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46.鬼たちの夜 7

2013/2/25 誤りを訂正。

右手を切断された春風が「両手の拳」を握り締める描写を訂正。

第一稿では彼女は頚動脈を切断されていたのです。言いにならないでした。


2013/4/28

中盤に加筆。

「恋歌」

 春風が泣き声をあげる。

 決して頭を下げたくない相手に向かって、哀願の表情を向ける。

「御願いよ。あんたからも言って。あたし、死んじゃうよ」

 その声はかぼそく途切れ途切れだった。しゃがれた声だった。よく言葉として理解できたものだ、と恋歌は自分で思うくらいだった。

 そんなことを考えていた。

 そんなことを考えながら、自分はどんな顔をしているのだろう、と思う。

 呆然として。

 けれど、周囲のことが理解できる程度には冷静で。

 目の前にいる先輩の女郎が死にかけている。

 手首ごと切断された出血が彼女の生命を脅かす量であることは、素人目にもわかる。

 高村晋輔は唇を噛みしめながら春風に近寄ろうとしているが、善次郎はいやらしい笑顔を浮かべながら、それを阻んでいる。晋輔は春風の出血を止めるために、彼女の手首を強く縛ろうとしながら、それを果たせずにいるのだ。

 春風は、憐れみを請う眼差しで恋歌を見ている。

 間違いなく、彼女は自分を嫌っていて、彼女が望む変化を体現していたら、おそらく春風は、恋歌を殺しに来ていた。

 あるいは、彼女にとっては、恋歌への憎しみもまた鬼への変化を望む一因であるのかもしれない。それならば春風にとって、恋歌は最も頭を下げたくない相手であるはずだった。

 それでも。

 それでも彼女は頭を下げる。そいつへの憎しみを晴らすためなら人間を止めてでもいいとさえ思える憎しみの的に向かって、彼女は頭を下げる。

お願いします、と春風は頭を下げた。

「こいつに、あたしを噛むように言ってよ」

 その姿は本当に惨めだった。

「駄目よ、恋歌」

 硬質な声が恋歌の耳朶を打つ。

「そんなことをゼズスはお許しにならない」

「お前は黙ってろっ」

 春風が美雪を振り返り、怒声を叩きつけた。

 生死をかけた恐怖の瞬間に「部外者」から突き付けられた情を挟まない正論。

 それが激昂に相当する状況だとは理解していても、恋歌は震えあがった。

 その視線を自分が向けられたのではなかったにもかかわらず、恋歌は震えあがった。

 そしてもちろん、美雪も目に見えて怯んでいた。

 それでも、美雪は震える声で繰り返した。

「駄目よ、春風姉さん。ここで悪魔の誘いに乗っては駄目。人を人でなくしてまで、生かそうとするのは間違ってる。人の生死は主が決めることよ」

「なんだ、それ」

 春風の声が怒りに震えている。

 その声にはっきりと気押されながらも、美雪は春風に語りかけた。

「春風姐さん、人はただ正しく生きていればいいんです。死よりも悪いことがある。恐ろしいことがある。今を生きながらえても、結局……」

「じゃあ、お前が死ねよ」

 美雪に向けた声には飽和しきった毒があふれていた。

 殴られたように美雪は体を震わせる。それでも、春風から視線は逸らさなかった。

「駄目です。春風姐さん」

「じゃあ、お前が死ねよっ」

 春風が怒りに身を震わせる。

 美雪に足を踏み出し、残った左腕を春風に突き出す。

「駄目よっ」

 恋歌は、美雪の体を強引に引き寄せ、彼女を庇うようにして、その前に立った。

「このっ」

 苛立ちを募らせ、春風が強く恋歌を睨む。

