口すぎて彼にはそのカムロが何と言っているのかわからなかった。

 もっとも、サユリの呟いた言葉の意味が何であれ、今のラヘーにはもっと危急の問題があった。


 吸血鬼。

 そのことにようやく頭が回り、ラヘーは自分の頭上を越えていった女に目を向けた。



 その視線に気づき、女は笑みを深く刻む。そしてその場でくるりと回ってみせた。

 小柄な死者は、ぼろ屑のようなローブをまとって立っている。陰気な笑みを浮かべた唇の端から鋭い牙が覗いている。

 嘲るような笑みを浮かべたまま、女はくるりと回った。欧州の女がスカート姿を魅せるような仕草だった。

 まとったぼろ屑が遠心力で無様に回る。

 もともとが愛らしさを強調するはずの仕草だったことが、吸血鬼の無残な姿ををかえって強調し、醜悪さを感じたラヘーはその視線から逃れようと立ち上がった。

 ラヘーの不快感を女は感じたはずだが、その笑みは崩れなかった。

 別にラヘーに好かれたいとは思っていないのだろう。

 だから、次の行動もまた、攻撃のための予備動作になった。


 女が、腰を落とす。

 その身体が前傾し、次の瞬間、今度こそ、その足下で地面が爆ぜた。


 女が迫る。

 貪欲な牙を剥いて。風のように。そして砲弾のように。


 早い。

 避けられる、わけがない。


 だが、立ちすくむラヘーの前に、すばやく若侍が割り込んだ。

 若侍の後ろ姿は、ラヘーを女吸血鬼から隠すように立ち塞がる。彼は既に抜刀していた。素早い動きで、抜刀と同時に太刀を旋回させ、飛び込んでくる女を薙ぎ払う。

 この国の剣は非常に鋭い。

 ラヘーはそれを知っている。その凶器としての攻撃性は、ラヘーの知る欧州の剣を遥かに凌いでいる、とさえ思う。


 だが。


 目の前に飛び込んだ侍は、刀を振りぬけなかった。いや、女を薙ぎ払うべく太刀を振るい、それと同時に吹き飛ばされたのだ。


 ラヘーの前に出た影が、一瞬でラヘーの後方へと流れる。

 だが、若侍の手はラヘーの襟首を掴んでいた。太刀を握っていたのとは反対側の手で。


 そのために、ラヘーはまたもや引き倒される。

 今度は後ろ手を地面に突く間もない。首を上げることで後頭部を打つことは避けたが、それでも背中を強打して、ラヘーは息を詰まらせた。

「っ……」

 そのラヘーを重りにして、若侍は自分が遠くに吹き飛ばされるのを食い止めていた。

 なんて奴。

 ラヘーは、若い侍の狡猾さに舌を打つ。


 そうして背中を打って呻きながらも、ラヘーは自分を掠めた女が、すれ違いざま急旋回するのを視界の端で捉えていた。

 同時に彼の襟を掴む手に、再び力が籠もり、上半身が強引に引き上げられるのを感じた。


 またか。


 ラヘーは、思わず若侍の顔を見上げたが、視線が交わることはなかった。

 知らない顔。

 少年と言っていい年の若侍。

 誰なんだ、こいつは。

 見上げる若侍が、真っ直ぐな視線を向けた正面に足を踏み出す。


 ああ、まただ。

 だが、この姿勢はまずい。これだと……。


 思わずラヘーは、身を起こして振り返った。


 瞬間、ラヘーの前に出た少年が何かを蹴った。

 強く。とても強く。

 その反動で後方へ跳ね飛ばされる。同時にラヘーは引きずられて、顔から地面に突っ込んだ。口の中に砂が入ってくる。噛んだその砂は血の味がした。顔から倒れたとき、口の中を切ったのだろう。


