58.出島にて
玉帯川は大きな川ではない。
狭い路地を流れる細く小さな川だ。
その川に浮かべた船で、遊女は出島へ向かう。
今にも船底が川底に擦りそうな浅い川を下りながら、恋歌はぼんやりと周囲を眺める。
丸山遊女が出島へ向かうなど、今更珍しいものでもない。ほとんどの人は振り返ることさえないが、その船に乗るのが「桜泉の恋歌」となると話は別だ。数人の男が気づき、一緒に歩く仲間に指をさして教えた。中には、妻らしき女性に大声で教え、郭の女を何故知っているのか、逆に問い詰められる男もいる。
その光景に、恋歌は口の端を微かに歪めはしたものの、彼らにいちいち会釈する必要も認めず、澄ました顔で船頭の操る船に黙って座っていた。小百合も出島へは通いなれているからだろう。沈黙を保ったままだった。
恋歌は流れる景色を見ながら、置いてきた晋輔たちのことを考えた。
美雪がいるから、大丈夫だと思う。もちろん、晋輔も基本的に乱暴な男ではない。心配はしていない。逆に、害意が全くないことを知られて、人質が怖れてくれなくなることが問題かもしれないが。
もっとも、小百合の父親が本当に怯えていたとは恋歌は思っていない。
怒ってはいた。
こんなことをする女を軽蔑もしただろう。
だが、恋歌が彼らを本当に傷つける、とは思っていなかったのではないか。
小百合に「大丈夫だよ」と言ってやろうかと思ったが、あまり安心させたら強要することもできなくなる。
一方、楼主は、笑顔だった。
勝手に小百合を連れてゆく算段をつけたことを、恋歌が最初の客を取ることに前向きである証として、単純に喜んでいた。
オランダ人を相手に耶蘇教の話をするためだと知ったら、卒倒するかもしれないが。
廓を出るときには、陰気な顔をして座り込んでいる用心棒と目があった。
昨夕、高村晋輔に手首を砕かれ、刀を持つこともできずに座り込んでいる。昨夜、与えられた残飯を犬のように喰っている姿と、それを侮蔑の眼差しで見る楼主を見た。
暴力で皆を黙らせた男が暴力を失ったら、後には何も残らない。楼主がいつまであの男を置いているか、すでに遊女の間では賭けの対象になっている。
恋歌自身は実害を被ったことはなかったとはいえ、廓の鼻つまみ者であった男のこれからの境遇を思い、恋歌はため息をついた。
脅迫者のため息に、小百合は眉をひそめる。
「なによ」
「……なんでもないよ」
居心地の悪い空気だった。
だが、出島まではたいして時間もかからない。
船はすぐに海に出て、出島のそばに寄る。
桟橋に寄せた船に差し出された手を握り、恋歌は出島前に降り立った。
遊郭を出ると長崎会所へ立ち寄り、出入りの度に届け出た時期もあった。出島や唐人屋敷へは一泊しか許されない時期もあった。今ではその手続きも緩やかになってはいるが、外部からの侵入が容易になったわけではない。特に出島の場合、オランダとの貿易が縮小の一途を辿っているために商館員の数が減り、当然呼ばれる遊女の数も往年から比べれば半減している。その分、出入りの際の監視は容易になり、同時に厳しくもなっていた。手続きの緩みは警備の緩みには繋がっていない。
長崎の「本土」と出島との間には短い石橋がかけられている。
「本当に行くの?」
少し開き直ったのか、小百合の声からは緊張が消えていた。彼女は役人を怖れる必要はない。見つかった場合でも家族を人質にとられ、脅されてやったことだと言えばかなりの情状酌量になる。恋歌はそうはいかない。答えを口にする前に、恋歌は自分の声を震わせないように努力しなければならなかった。
「入る資格はあるわ。何も問題はない」
「入るだけならね」
からかうような小百合の声を無視して、恋歌は石橋を渡り始めた。
何度も見たことのある橋だった。自分の仲間がこの橋を越えて行くのを見たことだって幾度もある。しかし、恋歌自身はこの橋を踏んだことはなかった。そして自分はこの橋を渡ることも、唐人屋敷の門を潜ることも生涯ないだろうと思っていた。群を抜いた美貌があれば、恵まれた環境で遊女を務められると思っていたし、自分ほどの美貌ならば身請けしたがる男なんて幾らでもいるに違いないと思っていた。
どこで間違えてしまったのだろう。
大事な顔には傷をつけられ、妙な噂を流され、実際には噂よりひどいことをしている。しかも、大人しくしていれば今夜には殺されてしまう。
誰のせいでこんな風になったんだろう。
憎むべきは善次郎だったが、まず頭をよぎったのはあの冗談の通じない若侍の顔だった。あの顔を見る度に、恋歌の運命は望ましくない方へと曲がって行く。
昨夜は彼への想いに取り乱しそうになったが、太陽の力は偉大だ。酒の酔いを醒ますように、冷静さを取り戻してくれる。
同時に、今朝方感じた熱く止めようのない感情に代わって、不平屋の顔が現れてくる。
おのれ高村晋輔め。
低く毒づく恋歌を気味悪そうに見ていた小百合が会釈したのを見て、はじめて恋歌は自分がいつのまにか石橋を渡って侍の前に立っているのに気づいた。二人の番人が恋歌たちを出迎えた。
一人は大柄な男だった。恋歌よりも頭二つ分高い。その分態度も大きかった。
誰かに殴られたかのように歯を食いしばり、威圧するような目で恋歌を見下ろしていた。
