44.鬼たちの夜 5
残酷な場面があります。
「……なんてことを」
美雪が震える声で呟いた。
「愚かな」
高村晋輔が低く呟く。
恋歌は何も言わなかった。
ただ、春風が善次郎の側につくことを選んだ瞬間、最後に見たのが自分であったことに傷ついていた。
春風は、確かに恋歌が嫌いだったのだろう。
善次郎という男に不安と不信を抱きながらも、それでも善次郎のくれる未来に賭けてみたくなるほどに。
だから、十字架を檻の外に放り投げて、春風は笑っていた。
開き直ったような笑顔だった。そして、強がりを含んだ笑顔だった。
強がりは恋歌に対してのもの。恋歌に「ざまあみろ」と言いたいが為の笑顔だった。
「やってやったわ」
春風は笑う。
誇らしげに善次郎に向き直る。
「これでいいんですよね」
「ああ」
「私たちは、これで勝てるんですよね」
「ああ」
春風は笑顔だった。
誇らしげだった。
だが、彼女が口にした言葉遣いは善次郎に対して、もはや対等なものではなかった。
春風はもう、善次郎の機嫌を損ねるわけにはいかない。彼女は意識することさえなく萎縮してしまっているのだ。
「じゃあ、私を噛んでくれますよね?」
春風は問う。
笑顔で。
泣き出しそうに怯えた笑顔で。
彼女に多少なりとも好意を抱く者なら、彼女を仲間だと感じる者なら、元気付けてやりたくなる、不安で壊れそうな笑顔。
だが、善次郎の声に優しさはない。
「……そういう約束だったな」
「はい」
「忘れちゃいないさ」
「はい……」
「だが、先にやることを片付けてしまおうか」
そう言って、善次郎はこちらに向き直る。
春風は、そのことに安堵して笑顔を浮かべる。
「はい。片付けちゃいましょう」
そう言って、春風は懐から短い刃を取り出した。夕方、恋歌を脅した小太刀よりも短い、調理場にありそうな刃だった。
その小さな刃を握り、彼女は暗い笑顔で恋歌を見た。
「お前は、春風殿に恋歌を殺させたいのか?」
その問いかけを口にしたのは、高村晋輔だった。
彼の視線の先には善次郎がいる。だから、晋輔は善次郎に聞いたのだろう。
だが、視線を揺らしたのは春風だった。
動揺、というほど激しいものではない。
だが、その問いかけを彼女が望んでいなかったのは確かだった。
「ああ?」
善次郎の口ぶりには訝しさが含まれている。
「何故、そう思う?」
「宵の頃、恋歌は春風に殺されかけたからだ」
「……」
「数人の男を従えていた」
「男を……」
善次郎が自問するように低く呟く。
やはり、善次郎が春風を指嗾したわけではないのだ。
「善次郎、お前が動かしたのではないのか?」
「俺が?俺がねえ。知らねえなあ」
面白くなさそうに笑顔を浮かべ、牙をむく。
その姿に耐えきれなくなったように、春風が苛立ったように善次郎に言った。
「こんな生意気な小娘、要りませんよ」
「あん?」
善次郎は唇の端を吊り上げる。
「こいつ、ウルサいんです。話すのは不平不満ばかり。感謝ってものを知りません」
「……へえ」
「私はあなたの言うとおりにするわ。何でも言うことを聞く。いつでも。いつまでも。あなたがくれる永遠の命で永遠にあなたに尽くします」
「だから、そいつを殺そうとしたのか」
「その方があなたのためなの」
だからお願い。恋歌なんかに執着しないで。私を見て。
その言葉にならない懇願が、恋歌にも聞こえた。
言葉にすれば涙声になりそうな懇願だった。悲鳴のような懇願だった。
恋歌には聞こえた。
高村晋輔に聞こえたのかどうかわからない。
彼はただ、硬い声で言った。
「やめろ、春風殿」
もちろん、春風は聞こうともしない。
ただ、自分の思いを伝えようと必死だった。
だが、善次郎は、春風の思いを知ろうとはしなかった。
「俺は、恋歌がいいなあ」
無邪気なほど正直に、春風に対する気兼ねなく、善次郎は答える。
殴られたように、春風が身体を震わせた。
「……ふざけないで」
「別にふざけちゃいないさ」
「…よせ、春風殿」
「ふざけないでください」
晋輔の制止を春風は聞こえないかのように、善次郎に詰め寄る。
「ふざけないで、私のことを……」
「だからあ、俺は真面目な話、お前よりこいつの方が……」
「ふざけないでっ」
春風が絶叫する。
「こいつがっ」
充血した目で善次郎を見据え、恋歌を指差す。恋歌の目の前に、春風の人差し指が突きつけられる。十字架を投げようとした春風に駆け寄ろうとした恋歌は、春風に触れられるほど近づいていたのだ。
「恋歌があんたに何をしてくれるっていうの。いい加減、気づきなさいよ。あんたはこいつに嫌われているの。この小娘は、あんたのことをこれっぽっちも思っていない。
