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61.出島にて4

 倉庫二階の商館員の居住室に上がる。

 本当にすべての商館員たちがカピタン部屋に行っているらしい。

 寝台が並ぶこの部屋は、今はがらんとしたものだった。

「まあ、今は船も入ってないから、人の数そのものが少ないんだけどね」

 と、小百合が説明する。

 後頭部を打った哀れな商館員が、寝台に横たわる。

 本当に気分が悪そうに見えて、恋歌はさすがに心配になった。

 彼が何かを呟き、それを小百合が通訳するまでは。

 小百合は、苦笑を浮かべながら、恋歌を見たのだ。

「ちくしょう、飲みすぎた。こんな美人が来るとは思わなかったからなあ。……だって」

「……て、この人は言ったの?」

「うん」

「……」

 心配する必要はなさそうだった。

 実際、横になった哀れな青年だったが、その手はなおも未練がましそうだった。

 熱があるわけでもないが、一応濡れた布を額に載せる恋歌の手を彼は掴み、引き寄せた。衿から手をいれ、腰に手を回し、裾をまくった手で恋歌の閉じた膝を割ろうと試みた。

 そのうち、再び頭痛がぶり返したらしい。寝台に横になった。恋歌が振るった握りこぶしが偶然にも彼の後頭部を強打したのがよくなかったのかもしれない。頭を抱えてうんうん唸った。


「ごめんなさい。わざとじゃなかったの」

 もちろん、わざとだった。それも狙い澄ました一撃というやつだ。

 どのくらい狙い澄ましたかというと、相手に気付かれないくらい、だ。

 不意討なら、自分は高村晋輔だって狙えるかもしれない、などと不謹慎なことを考える。

 もちろん、そんな考えは顔には出さない。

 眉をひそめ、上目遣いに男の顔を見つめる。自分より下にいる相手を「上目遣い」で見るのだからかなり不自然だが、その辺、男は気にしないでくれた。


「だいじょうぶ?」

 寝台の端に腰かけ、恋歌は男に囁くように心配そうに顔を寄せる。

 ダイジョウブ?

 そのくらいなら日本語も通じるらしい。小百合の通訳を待つまでもなく、男は嬉しそうに頷いた。まったくもって心配は無用のようだった。


 こいつを相手にあの言葉を言うの?


