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51.鬼たちの夜 12

13/03/31加筆しました。


12の後に次話として載せるつもりでしたが、この方がいいかな、と。

ご意見ご感想いただけるとありがたいです。

「春風」が立ち上がる。

 腰は曲がり、背筋は歪んでいる。猿が辛うじて手を地面から離すように、危うい立ち方だ。

 その肩に掛かった赤い生地がなかったら、それが春風だとはわからない。

 その顔には、つい先ほどまで若い女だったことを示す要素は何もなかった。

 赤く濁った目が、恋歌をとらえる。その目には、飢え以外のものは見えなかった。

「春風……」

 恋歌の声に、それは反応しない。そいつの中には、もはや恋歌に対する嫉妬も憎悪も残っていなかった。

 ただ「渇き」だけが、身を焦がす渇きの欲望だけがそいつを支配していた。

 飢えている。

 渇いている。

 それはわかる。

 だが、ほんの少し動くたびにそいつが苦悶の表情を浮かべるのは何故だろう。恋歌を見る目がひたすら苦痛に満ちているのは何故だろう。


「火が苦手、なのだったな」

 少し前まで春風であったものに太刀を構えながら、視線は善次郎に向けて、晋輔が言う。

「そうだったな」

 善次郎の笑みは少しだけ強張っているようにも見えるし、平然としているようにも見える。

「まあ、頑張ってみろよ。俺は少し、用事が出来たんでな。今日はここまででいいぞ」

 腹もいっぱいになったしな。

 そう言って、善次郎は笑った。

 彼が視界の端で、美雪を見ているのを恋歌は知っていた。美雪はいつのまにか牢の外に出て、十字架を手にしている。

 高村晋輔は調子を取るように切っ先を揺らしながら、善次郎に問いかける。

「わしがお前を逃がすと思うのか」

「お前が俺を止められると思うのか」

 善次郎はこともなげに問い返し、高村晋輔の言葉を奪う。それから興味深そうに晋輔を眺めた。

「で、俺は消えるけど、お前、恋歌を守れるのか?」

「そのつもりだ」

「へえ」

 善次郎は酷薄な笑みを浮かべる。

 今の彼には、恋歌よりも優先すべきことがあるようだ。

「春風、お前も好きにしろ」

 善次郎に呼ばれた春風。あるいは春風であったもの。

 それが顔を歪める。

 ひどい苦痛に苛まれているように。

 腰を痛めた老人が、それでも腰をおろすように、呻き声をあげて、体を縮める。体がたわむ。

 跳躍の準備姿勢。

 恋歌にもそれがわかった。

 犬と豚と蝙蝠と。

 それらの醜いところを寄せ集めたような体躯が限界までたわみ、そして爆ぜた。

 高村晋輔は避けた。

 予めその動きがわかったからだろう。彼はさして驚いた様子もなく、身体を右に開き、跳んできた異形の体躯をかわした。

 同時に、晋輔は太刀を振るったが、それは怪物の身体を掠めることもなかった。

 そのことに高村晋輔は驚かない。

 彼は平静を保ったまま、一歩踏み出した。

 彼の足が何に向かっているのか、恋歌にはわかった。

 恋歌の方へ。

 そして……

 晋輔の体を掠めた怪物は、「檻」に張り付いた。

 それこそ木の枝にしがみつく猿のように、壁にはりつく蛙のように「檻」の格子に張り付き、かわされた怒りを牙をむいて発露した。

 女、ではない。

 雌、でさえない。

 ただの獣。ただの化け物だった。

 その目が恋歌を捉える。憎かったからではない。

 ただ、渇きを癒やす獲物として見ただけだ。

 かわされた怒りより、渇きが優先されるのだろう。

 苦悶に満ちた顔で牙を剥く。

 その身体が再びたわむ。

 来る。

 それがわかった。

 わかっていて、動けなかった。

 怖かったから。

 もちろん、そうだ。

 だが、それ以上に恋歌は、逃げてはいけない、と感じたのだ。恋歌は獲物で、その正当な捕食者がこの醜い怪物なのだ。

 逃げてはいけない。

 だって、そのために恋歌は生まれてきたのだ。

 足がすくむ。

 だって、そのために恋歌はここにいるのだ。

 言葉ではない。ただ、体がそう感じ、逃げることを拒絶した。


 動きを止めなかったのは、高村晋輔だ。

 だから、瞬発力で勝る怪物よりも早く恋歌との間に身を入れることができた。

 恋歌を背に。

 怪物を正面に。

 怪物の体はひどく縮こまっていた。それは勿論、爆ぜる前の予備動作だった。

「ッケア」

 奇声と同時に、その歪んだ体躯が爆ぜる。

 高村晋輔の太刀は、既に旋回を始めていた。

 彼の動作は素早かった。

 だが、その表情はひどく冷静だった。

 その旋回軌道が、牢の中で燃えていた蝋燭を薙いだ。

 蝋燭。

 それこそが、高村晋輔の踏み込みが求めていたものだった。

 切断された蝋燭が刃に乗る。蝋燭の光が切っ先に乗る。切っ先の跡が光となって、暗闇に弧を描く。

 その光跡に春風であったものは、自ら飛び込んだ。

 その瞬間、春風の纏った衣は、一瞬で炎を孕んだ。


 その生地の赤さはもともと染められた色だった。

