48.鬼たちの夜 9
13/3/8誤字、表現、細々と変更。でも、内容的には変わっていないと思います。
「春風」と呼ばれた女は、眠ってはいなかった。
眠るような余裕はなかった。
すべてが急速に進行したからだ。
それでも、渇きによってもたらされたその感覚は、彼女の「目覚め」に他ならなかった。
単にのどが渇いたというのではなかった。全身が干涸らびてしまいそうなほどに水分を欲していた。まるで生まれてから一度も水を飲んだことがないみたいに、彼女の全身が渇いていた。
のどが渇いた、と彼女は思った。
どこかで水の音がする
滴の滴る音が目覚める前から聞こえていた。
周囲は暗闇だったが、それは不安を呼び起こしはしなかった。子供の頃、彼女は夜中に便所へゆくのが怖かった。暗闇には何かが潜み、蠢いているような気がしたものだ。
だが、恐怖はいつでも過ぎ去るものと彼女は知っていた。
暗闇の恐怖も、飢えの恐怖も、楼主や遣り手への恐怖も、いずれあたらしい恐怖に取って代わる。すべては一過性ものなのだ。
体はだるかったが、これまで感じたことのない強い力が身体の奥底にある。春風は目覚めた瞬間、それに気づいた。その凶暴なほどの力が何をするために備わっているのか、彼女は既に理解していた。
なすべきことは、頭の中に整然と揃っていた。
彼女の今までの恐怖を終わらせること。新しい恐怖に跪く代わりに、古い恐怖の源を彼女自身の手でズタズタに引き裂くこと。苦しみ、泣きわめく彼らを見て、高笑いしてやること。
彼女は目を開く。
視界は横に倒れていた。
つまり、彼女が横に寝かされているということだ。
恋歌がいて、美雪がいて、高村晋輔がいる。背後にあるのは、善次郎の気配だろう。
「春風……?」
恋歌が恐る恐る声をかけてきた。
彼らの位置と姿勢から考えると、意識を失ったのはほんの一瞬だけだったらしい。状況は全く変わっていなかった。
つまり、彼女は善次郎に血を吸われ、意識を失った。そして、力の抜けた彼女の体を、善次郎はそのまま放りだしたのだ。
ひどい話だ。
せめて、そっと床に横たえるくらいの気遣いはあってもよかろうに。
それにしても、のどが渇いていた。
微かに水の音が聞こえるような気がするが、今の彼女には、それは不愉快なだけだった。
彼女は自分の求めているものを正しく理解していた。多少の嫌悪感がないわけでもなかったが、古い規範はいずれ新しい環境に順応してゆく課程で失われてしまうものだ。彼女は誰よりもそれを知っていた。
彼女は立ち上がるつもりだった。
ただ、その前に喉を押さえた。
あまりにのどが渇いていた。
少し渇きすぎて……
「……っが…」
渇いて……
その瞬間、頭の中で飢餓が爆発した。
「があああああああ……」
不意に意識した欲望は、破壊的だった。
あまりに強烈な渇きに彼女は呻き声を漏らした。その声さえ嗄れていた。
なに、これ。
立ち上がるために立てた膝が、崩れ落ちる。
渇いている。
血が欲しい。欲しい。
欲しいよ。
血への渇望は強く、切迫していた。喉に触れる指に力がこもる。喉を通る呼気が火のように熱く、乾いている。呼吸するたびに、乾いた大気が喉を切り刻む。呼吸することに痛みを伴う。苦しい。痛い。それなのに肺は更に空気を求めている。息は荒く、忙しなかった。肩が勝手に上下し、手足には力が入らなかった。そのくせ、じっとしていられない。冷えた床の上で、彼女は転げ回った。
血が欲しい。
欲しいの。欲しいのよ。
誰か。
助けて。
虚空へのばした指は何も掴まない。その動作で、乾ききった手足の関節がぎしぎしと軋む。
なんだ、これ。
助けを求めようと見開いた目が乾き、開けていられない。瞼を閉じると、瞼が眼球に張り付き、目を閉じることさえできなくなりそうだ。悲鳴を上げようとだした声など、既に完全につぶれていた。
恋歌たちが、彼女を見ていた。
青ざめた顔で何かを叫んでいる。
その顔にあるのは、驚愕と恐怖だ。
