45.鬼たちの夜 6
峰打ちはできなかったのか。
恋歌は考える。
果たして、刃だけ弾き飛ばすことはできなかったのか。
恋歌は、そうも考える。
助けてもらった身には、抗議することはできないが、それでも恋歌はそう考えてしまう。
春風の右手は、途中まで巻かれた布ごと切断されていた。右手を完全に覆っていた布は、簡単に解くことができるようにしてあったらしい。
その手は恋歌に突き刺そうとした刃を握ったまま、春風の足元に落ちている。
宵の時、あの用心棒の手首を砕いたこの若侍なら、女の手首くらい切り落とさなくてもやりようはあったのではないか。
あのときと、何が違うだろう。
あの時の相手は、格下とはいえ刃を振るうことに慣れた侍だった。今度はただの遊女だ。
あのときより、遥かに与しやすいはずだった。
あとは、何も違わない。
せいぜい、狙われているのが晋輔自身か、旅先でであったただの遊女か、という程度だ。
それなら、自分が狙われているときのほうが危険を意識するだろう。当然攻撃的になるし、相手に対する手加減をしている余裕もなくなる。
だが、たかが遊女が狙われているのなら、その女を見捨てればいいことだ。
冷静に対処する余裕はあっただろうに。
恋歌はそう思う。
そんなことを考えながら、恋歌は目の前で起きていることを呆然と見ている。
光は蝋燭だけ。
色は鮮やかとはいえない。
だが、それでもわかる。
目の前で流れているものは、間違いなく真紅の鮮血であるはずだった。
「いやあ」
春風が慌てて、自分の傷口を押さえている。
「血が、あたしの血が」
彼女が悲鳴をあげる。
「血が流れちゃう。まだ、なってないのに。死なない体になってないのに」
猛烈な痛みがあるはずなのに、春風は血が吹き出す傷口を握り締めるように押さえる。
だが、猫に引っかかれたような浅い傷ではない。
春風は、晋輔の太刀によって、右の手首ごと跳ね飛ばされたのだ。切断面は手首そのもので、そこから鮮血は噴出すように溢れていた。
押さえ込んだ指の隙間から、真紅の血が流れ続ける。左の手の甲をぬらし、手首を濡らし、二の腕を伝って大量の血が滴り落ちる。
駄目、と彼女は言う。命じれば流れ落ちる血が体の中に戻ってくる、とでも思っているかのように。
「駄目、駄目、駄目。駄目なの。出てきちゃ駄目なの。駄目なのに。どうしよう。どうしよう。どうしよう。どうしよう。」
僧侶が経でも唱えるように、平坦な口調が単調な言葉を繰り返す。
どうしよう。どうしよう。どうしよう。
恋歌は何も出来ずにいた。美雪もだ。
高村晋輔は、春風には眼を向けず、善次郎に意識のすべてを集中させていた。
違う。
晋輔は目を逸らしているのだ。
自分で振るった刃のもたらしたものを、彼は自分で直視できない。
春風が声をかけただけで太刀の切っ先を落とした。
春風が模した誰かを見るのが辛くて、晋輔はほとんど気持ちを折られていたのに。
それでも、彼は恋歌のために身体を動かした。
逃げ出したい気持ちを封じ込め、傷つけたくない相手に太刀を振るったのだ。
善次郎。
彼は嗤っていた。
高村晋輔を横目で見て、晋輔が少し趣味の悪い冗談でも言ったかのように笑顔を向ける。
「ひどいヤツだな、お前。こいつ、死んじまうぜ」
「……」
晋輔は答えない。
彼が望んで斬ったのではないことは、恋歌にもわかる。彼は、恋歌を助けるために、やむなく太刀を振るってくれたのだ。
それをわかっていて、善次郎は愉快そうに晋輔を責める。
善次郎。
結局、誰にとっても、物語の展開はそこにしかなかった。
「噛んで」
春風が善次郎を振り返った。
「噛んで。早く噛んで」
「俺も経験はないんだが」
善次郎は楽しそうに嗤った。
「速いぞ、きっと」
「何でもいいよ。噛んで」
「血液が減ってるからな。生命力も下がってる。もともと病気の進行していた体だ」
「だから早く……死んじゃうよ」
「生きている人間の部分が少ないからな。きっと、あっという間に変化する。人間なんてあっという間にさよならだぞ」
「そんなのちっとも構わない」
春風は半狂乱になりながら断言した。
構いやしないわ。
人間なんてどうでもいい。