 そして、その黒ずんだ赤は、血の色だった。

 春風が纏った赤黒い生地は、彼女の血にぐっしょりと濡れていたのだ。濡れた布に、そんなに簡単に火がつくはずはない。

 それなのに、その生地は発火した。

 高村晋輔の刃に乗った蝋燭の炎が掠めた瞬間、生地が含んでいるのが血などではなく、油ででもあるかのように燃え上がった。

 燃える。

 たちまち炎は広がった。

 生地全体に。それから怪物の白く荒れた髪に。そして長い体毛に。

 だが、炎はさらに貪欲だった。怪物の皮膚をも喰らいしはじめた。

 悲鳴があがる。

 春風が燃えていた。


   *


 熱かった。

 耐えようもなく熱かった。

「春風」にとって、それはまさに地獄のような暑さだと思える。

 熱い。

 熱さへの苦痛が心を占める。

 皮膚が焼かれる。肉が焼かれる。骨までが焼かれてゆく。

 悲鳴は言葉にならない。

 心の中でさえ言葉の形をとらない。

 使える言葉はただひとつ。「熱い」だ。

 形容不可能な苦痛が全身の表皮から内部へと浸透し、彼女を滅ぼしてゆく。

 熱い。

 どこまでも熱い。そして。

 そうして。

 その瞬間、彼女は渇きから開放される。

「熱い」

 彼女は悲鳴をあげていた。

「熱い」

 彼女は歓喜の声をあげていた。

 渇きを忘れられている。

 あの全身が悲鳴を上げる苦痛から開放されているのだ。

 そして、おそらくその開放は永遠のものになるだろう。

 春風はそれを感じていた。

 死んでしまう。

 永遠の命を手に入れたのに。

 それは紛れもない恐怖だ。

 ずっと、ずっと逃げ続けてきた死のあぎとに、ついに捕らえられてしまうという根源的な恐怖だった。

 そして、それは喜びだった。

 泥沼のように逃れられぬ永遠の飢餓からの開放されるという、言い様のない安堵でもあった。

 熱い。

 熱い。

 助けて。

 でも、渇きはいや。

 終わりにしたい。

 辛いことはもう全部終わりにしたい。

 全部。

 全部。

 彼女は悲鳴をあげながら、そのすべてを終わりにする時が来たのを感じた。


   *


 もはや人間とも思えぬ外見の怪物。

 その表面を炎が広がってゆく。冬の枯れた草原についた火のように、怪物の皮膚を燎原と変えてゆく。

 だが、燃えたものは怪物であっても、燃えた後から現れたのは怪物の姿ではなかった。その姿が幻であったかのように、炎の下から現れた姿は人間のものだったのだ。

 重度の火傷を負った腕、足、そして焼け爛れた顔は、確かに人間だったのだ。

 たとえ、火傷で爛れ、黒ずんでいたとしても、それは紛れもなく春風という人間のものだった。

 炎の中、鬼が暴れる。

 そのたびに、纏っていた異形の身体が剥がれ落ち、傷ついた人間の姿が現れる。炎の下からは、爛れ、焦げた人の身体が露わになる。

 それはひどく無残な光景だった。

 そして、それでも炎は満足しなかった。炎は人の皮膚を舐めるだけでは飽きたらず、その骨肉ごと食いちぎった。

 人の体とは、こんなにも簡単に燃えるものだっただろうか。

 まるで木や紙でできているかのように、春風は燃えてゆく。

 炎の中から、彼女が叫んでいる。

「あああ、熱い、熱い、熱い」

 怪物になった彼女は、人間に戻り、さらに何も残さずに燃え散ってゆくのだ。

 春風は暴れ続ける。

 脆くなった右足があっけなく砕け折れ、彼女は体勢を崩して転がった。左手が状態を支えようとして、更に砕ける。

「……っ」

 美雪が息を呑む。

 見ると、春風の頭部は上半分がなくなっていた。燃え残った下半分に張り付いた唇の間から、それでも悲鳴が溢れ出して来る。

「なに……なんなの……」

 恋歌は自分の声が怯え、震えているのをどうすることも出来ずに聞いていた。

「熱い。熱い。熱い……」

 悲鳴が聞こえる。

 それは紛れもない悲鳴だ。

 だが、同時に喜びのようにも聞こえた。

 春風が暴れる。

 暴れては崩れ落ち、そして消えてゆく。

 消えてゆく。

 紙や木くずのように燃えていた彼女の体は、実際には木や紙のような炭さえほとんど残さずに消えていった。

 崩れ落ちた左手は。

 ぼろりと落ちた頭部は。

 地面で僅かな時間炎を纏った後、赤い光となって砕け散り、暗闇の中に溶け込んでゆく。

 そして、後には何も残らない。

 春風が肘から先の消えた腕を振り回す。目のない顔で叫ぶ。そして焼けた石の上に落ちた芋虫のように転げまわる。

 足が崩れ落ちる。

 肩が溶ける。

 ついにボロ炭のように首に亀裂が入り、転げまわる胴体についていけずに落ちた。

 悲鳴がとまる。

 それでも芋虫のような動きは止まらない。

 やがて、床に転がる頭部は、光となって燃え散った。

 恋歌たちは、もう何も言わない。

 何も言えない。

 その蠢き続ける黒ずんだ塊が、細かな光となって散ってゆくのを、長い時間、ただ黙って見つめていた。



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