だが、本当は、きっと彼女たちの敵に回った春風の苦しみを嘲笑っているのに違いない。
春風は、顔を振り、自分の味方を探した。
善次郎が彼女を見ていた。
彼は……彼もまた、嗤っていた。
彼女の苦悶に驚いた顔をしていたが、決して心配しているようにも同情しているようにも見えなかった。
彼が何か言う。
だが、何を言っているのかわからない。
春風は訴える。
話が違う。
こんなはずじゃなかった。
こんなことは聞いてない。
怒りがほんの僅かな間、渇きと苦痛を薄れさせた。善治郎への怒りが微かに欲望を凌駕した。
ちくしょう。この、くそ善治郎、嘘をついた。
いや、嘘はついていなかった。
まだ渇きに占領されていない心の僅かな部分が、望んでもいない記憶を引っぱり出す。あのとき善治郎は言っていた。
「渇きは耐え難いものになる」と。
ああ、言った。確かに言った。言ったとも。
でも。
これはひどい。ひどすぎる。
こんなの誰にも耐えられるわけがない。
それとも、善治郎はこれに耐えているのだろうか。
そう思ったとき、初めて彼女は善治郎の本当の恐ろしさを知ったような気がした。この苦痛の中で、どれほど歪んでいようと笑みを浮かべ、会話を続けることができる。彼女には一瞬たりとも堪えられぬ苦痛に、彼は耐えている。
いや、あの男は言った。
楽しめ、と。
楽しむ?
この気が狂いそうな渇きと空腹を?
無理だ。
あたしには無理だ。
無理だよ。
ちくしょう。
善次郎め。
そうだ。
この体の弱点を恋歌たちに伝えてしまおう。
もちろん、それは自分の弱点を晒すことでもあったが、今の彼女はそれさえどうでもよく思えた。
渇きを癒すこと。そして、こんなにも苦しい渇きをもたらした男に報復すること。この瞬間、それだけが彼女の望みだった。
助けて。
血を飲みたい。血を啜りたい。血を飲めば、この苦しみから解放されるのだろうか。されるのだろう。そうに違いない。
だが、今は血がない。
あまりに渇きがひどすぎて、体を動かすことができないのだ。 血が欲しい。血が欲しい。血が欲しい。
ガン。
そのとき、不意に頭蓋内で広がった衝撃に、春風は身体を震わせた。
なんだ、これ。
瞬間、ひとつの光景が脳裏に浮かんだ。
*
それは、ちっぽけで奇妙な光景だった。
自分が見ている光景が何なのか。その意味を、春風は反射的に考える。
顔の絵だった。
へたくそで不細工な顔だった。
顔は泣いている。
怒っている。
あまり笑わない。
春風の顔だ。
そしてその顔は、固いが薄い皮の上に書かれている。
つまり、小さな卵の殻に描かれた顔だ。
泣いたり、怒ったり、怯えたり。
少しだけ笑ったり。
それが何か、春風にはわかる。
それは、春風自身の心なのだ。
今、その顔は泣いている。悲鳴をあげている。
強い飢餓と恐怖を感じて。
だが、もっと怖ろしいのは、卵の殻そのものに亀裂が入っていることだ。
ガン。
殻が激しく叩かれている。
殻の上の顔は怯えている。彼女は怯えている。
ガン。
その鉄槌が何か、春風は知っている。
強すぎる欲望が、彼女の人格を内側から、根こそぎ破壊しようとしているのだ。
ガン。
やめて。
ガン。
私は血を飲む。
我慢なんかしない。
だから。
ガン。
我慢できない。
我慢するつもりなどないのに、血を飲まないでいるこの瞬間が無残なほどに苦しい。
鬼の身体を手に入れたら、血なんかいくらでも飲んでやる。彼女には禁忌に対する忌避感なんてない。 だが、今の彼女は死にそうな人間だ。
一番弱そうな恋歌をさえ、押さえ込むことはできないだろう。
いや。
そもそも、こんなに渇いていては、動くことさえ難しい。
渇きは強烈で、渇きを癒やす動作さえできないほどだった。
ダメだ。
このままでは、ダメだ。
彼女は楽しいことを考える。
考えようとする。
だが。
楽しいことってなんだ。
血が欲しい。
彼女は永遠の命を得た。それは素晴らしいことではないか?