 恋歌はその目を睨み返す。

 自分の目はまだ揺らいでいる。それがわかる。それでも、精一杯の平静を装いながら、恋歌は告げた。

「善次郎、これが結論よ。春風を噛んじゃ駄目」

「……おまえ」

 不意に硬い声で結論を出した恋歌に、春風が怒りと驚きと恐怖の籠った声をあげる。

 怯えていた恋歌に、結論を出せるとは思わなかったのだ。

 それはそうだろう。

 実際、恋歌は怯えていた。

 春風が春風として怯えていたら、最期まで結論を出せなかったかもしれない。

 だが、春風は美雪を脅した。

 美雪はこの春風と対峙して、それでも考えを翻さなかった。

 だから、恋歌は結論を出した。その意味はわかっているつもりだった。自分には背負えない荷だとわかっているつもりだったとしても。

「わかった」

 善次郎は低く答える。

 面白そうに。

 つまらなそうに。

 恋歌が結論を「出した」ことが面白そうに。

 恋歌が結論を「出せた」ことがつまらなそうに。

 いずれにしても、春風の動揺は善次郎には愉快だったらしい。

 再び醜く歪んだ笑みを、春風に向けて大きく広げた。

「だ、そうだ」

「待って……あたしは……」

「そうだな。それが正義ってもんだ」

 口にして、善次郎は大笑いを始めた。

「鬼になんかなっては駄目だぞ、春風」

 善次郎が笑いながら頷く。

 春風は、唖然として善次郎の顔を見返す。どの口が言うのか、と。

「そうとも。清く正しく死んでみせるのが正しい道だぞ。人として」

 善次郎は、春風の視線をおどけた顔で受け止め、笑いだした。

 春風は笑った。

 いや、笑うように顔をくしゃくしゃにした。悲鳴を上げるように。すべてを失って絶望したように。その顔を見て、更に善次郎は馬鹿笑いする。

 春風は俯いた。

 右腕の傷口から血を流しながら、左手の拳を握り締める。肩が震える。伏せた顔から、ぽたぽたと涙の雫が落ちて、床に溜まった血をほんの少し薄める。

「ちくしょう」

 震える声が、恋歌の耳に辛うじて届く。

「ちくしょう。ちくしょう。どいつもこいつも馬鹿にしやがって……」

 その肩が小刻みに震える。

 震えは次第に強くなる。

 落ちる涙の粒と同じように。

 嗚咽と同じように、次第に大きくなる。

 だが、それは不意に。

 止まった。


「わかった」

 と、春風は俯いたまま言った。

「わかったよ」

 その短い言葉に感情はなかった。

 怒りも惨めさもすべて削ぎ落とし、書かれた文字を棒読みしているような声だった。

「いいよ。それで」

「……春風?」

「いいよ。全部ぶちまけてやる」

 顔をあげる。

 気弱な表情ではなかった。懇願する卑屈な笑みではなかった。

 獰猛で悪意に満ち、攻撃的な笑みだった。

 つい先ほどまで善次郎に向けられていた類の笑み。それを、春風は逆に、善次郎に向けたのだ。

 嘲笑だ。

 春風のその笑みが、今度は善次郎の口元に澱んでいた歪んだ笑みを消し去った。

 いつも人を見下しているような男だからこそ、そういう視線には敏感なのだろう。

 善次郎は、探るような視線を向ける。

「何をする気だ」

「私が気づかないと思ってるの?」

「なんのことだ」

「あんたの弱点よ」

 春風は笑った。

 右手を切断され、左手で抑える傷口から止め処なく血を流しながら、彼女は破顔した。

「あんたの傷。どうしてあの傷がついたか、あんたにはわかってない。私にもよくはわからない。でも、それでも、『ああいう傷』になったということは、あんたは『ああいうもの』が苦手だってことだよね」