だけど、私は全部あんたにあげる。私が生きるこれからの時間、全部であんたに奉仕する。
だから、あの十字架だって、捨てたんだ。
私が捨てた。
私があんたを助けたんだよ。
なのに、なんで。
なんで、あんたはこんな小娘を……」
「春風殿……」
「うるさいっ」
春風は必死で抗議する。
悲鳴のような抗議だ。
いや、それは本当に悲鳴だった。
彼女の見栄も捨てた心からの懇願に、恋歌は心をかき乱される。
春風の想いが伝わる。
自分を殺そうとした女の想いなど、本当は知りたくはない。
だが、それでもわかる。
恋歌にでさえ、その気持ちは想像がつくのだ。
春風は必死だった。
確かに、もともと春風は、恋歌のことを好きではなかったのだろうが、それにしたって、殺したくなるほどではなかったはずだ。
だが、春風は善次郎の歓心を得ようとした。
そのために善次郎に媚び、邪魔になる恋歌は排除しようとした。
それは恋歌には受け入れられない。殺されるわけにはいかない。
それでも、春風が必死だったことはわかる。
彼女がどうしても善次郎に気に入られたかったことはわかるのだ。
その彼女の気持ちを容赦なく切り捨てる善次郎。
春風の聞く者の心を掻き毟るような悲鳴に、善次郎の笑みは更に強く弧を描いてゆく。
瞬間、恋歌は知った。
高村晋輔が、懇願する春風を制止する本当の理由を知った。
善次郎は楽しんでいる。
この男がどの程度恋歌に執心しているのか、恋歌は知らない。知りたいとも思わない。
だが、この男が、今や恋歌を望む以上に、春風の狂乱を見て楽しんでいることは間違いなかった。
春風が望めば望むほど。
それを拒絶して、春風が感じる絶望が深ければ深いほど。
善次郎は楽しいのだ。
一体、春風の何が善次郎は憎いのだろう。そんなにも春風を追い詰める理由が善次郎にあるのだろうか。
そう心の中で疑問を感じながら、恋歌は同時にその醜悪な答えを見出していた。
理由などないのだ。
春風には善次郎に嫌われる理由などない。
善次郎には、春風を苦しめて喜ぶ「理由」などないのだ。
それでも、彼は楽しんでいる。
目の前で自分を求める女が狂うほどに絶望する姿が、ただ、ただ、楽しいだけなのだ。
だから、春風が懇願することは無駄なだけではなく、更に自分を追い詰める結果しかもたらさない。
「鬼……」
恋歌は呟いた。
あるいはそれは美雪の声だったのかもしれない。
善次郎は、死んでいる。死にながら、人の血を吸う。怪物じみた力。人間離れした頑丈さ。
だが、そんなものがなくたって、目の前で笑っている男は鬼だった。
人の絶望を見て哄笑するこの男は、心の底から鬼だった。
春風は、もう平静を装えない。
彼女は怒り、彼女は泣いていた。
「お願いよ。私を見て……」
姉女郎が、目の前で恥も外聞もなく泣いている。
その懇願は相手に通じないだけではなく、ただ残酷な喜びを与えるだけなのだ。
いたたまれなくなり、恋歌は声をかけた。
「やめて、春風ねえさ……」
姉さん。
そう言いかけたその声は、途中で干上がった。
春風の眼球が動いた。
ぎょろり、と春風の表情の中で射るような視線が恋歌に向けられる。
「お前がっ」
春風の顔はくしゃくしゃだった。
歪んだ顔の皺の一本一本に怯えがあった。屈辱があった。怒りがあり、悲しみがあり、憎悪があった。
そのすべての感情が、その腕にこもる。
震える指が恋歌に伸びる。
「逃げて、恋歌」
美雪が叫ぶ。
だが、逃げるには、恋歌は春風に近寄りすぎていた。
その左手が恋歌の肩を掴んだ。
「やめろ、春風殿っ」
高村晋輔が足を踏み出す。
春風は止まらない。
その右手が短い刃を振り上げる。
恋歌は避けようがなかった。
恋歌は、ただ見ていた。
春風が、憤怒の形相で、自分に刃を振り下ろそうとしている。
その背後から高村晋輔が急速に近づく。
その顔にあるのは、苛立ち。怒り。それよりも強い、失望。
彼はもちろん、喜んではいなかった。
彼は春風を制止しようとしたのだ。
だが。
それは失敗に終わった。
無念。
高村晋輔は、歯を食いしばった。
無念。
彼の目が細められる。
彼は歯を食いしばった。
そして、その目から……感情が消えた。
一閃。
恋歌に突き刺そうと振り下ろされる刃。
それを握る春風の手首から先が。
消えた。
先日、春風を思い遣る感想をいただきました。
ありがたいことだ、と思って感謝しています。
でも、この物語の中で、実は、春風はもっとも不遇なキャラクターなのです。
作者の嗜好でファンタジーとした話ですが、春風に関する限り、この物語は紛れもなくホラーであり、最悪のバッドエンドです。
残酷な場面が続きます。精神的にも。
苦手な方は、ご注意ください。