「春風…」
恋歌の呼びかけはまったく届いていなかった。
死ぬのはイヤ、と春風は叫んだ。
「あたしばっかりイヤな思いをしてきた。もうウンザリよ」
「やめて春風」
「うるさい」
春風は振り返った。
もちろん、恋歌の声は聞こえていたのだろう。最初から聞こえていないはずがない。
「あんたなんかに何がわかる。あんたが、あたしに何を命令できるのよ」
「春風」
「うるさい。じゃあ、あんたが何とかできるの?死んでしまう私の体を死なないようにできるの?あんたのせいよ。みんな、あんたたちのせいなのよ」
そんな。
春風の糾弾はもちろん、理不尽なものだった。考えるまでもなく、子供よりも稚拙な八つ当たりにすぎない。
それでも、春風の鬱屈を恋歌は理解した。
春風がいつも我慢してきたことを、恋歌は感じていた。
善次郎は笑っていた。
明るく楽しそうな、場違いな笑い声を振りまいていた。
「どうする、恋歌。お前は、春風にどうしてほしい?清く正しく死んでほしいか?俺は、お前が好きだからな。
そうだ。
最初の客として、お前に贈り物をしてやろう。お前の言うことを聞いてやる。おまえが駄目だと言ったら、こいつのことは噛まない。こいつにはきれいなままの体で、人間として死んでもらおう」
「……なによそれ」
その選択を恋歌に迫ることの理不尽を、誰よりも感じたのは春風だった。
春風は唖然として善次郎を振り返る。
「なんなのよ、それはっ」
悲鳴のような激昂だった。
「あたしはあんたの言うことを聞いたわ。体中に包帯を巻いて、この無愛想な侍に愛想振りまいてやったじゃない。そうしたからこの有様なのよ。この格好してれば、こいつは手出しできないって言ったのに。あんたのせいでしょ。あんたのせいじゃない」
眉を吊り上げ、顔に刻まれた皺の一本一本で怒りを示し、善次郎に詰め寄る。
「あたしは約束を守った。今度はあんたの番よ。あたしを死なないようにしてくれるって言ったわよね。言ったわ。約束よ。約束じゃない。あたしを噛んでよ」
「だとよ」
善次郎は笑う。
笑顔で、悪戯っぽいとさえいえる笑顔で恋歌を振り返る。顔を俯かせる恋歌の視線の先に顔をねじ込む。愉快そうな笑い顔が、下向きの視界を遮る。
青餅な二人なら、彼女が吹きだし、喧嘩していた二人が仲直りできる場面なのだろう。
「……」
恋歌は即答できなかった。
恋歌の願いは単純だった。
噛んでほしいわけがない。
先輩女郎に怪物に変貌してほしいわけがない。
そして、噛むな、というのは容易い。怪物になる誘いをはねつけて欲しいと春風に願いを言うのは他人事として簡単だった。
だが、それは春風に死ねと言っているのと同義なのだ。
「この際だ。教えてやろう」
唇の端を吊り上げながら、善次郎は恋歌たちに向けて話し出した。
「吸血の鬼に噛まれると鬼になる。
一度でも噛まれれば、不死の鬼のできあがりだ。
元気な人間なら、一晩かけて、ゆっくり変化してゆく。
だが、こいつみたいに死にかけているなら、変化は急速に進行するだろうよ。
どんな風になるのか俺にもわからん」
善次郎は気楽な口調で、結論を放り投げるように言う。
「進行した鬼への変化は、人の血を吸うことで確定する。
喉が渇くんだ。そりゃ、もう、気が狂うほどだ。
もちろん、人の生き血を吸うことに、最初は誰でも躊躇する。だが、結局は渇きには抗えない。
決して、だ。
俺か?
俺は、最初から抗わなかった。飲みたかったから、すぐに飲んださ」
何の後悔も罪悪感も感じさせない口調だった。
実際、善次郎に後悔はないのだろう。罪悪感など感じてもいないのだろう。
だから、こいつはこれほど楽しそうなのだ。
「それでも人の血を吸わないと、不死を拒むのだから死ぬことになるのだろうな。だから、春風、我慢はよくないんだぞ」
そう言って、善次郎は春風に笑顔を向けた。
自分で言ったことが可笑しかったのだろう。春風の歪んだ表情が愉快だったのだろう。 善次郎の笑い声は大きくなり、哄笑になった。
それを見る春風の顔は、それこそ死人のように蒼白だった。
それが失血のためか、屈辱と恐怖のためか、もはや恋歌にはわからなかった。