ガン。
素晴らしい?
どこが。
彼女は、永遠の飢餓に陥ったのだ。
血が。
ガン。
血が欲し……
ガン。
うるさい。
渇きの鉄槌が殻に罅を入れる。
だけど。
血が……
うるさい。
雑音がひどくて集中できない。
今やるべきこと。
今考えるべきこと。
血が…
血が。
血が。
血が血が血が血が血が
ガン。
欲しい。欲しい。欲しい。欲しい。
ガン。
うるさい。
ガン。
ガン。ガン。
彼女は怯えている。
彼女は泣く。
彼女は怒る。
だが、そんなものをすべて押し流し、渇きは訴えてくる。
怖い。
ガン。
やめて。
ガン。
血が……血が…
私を壊さないで。
ガン。
卵に罅が入る。
卵は砕ける。卵の殻は砕けてしまう。
そこに描かれた彼女の心ごと。
すべて壊れてしまうのだ。 わからなくなってしまう。だって。
血が飲みたい。血に溺れたい。
いや。
強すぎる渇きが、彼女の精神を焼き焦がす。黒く歪んだ欲望は、鉄槌となって、彼女の理性にひびを入れてゆく。
「ああああああ……」
嗄れた声が、炎のように熱を帯びて喉を駆け上がる。泣いているのに涙は出なかった。頬についた土は、洗い流されなかった。
何故か、恋歌の顔が浮かんだ。
不愉快な顔だった。
だが、今の彼女にはどうでもよくなっていた。楼主や遣り手への怒りも、血への渇きを忘れさせてはくれなかった。ただ、生きている彼らを思うことで、血を求める欲望が強くなかっただけだ、
不愉快な顔。
想像するだけで喉が渇く。気が狂うくらい血が吸いたくなる。恋歌だけじゃない。誰も彼も、生きているものでなくても世界のすべてのものが彼女に血を連想させた。彼女に血を啜れと迫った。
彼女はその欲望に抗うつもりはなかった。彼女はすべてを受け入れたはずだった。
それなのに。
不愉快な顔。憎しみは強かった。
それなのに。
それさえも今の彼女にはどうでもよくなってゆく。
血。血。血。
ち。
頭の中のすべてが血と渇きに塗り替えられてゆく。復讐などどうでもよかった。この渇きさえ癒されるのなら。ほんのわずかでも収まるのなら。
恋歌。
彼女は恋歌を憎もうとした。必死で、彼女と彼女が象徴するすべてのものを憎もうとした。
そうでないと……
そうでないと。
彼女は悟っていた。
憎むことさえできなくなってきている。怒るほどのことなど彼女には思いつかなかった。
いや、ひとつだけある。
善次郎だ。
あいつだけは許せない。
こんな苦しみを与えるなんて、絶対に許せない。
この不死だという体が実は火に弱いということを、言ってやろう。あの無愛想な侍に教えてやるのだ。
でも、渇きが邪魔をする。
許せない。だから、憎む。
だが、憎み方がわからない。
悲しいことなら、彼女の人生にはいくらでもあったはずだが、それを思い出すこともできなくなっている。笑いなど、どうやれば笑えるのかさえ忘れてしまった。
血。血。血だけが私のすべて。
私は……渇いている。カワイテイル。
ただ、一つのことだけが頭の中を塗りつぶしてゆく。白く、それとも赤く熱を持った衝動が全身を駆け回っている。
自分は今、自我を捨てようとしている。
助けて。
