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47.鬼たちの夜 8

 歓喜。

 喉に鋭い牙が突き立てられた瞬間、彼女の体に強烈な喜びが沸き上がり、全身を駆けめぐった。

 豆腐に箸で穴を開けるような容易さで、彼女の首筋に穴が穿たれた。微かな張りと抵抗を軽々と突き破り、彼女の首の肉に牙は潜り込む。

痛みはなかった。

 複雑に絡み合った筋肉を切り、傷つけながら、牙は潜り込み、より深い部分に位置する血管を切断した。

 熱い。

 火傷しそうなほど熱い液体が喉の奥から噴き出してくる。苦痛は感じなかった。それは放尿のような安堵と快感を彼女にもたらした。力が抜ける。溜息が漏れ、目が焦点を失う。子供の頃、布団の中で失禁してしまったときのような開放感と罪悪感。

 首から溢れ出そうとする熱い液体を、彼女の首筋に張り付いた冷ややかな唇は一滴も漏らさず受け止めた。

 ごくり。ごくり。

 彼女のすぐ耳元で、鬼は喉を鳴らした。

 郭に来た男たちが女体にそうするように、鬼は彼女の喉にしゃぶりつき、喉を鳴らして、血を飲み続けている。鼻息はひどく荒く、ひどく……下品だった。

 自分もこれから人の血を吸って生きてゆくようになる。それでも、こんな品のない飲み方はしたくない、と彼女は霞みつつある意識の中で考えた。



 彼女の血。

 生命の象徴にして、おおもとの流れ。

 それがこの男に吸われている。

 彼女の命がこの男に貪られている。


 彼女は、彼に殺される。

 彼女は、彼に生かされる。

 彼が彼女の主で。彼女を殺す加害者で。彼女の教師で。彼女の夫で。彼女の父だ。


 彼女の血。彼女の命。彼女のすべて。

 すべてが彼に委ねられる。

 彼女の生命。

 彼女の自我。

 そして、彼女の……記憶。


 幼年時代に植えつけられた死の記憶。

 女衒に買われ、肉親に捨てられたと感じた劣等感。

 それに比して豊潤な食料を残していた長崎。

 安堵。

 それでも消せない屈辱。

 美貌を誇る同年代の少女たちとの待遇の格差。

 楼主の忌々しげな顔。

「安いからと買ってみたが、ここまで売れない女だとはな。無駄金を使っちまった。まったく、とんだ貧乏くじを掴ませられた」

 ごめんなさい、と彼女は謝る。

 ひたすら低姿勢で。

 その卑屈さに遣り手の顔は綻ぶ。

「ダメな子だよ」

 そう言いながら、他の遊女の残飯を彼女に分け与える。

 彼女は感謝する。

 それは心からの感謝……だっただろうか……

 いや。

 彼女は媚びることを望んでいたわけではない。仕方なく、仕方なく、彼女は遣り手に媚びへつらったのだ。

 客がいた。

 遣り手のまわしてくれた客。

 目当ての遊女に相手にされなかった客。

 その鬱憤を彼女で晴らそうとした客。

 いや、普通に彼女に優しくした客もいたはずだ。

 春風との時間を楽しみ、春風にも楽しませようとした客もいたはずだ。

 だが、思い出せない。

 思い出すのは、退屈そうに酒を飲む客。話す言葉さえ惜しみながら、彼女の着物を脱がそうと焦る客。

 準備の出来ていない女の身体で、強引に楽しもうとする客。

 痛みにあげる呻き声を、愉悦の声と勘違いする男ども。

 だが、彼女は拒絶はしなかった。

 そんなことをすれば楼主や遣り手にどんな目にあわせられるか。


 もともと体の強い方ではなかった彼女は、すぐに体調を崩した。

 それが続いたある日、彼女は地下の部屋をあてがわれた。

 ここは、人が暮らす場所ではない。

 ここは、牢で。そして物置だ。

 