「桜泉楼より参りました恋歌とかむろの小百合です」
どこから引っぱり出したのか、小百合の顔に笑みが鮮やかに翻った。見返りのない愛想笑い。返ってくるのは、ひたすら威圧的な態度だけ。
大男の目が小百合を素通りして恋歌に移った。同時にもう一組の視線も恋歌を捉えていた。小柄なやせっぽちの目だ。そいつも威厳と威圧感を示そうと必死になって顔を引き締めていたが、大男の隣では滑稽でしかなかった。自分でもそれがわかっているのか、すぐに真顔を諦めた。
「おまえが恋歌か」
脅すような表情に微かに笑みが浮かんだ。小さくても笑みの意味を恋歌が取り違えることはなかった。ここ数日、こんな顔ばかり向けられている。嘲笑だ。
「なるほど。こいつは美人だ」
痩せはつま先から頭のてっぺんまでゆっくりと恋歌を目で舐めまわした。廓の客だって遠慮して、もう少しさりげなく女を見る。視線が移動するにつれ、衣の下で鳥肌が上下した。
「日本行の太夫なんざ、俺たちには手がでなかったからな。お顔を拝見できるだけでも、光栄でございますってもんだ」
なあ。
にやけた笑いを浮かべて、大柄な相棒に同意を求める。もう、威厳など示そうとさえしない。相棒は表情を引き締めたまま、相槌さえ返さなかったが、痩せっぽちは気にすることなく恋歌を眺めていた。多分、この二人はいつでもこうなのだろう。
「さてと」
痩せっぽちは両手を恋歌の顔の前に出すと、何かを揉むような仕草をしてみせた。恋歌が不快さに眉をひそめると、痩せっぽちはますます嬉しそうに笑みを広げた。
「仕事を始めるか」
小百合が見ていた。
大男が見ていた。
どちらの目にも意地の悪い光があった。
廓一番の美貌を誇っていた日本行太夫が阿蘭陀行に落とされて、下司な役人の下品な辱めに耐えている光景。あまり表情は変わらなかったが、大柄な番人が密かに興奮していることを恋歌は見て取った。小百合は、恋歌が多少嫌なめにあえばいいと思っていただろうし、実際、小百合の目はざまあみろと恋歌に言っていた。
痩せっぽちの手は恋歌の全身をなで回した。恋歌を抱く前に死んでしまった二人の客よりも、痩せっぽちは恋歌の体に長い間触れていた。恋歌が歯を食いしばり、拳を震わせている間に、痩せっぽちは、はあはあと息を乱しながら恋歌の体をしっかりと堪能した。
そいつの手が骨張っていたるのが、服の上からでも恋歌にはそれがわかった。それ以上にわかったのは、そいつが嫌になるくらい粘着質な男だということだ。善次郎と会わせたら、気が合うかもしれない。つまり恋歌は決して好きにはなれない、ということだ。
「おまえの番だ」
痩せっぽちがそう言ったとき、恋歌はようやく解放されたと思った。次は小百合の番だ、と。そうではなかつた。痩せっぽちの細い目は、自分の相棒を見ていた。次は大男が恋歌を玩具にする番だと、痩せっぽちは言ったのだ。
冗談じゃない。こんなのにつきあってたら、日が暮れてしまう。
恋歌が思わず怒りを口にしそうになったとき、大男は首を振った。
「いや、いい」
安堵した恋歌は、だからといって自分たちが解放されたわけでもなく、その後も彼は遠慮なく恋歌の懐を探り、袖を改めた。
それから恋歌は、足を開かせたまま歩かせられた。
「何故?」
「女には隠す場所が多いからな」
楽しげに痩せが答えた。
恋歌はその意味を少し考えた。考えるまでもなく、意味は明白だった。
丸山に珊瑚を生む女有り、だ。
考えるよりも早く、言葉は恋歌の口を衝いて出た。
「すけべ」
そのために大男が動いた。
一振り。持っていた棒を一振りして、恋歌の肘に打ち付ける。
「っ!」
左手で右ひじを抑え、苦痛に眉をしかめる。そのまましゃがみ込みたくなるほどに痛かった。
視界の隅で痩せがにやにやと笑い、大男が棒を下し、姿勢を戻すのが見えた。
ばか。
小百合の小さな声が聞こえる。
確かに馬鹿だ、と自分で思う。
小百合も体を改められたが、恋歌に対してのものにくらべれば手抜きとさえ言えるほどのものだった。
「厳しいのは、出てゆくときよ」
番人たちを背に歩き出してから、小百合は教えた。
抜け荷をするなら、出てゆくときに、小さな商品を持って出てゆく。この男たちは、それをこそ暴き出すのが仕事なのだ。
本来なら、足を開いて歩かせるのは、そのときにこそ意味があるのだろう。今のは単なる嫌がらせだ。
恋歌は冷ややかに首を振る。
「あたしたちは何も持って出ない。来たときのまま出てゆくわ。だから捕まらない」
恋歌は前を向いたまま答えた。
痩せっぽちの番人に探られているときは、意地の悪い目で見ていた小百合にも腹が立ったが、今はもう怒ってはいなかった。考えるまでもなく、恋歌は小百合に憎まれて当然だった。小百合にしてみれば、あのまま恋歌が二人の番人に犯されてしまってもざまあみろという心境だったろう。
小百合は、恋歌が何を考えていようが気にしていないようだった。
それでも眉をしかめたまま歩く恋歌を見て、くすりと笑い、訊いてきた。
「不愉快だった?」
「ええ」
「頭にきた?」
「もちろん」
「……出島へようこそ」
と、小百合は笑った。
前話が「出島へ」
ここからは「出島にて」。
なんというか。
サブタイトル、いっぱいいっぱいです。




