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67.トーマス・ファン・ラヘー2

「誰だ、お前は」

 トーマス・ファン・ラヘーは首をかしげる。

 大声は出さなかった。

 何故か、声を張り上げることがはばかられた。

 あまりに静かだからだろうか。

 商船が引き上げたこの時期、出島は閑散としている。ほとんどの商館員も奴隷も、船に乗ってバタビアに引き上げてしまっているのだ。

 取引が行われないのだから、日本の役人たちも、その数を減らしている。

 だが、人の姿がまったく見えない、というのは、そうあることではない。

 あの美貌の恋歌を見るために、皆がカピタン部屋に集まった。その遊女がひきあげたことで場の雰囲気は白けたが、だからと言って解散するのも惜しいのだろう。

 みな、カピタン部屋で残りの遊女たちと宴を共にしている。

 こんなことはほとんどない。

 だが。

 今はそうなっている。

 外にいるのは、本当にラヘーと隣を歩くサユリというカムロだけのはずだった。

 はずなのだ。


 では。

 あれは、誰なのだ。


 出島は狭い土地だ。

 ここで何年も過ごす彼らには、まさに息が詰まるような世界だ。

 実のところ、年に数カ月、船が訪れる時期以外は、この閉ざされた島でいつも同じメンバーで顔をつきあわせている。

 自然とすべてが顔見知りになる。

 もちろん、誰とでも会話するわけではないし、誰とでも仲良くなるわけではないが、それでも「話したことはないが、見たことはある」という程度の知り合いにはなる。

 だが、そいつとは話したことは勿論、見たことさえなかった。

 日本人には見えなかった。

 だからといって彼と同郷のヨーロッパ人とも思えない。

 アジアで乗せた奴隷だろうか。

 だが、それにしたってまったく見たことのない顔だった。

「なんだ、お前は」

 ラヘーの再度の問いかけにも、そいつは答えない。

 ただ、小首を傾げ、無言で立っているだけだ。

 出島を長く横切る道の東端に、そいつは立っていた。

 見知らぬ人影。

 男。

 いや……女だ。


 この出島に遊女以外の女がいるなんて。


 暗い中、顔はよく見えていない。ラヘーは提灯を持ってはいるが、この距離で相手の顔を照らせるほどの明るさはない。

 それでも、ラヘーにはそいつが「知らない顔」だということが、何故かわかる。

 知っているはずのない顔だということがわかる。

 見てはいけない顔だ、とさえ感じるのだ。

触れてはいけない。見てはいけない。

 このまま立ち止まっていてはいけない。


 ラヘーが本能的に身の危険を感じたとき、そいつはゆっくりと足を踏み出した。

 ラヘーは後ずさる。

 一歩。二歩。

 ひどく気が急き、後ろへと踏み出した足は大股になった。

 それなのに、そいつは急に近づいてきた。


 ラヘーよりもゆったりとした足取り。

 そして、ラヘーよりも小柄で小さな歩幅。


 それなのに。

 そいつのほうが早かった。


 ゆっくりとした小さな歩幅が刻まれるたびに、彼の急いた後ずさりは、簡単に詰められてゆく。

「なんだお前は」

 誰何したこの島の責任者は、そのときそいつの足元の異常に気づいた。

 小さな歩幅。

 ゆったりとした足取り。

 それでもそいつは速い。

 そいつの足は「歩いて」はいなかったのだ。


 足を踏み出す。

 その足が地を踏み、体を支える。その足が静止している間にもう片方の足が前に出る。

 それが「歩く」という動きのはずだ。

 だが、そいつの足は静止しなかった。

 体を支えているはずの足が、静止しているはずの足が、それでも前に滑ってくる。まるで川を流れる船の上で歩くフリをしているようだ。

 歩いているなどとはいえない。

 そいつはむしろ飛んでいた。

「なんなんだお前は」

 トーマス・ファン・ラヘーは恐慌をきたした。

 反射的に右手が十字を切る。

 目の前の女が、人とは呼べないものであることを本能が察した。つい今しがた美貌の遊女と話したことが頭に残っていたのかもしれない。

「主よ……」

 だが、その短い言葉が、相手に与えた影響は小さくなかった。

 暗闇の中の笑みが消え、殺気とも呼べる攻撃の気配が膨れ上がった。

 造物主に救いを求める彼の仕草が、相手の攻撃衝動に火をつけたのだ。


 女が地を蹴った。

 いや、その足が大地を蹴るような仕草はラヘーには見えなかった。そもそも、相手は宙に浮いているのだ。地を蹴る必要などない。

 ただ、前傾した女の身体が、グンッと勢いを増してラヘーに迫る。

 低い姿勢から陰気な視線が掬いあげるように睨みつける。その下で薄く開いた唇から、二本の鋭い牙が覗いた。

 相手の正体を悟り、ラヘーは小さく悲鳴を上げた。

「……っ」

 オランダより東の地方で囁かれた噂話。

 子供に聞かせるには残酷すぎる御伽噺。

 死者の蘇りという神の奇跡を模倣する悪魔の呪い。

 つい今しがた、彼自身が否定した非現実的な存在。

 すなわち、吸血鬼。


「馬鹿な」

 

 足が竦んだ。

 それでなくても動きが遅くて、距離を詰められていた足が、逃げることを放棄したように、動きを止める。

 女が接近する。

 暗い。

 昏い目がラヘーの世界を包む。

 駄目だ。

 逃げられ……


「聞いてもいいか?」


 不意に若い声が問いかけてきた。

 簡単な日本語だ。

 それを認識するよりも早く、ラヘーは、襟を掴まれ、後ろへと引き倒された。引きずられ引き倒されたラヘーと、急速に接近した女との間に見知らぬ後ろ姿が割り込んだ。

 雨の前の燕のように低く飛んできた女は、新たに現れた若い男とラヘーを掠めるように飛んで行った。

 その異様な影にほとんど気も留めず、突然現れた男はラヘーに問いかける。

 若い。

 若い侍だった。

「レンカ、という女を見なかったか?」

 と、彼は問うた。

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