血がほしい。血がほしい。
人間でなくなってもかまわないから……
自分の名前を思い出すことも難しくなっている。そもそも名前を思い出すことに何の意味があるのだろう。名前など、渇きを癒すのに何の役にもたちはしない。頭の中は血への欲望で沸騰し、白熱している。目の前が赤く染まってゆく。自分の見ているものが何なのかさえ、彼女はわからなくなっていた。
狂う。
寸前、彼女は最後の最後に、自分では意味さえわからなくなった言葉を放り出した。
「鬼は火に弱い」
その言葉がきちんと声になったのかどうか、春風にはわからない。
意識の中から放り出すのと同時に、そんなことはどうでもよくなった。
血。
それよりも血だ。
狂う。
何もわからなくなる。
いやだ。
そんなのいやだ。
だけど……。
*
何かが悲鳴をあげている。
「春風」は血を飲みたいのに。
血。
血を飲みたい。
それなのに、邪魔する奴がいる。
血。
血が欲しい。
血にまみれ、血を浴び、血に溺れたい。
それなのに。
タスケテ。
何かが泣いている。
「壁」の外で。
壁?
それは確かに壁だった。決して厚くはない。だが、「春風」を中に押し込め、彼女が出てゆくことを頑として阻む邪魔な壁だった。
そして、泣き声は壁のすぐ外で聞こえていた。
なんだろう。
無視できるほどに小さい声なのに、何故か無視することが難しい。
イライラする。
煩わしい。
苛立ちに壁を殴りつける。
だが、薄い壁は意外にも頑丈で、一撃では砕けなかった。
この壁が血を望む欲望の邪魔をするのだ。
だから、邪魔をするなと何度もそれを叩いた。
そのたびに、あの声は悲鳴をあげた。
ヤメテ。
ちくしょう。
ムシャクシャする。
あの声はなんだ。
ヤメテ。
うるさい。
そんなことより、血を飲みたい。
血を全身に浴びたい。
血にまみれ、血に泳ぎ、血に潜り、血に溺れたい。
タスケテ。
邪魔だ。
しゃくに障る。
血。
血が。
血が欲しい。
ワタシをコワサナイデ。
うるさい。
声は小さく、消え入りそうで、それだけに切迫していた。
やたらかんに障る雑音。
タスケテ。タスケテ。
うるさい。
「春風」は「拳」を振り上げる。うるさい。
タスケテ。
うるさい。
弱くて、未練たらしく、そのくせ図々しい声。
本当にイライラする。
それよりも血だ。
血。
血。
血。
ああ。我慢できない。
ヤメテ。
血だ。
我慢できない。
一瞬たりとも我慢できない。
血が欲しい血が欲しい血が欲しい血が欲しい血が欲しい
ヤメテ。
「うるさいっ」
「春風」はその苛立ちにまかせて拳を叩きつける。
そうして遂に、彼女は壁を打ち壊す。
彼女を閉じ込めるもの。それは卵の殻だった。
彼女はそれを砕き、開き、外へと出る。
血のためだ。
血を呑むためだ。血を飲むためだ。血を浴びるためだ。
彼女は初めて見る世界で産声を上げる。
そうして、足元の欠片からまだ微かに聞こえるか弱くも不愉快な声をあげるモノを踏み潰した。
今回、流れを途切れさせたくなかったので、長くなりました。
視点(?)変更しているので、どうせ途切れてはいるのですが。
コメント等いただければ嬉しいです。