 ここを訪れるような者はいない。ほとんど。

 美雪は例外だった。

 彼女だけは、いつでも、誰にでも優しかった。

 他の者もたまには顔を出してくれたような気がする。

 あるいはその中に恋歌もいただろうか。よくわからない。

 どちらにしても、それは「たまに」だ。


 ああ、それとあいつがいた。

 春風よりも郭で必要とされ。

 彼女よりも郭で嫌われている男。

 用心棒として雇われたあいつ。

 何故だかわからないが、あいつも時々ここに顔を出した。

 伏せる彼女の顔を見て、微かに笑い、少し話して、また上に戻る。

 あの口数の少ない乱暴者がここに何をしに来ていたのか、春風にはいまだにわからない。

 厄介者扱いされる自分の境遇を嘆き、お荷物扱いされる春風の境遇に憤った。

 別に、春風がどう扱われようと、あいつには関係なかっただろうに。春風にとっても、あいつがどう扱われようと関係なかったのだし。

 春風は気分がいいとき、太陽が高い時間に郭を出て、あいつにあったことがある。

 何が嬉しいのか、妙に上機嫌だったあいつは、通りの一軒の店に入り、彼女にかんざしを買って与えた。安いものではなかったと思う。

 あれは銀の簪だった。

 いい値段がしたからだろうか。

 彼女がつけるのを躊躇すると、あの男はひどく怒り、乱暴な手つきで彼女の髪にそれを刺した。そのまま頭に突き刺すつもりではないか、と彼女は怯えた。

 仕方なくそれで髪を飾ると、今度は、あの粗暴な男はひどく喜んだ。その凄みのある笑みが、春風にはまた恐ろしかった。

 用心棒は、時々、春風のところに来た。

 実は幾度か、春風はあの男に自分の体を好きにさせたことがある。

 あの粗暴さが自分の敵にならないでくれるなら、安いものだと思った。

 他の女に相手にされないあの男は、やたら興奮して、彼女を貪った。彼女が他の遊女の残飯をあさるような浅ましさで。


 今回、恋歌を拉致する計画を頼むと、彼は少しぼんやりとした顔で頷いた。

あの「声」の言うとおりだった。



 あの「声」のことを思い出したとき、春風の咽喉に暗いつく善次郎の気配に苛立ちと殺気が加わった。

 春風は怯え、体を強張らせたが、実際には指一本自分では動かすことは出来なかった。



 あの「声」。

 今日の明け方、善次郎に首を絞められ、死を感じた春風は、午後に恋歌と美雪が出て行った後も、怯えながらいつものように床に臥せっていた。

 そこにあの「声」が聞こえてきた。

「声」は、彼女の恐怖と苦悩を知っていた。

 姿は見えなかった。

 いや、見えただろうか。

 この暗い地下で、ぼんやりと何かの影が見えたような気がする。

 あるいはただ夢を見ていただけかもしれない。

 だが、「声」は確かに聞こえた。


 たぶん、あの声は……女だ。


 そいつは、彼女の気持ちを知っていた。

 そして、彼女の恐怖、苦悩、そして願望も。

 だから、春風は彼女に縋った。

 善次郎に対する恐怖。不満。

「声」は答えを教えた。

 静かに。

 とても丁寧で親切だったが、不思議と優しさは感じなかった。ただ、静かに、もしかしたら春風を観察するように、様々な指示を下した。

 なすべきこと。その方法と、必要とする手駒とその動かし方。

 あの用心棒が簡単に春風の言うことを聞いてくれたのは、春風にとっては驚きだった。

 何故だろう。

 たぶん、「声」の主には他人に命令する力があるのだ。そして多分、あいつが善次郎を鬼にした「最初の鬼」なのだろう。

 実際、春風の望み通り、あの大男は二つ返事で言うことを聞いてくれた。春風の言うとおりにごろつきども集めてくれた。

 そして、春風の望みどおりに恋歌を捕らえてくれた。

 もっとも、あの高村晋輔1人に、すべての計画をひっくり返されてしまったが。

 使えない男。使えない男どもだ。


 本当は、春風も思ったのだ。

 あの「声」の主が鬼ならば、いっそのこと善次郎になど頼まず、「最初の鬼」に直接鬼にしてもらった方が手っ取り早い。そうすれば、あんな危険な男になど関わらずに済む。 だが、春風はそうしなかった。

 できなかった。

 丁寧で、親切で、静かな声。

 だが、春風の気持ちを知りながらも決して本当に共感することはなく、逆に諌めることもなく、静かに、冷やかに助言する。指示を下す。命令する。

 あの……「女」は、春風を好いていない。

 どんな意味でも望んでいない。

 ならば何故春風を助けるのか。

 それはわからない。

 だが、春風が救いを求めても、あの「声」の主は決して助けてくれない。

 春風はそう感じた。


 だが、それでもいい。

 今や、彼女は、善次郎にさえ勝ったのだ。

 彼女は、善次郎から永遠の命を得る。

 そうしたら……。

 そうしたら、彼女はそれでも善次郎に尽くそう。もちろん、全力で、ではないかもしれない。なんといっても、善次郎もまた、彼女を本気で望んでくれているわけではないのだから。結局、彼は恋歌を望んだのだ。

 それでも、永遠をともに過ごす伴侶として、彼を身近に感じるときはあるだろう。身近に感じたいと思うときもあるだろう。

 だから……

 これからは……

 今までの「春風」を捨てる。

 もう、「春風」はいらない。そもそも彼女の本当の名前は「春風」ではない。だが、本名にもこれからは意味を持たなくなる。彼女のこれからの名前は善次郎が決めるべきだ。

 これまでのことは、もういらない。

 いくつかの顔を思い浮かべる。彼女を縛りつけてきた顔たちだ。

恋歌、楼主、遣手、楓、美雪、それから……

 程度の差こそあれ、好意を持って思い起こせる顔はひとつもなかった。

自分は彼らの血をこれから飲む。

 もちろん、ただ飲むわけじゃない。

 自分はもう彼らには負けない。彼らに従う必要はない。彼らに苦しめられることはない。

 自分が受けた屈辱、苦痛。すべて彼らに返してやる。

鬼が彼女の肩を掴んでいる。痛いほど強いその握力が自分のものになる。彼女は楼主の首をねじ切る自分を想像して楽しんだ。鬼の指には鋭い爪が伸びている。その爪で、自分は恋歌の美しい顔に「醜」という字を刻もう。何でももののわかった風な美雪の目をえぐり出そう。遣り手の舌をちょんぎってやる。

「春風っ」

 恋歌が叫ぶ声が聞こえた。

 その理由はわかった。

 全身から力が抜ける。春風は昏倒しようとしているのだ。

 構わない。目が覚めたら、あいつを殺そう。

 楽しくゆがんだ妄想に陶然としながら、彼女は暗闇の中、血を啜りとられた快楽の残滓に身を委ね、最後の意識を手放した。


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