 恐ろしくやる気を削ぐ状況だったが、却ってこういう相手のほうが無防備でいいのだと思い直す。彼の耳に口元を近づけ、囁く。

「聞こえる?」

 日本語で訊くと、彼はうんうんと嬉しそうに頷いた。このくらいなら日本語が通じるらしい。勿論、本題は日本語では無理だろう。

恋歌から素敵な愛情表現でも聞かせてもらえると思っているのか、彼は恋歌のほうに笑顔を向け、恋歌の言葉を待っている。


「気分はどう?」

 男に向かって囁き、それから小百合の顔を見る。

 小百合は恋歌の問いを訳し、男が穏やかな笑みで答えた言葉を、恋歌に教えた。

「だいぶ、楽になった、って」

「良かった」

 とびっきりの笑顔を恋歌は向ける。

 これで聞きたいことを聞ける、と。

 男も笑顔を浮かべる。

 これでやりたいことをやれる、と。

 それが伝わってきたから、恋歌は身を引こうとした。その手を掴んで、男は上半身を起こして来る。両手を伸ばして、恋歌を強引に抱き寄せる。

 強い力だった。

 反射的に抗った恋歌の力はほとんど役に立たない。

 だから、恋歌は抗うことをあきらめる。カムロの時代から酔っ払いにちょっかいは出されてきた。本当に肌を重ねるまでには至らなかったが、ここ数日、男の欲望に曝された。

 さすがに多少は慣れてきたらしい。恋歌は自分でも驚くほど冷静に行動できた。

 一旦、体の力を抜く。

 恋歌の抵抗が止んだことに安心したのだろう。男も恋歌を抱く腕から力を抜いた。

 しかたない。

 恋歌は、掛布団の両端を持ったまま男を抱きしめた。そうして男の体を包んで、布団の重なりを自分の側に引き寄せた。

 それから、男の顔が迫ってくるのを、軽く押しとどめた。男は少し困惑したようだったが、暴れると頭が痛むようで、無理はしないでくれた。

 恋歌は逆に男の体にもたれかかり、押し倒すように力を加える。だから、スヴェンは恋歌に抗うことなく、再び寝台に身を横たえた。

 恋歌も少しだけ優しさを見せる。彼を包む布団の重なりに、恋歌は横たわったのだ。布団越し、着物越しに体を密着させて。

 優しさであり、保険だった。男を「巻いた」布団の端に、恋歌は乗っている。

 男が急にその気になっても、体をまいた布に恋歌の体重が乗っていて、彼は簡単には動けない。この布団が恋歌との壁になるはずだ。以前、カムロだったころ、姉女郎の楓から聞いたやり方だった。本来なら、強引な客を落ち着かせ、主導権を握るための時間稼ぎだそうだが。

 とりあえずの安全を確保した恋歌は、男の乱れた金色の髪を撫で、整えてやる。そうして、彼の頭に軽く力を加える。横になった状態で頭部に下向きの力を加えられ、上体を起こせる人間はいない。

 

「名前、なんていうんだっけ?」

「スヴェン」

 男はもう少し長い単語を答えたが、小百合は短縮して、最初の単語だけを恋歌に教える。

 紅毛人は姓より名前を先に言うのだと恋歌は聞いたことがあった。だから、たぶん、これは名前だけだ。

 つまり、高村晋輔の、晋輔、だけを教えたようなものらしい。

 どうせ性も名前も全て覚えるつもりが恋歌にはないだろう、と小百合は割り切ったのだ。


 それは正解だった。

 そもそも、恋歌は、一度は聞いた名前をすっかり忘れたのだから。

「スヴェン?」

 恋歌が繰り返すと、男は嬉しそうにうなずいた。

「私は、れんか。恋の歌、という名前です」

「れ・ん・か」

「はい」

 男は、横になったまま、再び恋歌の手を握ってきた。

 恋歌はその手を両手で握り、顔を男の顔に寄せた。

 彼の胸を布団の上からゆっくり撫でながら、低い声で問いかける。

 小百合は通訳に徹するつもりらしく、余計なことは言ってこない。カピタン部屋で続いているはずの喧騒も、今は聞こえてこない。外からは聞こえてくるのは、波の音だけだった。

「オランダはどんな国?」


「どのくらい遠いの?」


 恋歌が尋ねる言葉を小百合がひとつづつ通訳してゆく。そして、男の答えを今度は日本語に直す。

「スヴェンって何歳なの?」


「ここでは、どんなお仕事をしているの?」


「故郷に帰りたくならない?」


そして。

「寂しくない?」

「オランダに待っている女性はいないの?」


 最期の二つの質問に対する答えは、否だった。

 彼はこの狭い島での生活をそれなりに楽しんでいるようだった。

 彼が頻繁に遊女を呼んでいることを、小百合の通訳で知って、恋歌は納得した。

「だが、君ほど美しい女性は、まだ見たことがない」

 という世辞の追加には、とりあえず「ありがとう」と表情を消した声で答えておく。


 不自由な生活を強いられる出島生活だが、この島への赴任を希望する商館員は少なくないのだという。オランダから見て辺境の小さな島での苛酷な仕事だからこそ、商館員にはそれなりの高給が支払われる。そして、ここでは遊女の出張を頼むことができる。

 この出島から日本へ支払われる総額のうち、少なくない割合の額が丸山遊郭へ支払われているのだ。


「日本の女性は皆、小さくて美しい」

 スヴェンは悪戯っぽく、けれど肉食の顔で笑った。

「ありがと」

 と、恋歌は笑って答える。

 じゃあ、もっと楽しんで。

 知っていることを全部ぶちまけちゃおうよ。すっきりするよ。

 

「スヴェンって面白い人だね」

 そう言われて、男は笑う。

「そうだ。俺は面白くて、優しい男だよ」

「本当にそうだね。スヴェンの話は面白い。もっと聞かせて」

「なんでも聞いてくれ」

 本当だね?

 じゃあ。

 恋歌は笑顔で、問いかけた。

 心の中で少し謝りながら。

 ごめん。多分、あんたが期待しているような言葉じゃないんだ。


 そう思いながら、恋歌は視線を小百合に向ける。そうして、予め考えておいた言葉を口にし始めた。小百合は表情を消した顔で、無感情にそれを通訳する。

 

「血を吸う鬼って知ってますか?私はそいつを倒す方法を知りたいのです」


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