「……」

「あんたは私が馬鹿だと思ってる。私のことなんて、どうにでも扱えると思ってる」

 春風はそこで一度声を下げた。

 低く。

 囁くように、善次郎の顔を覗き込む。

 それから大きな笑い声をあげた。

「馬鹿はあんたよっ」

 あっはははははは。

 高らかに、これまでの鬱憤を晴らすかのように。

 これまで塞き止められてきた感情をすべて吐き出すように、彼女は大笑いした。

「あんな傷を見せて、私が何も考えないと思ったの?ああ。馬鹿はイヤだわ」

「……てめえ」

「あら、何よ、その目は。こいつらに教えてあげようか。あんたの苦手なもの」

「春風殿……」

 高村晋輔がしゃがれた声で呼びかける。

 けれど、もちろん、春風は、自分を傷つけた若侍に優しい返事など返さなかった。

「何よ。あんたもあんたよ。人をこんな目に合わせておいて、今更、敵の弱みを教えろ、なんて馬鹿なこと言うつもりじゃないでしょうね」

 一体、どれだけの血が流れているのだろう。

 彼女の足元には、もう茶碗数杯ではすまない程の血が溜まっていた。

 明るくない蝋燭の火がその血溜まりに反射し、暗闇に漣のような光を揺らめかせる。

 間違いなく血が足りていないのだろう。

 春風はふらついている。

 それでも、高揚した気分だけで、自分の身体を強引に立たせ、彼女は嗤う。

「わかった、春風」

 善次郎が笑顔で頷いた。

 鷹揚に。

 あるいはそう装って。

「来い。お前を噛んでやる」

「駄目よ、春風姉さん」

 美雪は強い声で制止する。

「そっちに行っては駄目」

 恋歌は何も言わなかった。

 善次郎の言葉など、最初から当てには出来ないと思っていたから、驚きも裏切られた怒りもなかった。

 善次郎も言い訳するつもりもないらしい。

 薄っぺらい笑顔を浮かべて、春風を手招きする。

「いいからこっちに来い。噛んでやるから余計なことは言うな」

「あははははは」

 春風は笑った。

 開き直ったことで立場が逆転したことが、さぞ愉快なのだろう。少し強張ったようにも思える善次郎の笑みに、挑発的な笑顔を向ける。

「どうしようか。全部ぶちまけちゃう?どうせ、私は死ぬんだものね。せめて、その前に正しいことした方がいいかなあ?」

「待てっ」

 善次郎は大声をあげた。

「お前の勝ちだ。それでいい。な?」

「あんたはそれでいいでしょうよ。でも、私の気持ちはどうなるのよ」

 春風は陰気な笑みを浮かべて、善次郎に背を向ける。

 恋歌たちに与しそうな態度ではあるが、実際、本当にこちらにつくつもりがあるのかどうかはわからない。

「頼む」

 ついに善次郎は春風に頭を下げる。

「頼むよ。こっちに来てくれ。永遠の命をお前にやるから。そいつらに余計なことは言わないでくれ」

 その口調は紛れもなく懇願だった。

 憐れみを誘い、求め、矜持を捨てて訴える惨めな懇願だった。

 それなのに。

 恋歌は、眉をひそめる。

 この違和感は何だろう。

 春風は、何かの秘密を握っている。それを公にされることを善次郎は怖れ、春風を吸血鬼にすることで、彼女に永遠の命を約束している。それは理屈に合った感情だった。

 それなのに。

 何故、こんなに善次郎が不気味に見えるのだろう。


 春風は善次郎を嘲り、それでいて、彼の提示する褒美に心を動かされていた。

 結局、恋歌たちの側についたら、ここで命を落とすかも知れないのだ。

 善次郎が頭を下げたことで、春風は溜飲をさげることができた。

 あとは彼女の望むものを誰が持っているか、だ。

 だから、春風は笑顔で善次郎に歩み寄る。

 再び勝者としての余裕の笑みを浮かべながら、彼女は善次郎に恩を売るつもりで近寄る。

 善次郎は両腕を大きく広げ、抱きしめようとするように彼女を迎えた。

 その笑顔が、恋歌の恐怖をあおった。

 善次郎の喜びが見えた。

「駄目よ、春風。そいつは駄目っ」

 それはつい先ほども、高村晋輔が春風に警告したことだった。

 善次郎という男。

 その男の危険性。

 それを知っているはずの春風が、それでも彼に屈服した瞬間だった。


 駄目。

 恋歌はそう言った。

 そのとき、春風は振り返った。

 勝ち誇った笑みを善次郎に向けていた春風は、今まで一顧だにしなかった恋歌の呼びかけに、何故かそのとき振り返った。

 彼女は嗤っていた。

 その背後で善次郎も嗤っていた。

 その手が伸び、善次郎は春風を片手で抱き寄せた。

 春風の笑みが強張る。

「安心しろ」

 だが、善次郎の声は愉快そうだった。

 唇が開く。

 暗い口腔の中、鋭い牙がぎらりと光る。

「安心しろ。噛んでやる」

「……うん」

 春風の顔に不安がなかったわけではない。彼女が怯えていなかったわけがない。

 それでも、彼女はぎこちない笑みを浮かべて目を閉じ、背後の善次郎に身体を委ねた。

 善次郎は、嗤っていた。

 彼は、怯えていなかった。

 最初から、この男は春風に屈してなどいなかった。

 ただ、自分の言葉で春風が動揺し、思い通りに動くことを楽しんでいた。玩具のように彼女を動かすことを楽しんでいただけだった。

「逃げて……」

 恋歌の声に、今度は春風は反応しなかった。

 微かに左に傾けた首。

 その反対側に善次郎は背後から顔をうずめ、その鋭い牙を女の白い首筋に打ち込んだ。 


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