49.鬼たちの夜 10
春風が変わってゆく。
客の人気があろうとなかろうとまだ三十歳くらいの女であった姿が崩れ、歪んでゆく。
ひび割れるように、彼女の皮膚に亀裂が入る。
右腕の出血はいつのまにか止まっていた。
左手に残る白く細い指は、黒ずみ、萎びて節くれだつ。
その指が、ぎしぎしと軋むようにぎこちなく動き、黒さを失いつつある髪の毛を掻き毟った。潤いを失い、枯れた松葉のように白く干からびた髪が、ごっそりと抜け落ちる。
逆に左手から白髪のような体毛が伸びる。
老いた猿のように。
同時に顔の骨格が崩れ、鼻がとがると同時に顎が後退する。
横顔が犬や狼のように鋭いものに変わってゆく。
開いた口からは苦痛とわかる呻き声が、ただ垂れ流れている。眼球は萎び、眼窩の中で木の実のように転がっていた。
「おおおおおおおお…」
「は、春風……」
恋歌の声はしゃがれていた。
そんな声しか出なかった。
春風は腰を曲げた。
いや、直立できないほどに体躯が歪んでゆくのだ。前傾した姿勢を、萎び黒ずんだ左手が支える。
犬のような顔。
それにしては、鼻は潰れ、豚や蝙蝠のようだ。
何よりその唇からは長く鋭い牙が伸びていた。
「……神様…」
美雪が呟く。
今は、信仰を同じくしていない恋歌でさえ、同じように祈っていた。
間違っている。
こんなの間違っている。
もはや、目の前にいる生き物が春風と呼ばれた遊女であったことを示すものは何もなかった。あるとすれば、その奇妙に崩れた体躯に纏った無様に艶やかな衣装だけだった。
おおおおおおおお。
そいつが吠える。
そう。吠える、だ。
怒声でもない。悲鳴でもない。
その声に込められた感情が、怒りなのか、悲しみなのか、恋歌にはわからない。
「何よ、これ」
「おいおい、人間やめちまうかよ」
愉快そうに善次郎が笑う。
その笑顔に恋歌は怒鳴りつけた。
「何なのよ、これはっ」
これが春風の望みであったはずがない。
こんなものを春風が望んでいたはずがない。
「知らねえよ」
善次郎は笑う。
「こんなのは俺も初めて見る」
愉快そうに、物珍しそうに、善次郎は春風の変貌を眺めている。
可哀想だ、などと思ってはいない。
恐ろしい、などと感じてはいない。
善次郎は笑っている。
「おいおい。早速人間やめちまうのかよ」
「あんたがこうしたんでしょう!」
「まあな。その通りだ」
善次郎は悪びれるようすもなく頷く。
「それにしたって、ここまで早いとは俺も予想外だった。もう少し頑張れるかと思ったんだがなあ」
つまらねえ。
善次郎のそれは、興醒めを嘆く口調だった。
「渇きは辛い、と言っただろう。こいつはそれにさっさと負けたのさ」
興醒めし、自分のせいで異形に変貌してゆく女に対し、すべての興味を失った口調だった。
「もう、いいぜ」
と、明るく善次郎は笑う。
「こいつ、好きにしていいぞ。」
「……このっ」
恋歌は狙われている自分の立場を忘れて掴みかかりそうになった。
高村晋輔は、それを無言で引き寄せる。
そのことに感謝しながらも、恋歌は感情のままに善次郎を罵った。
「この人でなし。少しは心が痛まないのっ?」
善次郎は饒舌な男だ。その口は、聞かれてもいないことをべらべらと喋る。だが、この恋歌の問いかけには、この男は答えなかった。
ただ、笑い続けただけだ。面白くもなさそうに。
その意味は恋歌にもわかった。
答えるまでもない。
この男の心は、これっぽっちも痛まないのだ。
死に瀕した女の心を弄び、その心を闇に落として、人としての姿さえ失わせた。
それでも、この男は春風に対してほんの少しの痛痒も感じない。
「まあ、つまらないちょっかいを出したヤツのこともわかった」
善次郎はうっすらと笑みを浮かべた。
やはり、それは嘲笑なのだろう。
だが、それはひどく陰気で、悪意に満ちた笑みだった。
「ふざけやがって」
その笑みが消える。
すっ、と。
暗闇に笑みだけが溶けるように、善次郎の表情から笑みが消えてゆく。残ったのは怒り。いつもいやらしい笑みを浮かべていた顔に、純粋な憤怒だけが残っている。
そして、暗闇の中、鬼が吠えた。
「どういうことだっ」