 錆びた鉄の味と痛みに顔をしかめるラヘーは、すぐにまた襟を引く力を感じて、反射的にその力に抗った。

「やめ……」

 だが、その力は予想以上に強かった。


 若侍は、強引にラヘーを引きずる。ラヘーは倒れ伏す。ほぼ同時に、何か異様な気配がラヘーのすぐ上を通過する。

 少年もまた、倒れたラヘーを飛び越える。

 そして、今度は逆方向からラヘーの襟を引く。

 少年の姿と視界を横切る女の姿。

 その両者が交錯し、状況を理解しようとするラヘーを少年が更に掴んで引きずり倒す。


 顔を地面にこすりつけた。

 腕を痛めた。

 膝を擦りむいた。

 首をねじ曲げ、痛い。


 イヤだ。

 ラヘーは抗う。


 それでも、襟を引く力は強くなる。

 少年が何事が怒鳴っている。もちろん、日本語はわからない。


 いやだ。いい加減にしろ。


 若侍がラヘーを引きずる。

 女が飛んでくる。

 ラヘーを掠める。

 また、ラヘーは引きずられる。

 繰り返し。


 幾度も頭を打ち、背中を打ち、ラヘーは悲鳴さえ上げられずになすがままにされている。

 視界は暴れ続けている。本人の意思によらないそのブレは船酔いのように不快で、意

識を混濁させる。


 ラヘーは引き倒される。

 体が痛い。


 ラヘーは引きずられる。

 頭が痛い。

 気持ち悪い。


……私は何をされているんだ。


 ラヘーは心の中で問いかける。もちろん、その疑問に答えてくれるものはいない。


 この若侍はなんだ。

 この女はなんだ。


 吸血鬼?


 何故、そんなものが私たちを狙っている。


 ラヘーには心当たりがない。

 ならば、突如現れた異質なものの原因は、やはり突如現れた異質なものにあるはずだ。

 つまり、この若侍だ。


 ラヘーは、なおも襟首を掴み続ける少年の手を振り払った。

「やめろっ」

 少年を見上げ、怒鳴りつける。

 だが、少年はラヘーに一瞥さえ与えはしなかった。

 真剣な面もち。

 真っ直ぐな視線。


 少年が一歩踏み出す。


 その先には。


 女がいる。

 すぐ目の前に吸血鬼がいた。


 そいつは、ラヘーを見ていた。

 そいつは、ラヘーに向かって手を伸ばしていた。



 悲鳴はあげない。

 そんな時間さえない一瞬のこと。


 若侍の足が振り上げられる。

 その足は。

 女を蹴る。

 だが、女を蹴るのは足の甲ではない。つま先ではない。

 若侍は、足の裏で女を「蹴る」。

 違う。


 その瞬間、ラヘーは見た。

 先ほどから少年が繰り返し蹴る「何か」が何なのかを。


 それは、女が伸ばした腕。その先の細い指先だった。

 特別力もこめずに伸ばされた女の指先が、少年の全体重を支え、渾身の踏み込みを跳ね返したのだ。

 その細い手が頑丈な城壁ででもあるかのように。

 この若侍は、この女の指先を踏み台にして、真後ろに「跳躍」したのだった。


 そのことにラヘーは慄然とする。

 女の小さな体が、どれほどの頑強さを秘めているのか。

 女の小さな手が、どれほどの強力で伸ばされているのか。

 ラヘーはそれを理解する。


 この女の姿をした悪魔が、どれほど貪欲にラヘーを望んでいるのか。

 ラヘーはそれを理解する。


 それはつまり、ラヘーがこいつらの確執に巻き込まれたわけではないことを意味していた。つまり何のことはない。吸血鬼の狙いはラヘーなのだ。

 そして、この若侍は、ラヘーを守ろうとしているのだ、とラヘーは理解せざるを得なかった。

いろいろ迷っていて、遅くなりました。


例えば話の切り方。

美雪の場面は前話に入れたほうがよかったかな、とか。

文章が饒舌すぎないか、とか。(饒舌ですよね。わかってはいるんです)


アクションって難しいです。

情景、想像できますでしょうか。


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