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43.鬼たちの夜 4

 春風は笑っている。

 恋歌はそれを止めない。

 おそらくは、ここにいる誰にも止められない。

 この中で最も状況をわかっていない人物でありながら、それでも状況を支配できていることを、春風は笑っているのだから。

 十字架の輝きが消えた今、この地下の明かりは二本の蝋燭だけだった。

 牢の中に一本と、外に一本。

 その二本の明かりの中で、春風の笑みには醜悪なほどの喜びが見えた。

 弄ぶ十字架が、今や彼女の力そのものだった。

 間違いなくこの中で最強である不死の体を誇る善次郎。

 その彼を恐れさせる十字架。

 それを無効化して握る春風は、この場の趨勢を決定する力を握っていた。

 彼女が自分の手にあるちっぽけなそれを美雪に渡せば、美雪は今度こそ善次郎を追いつめるだろう。

 逆にそれを美雪の手の届かぬ所に放り投げてしまえば、今度は恋歌たちが「詰み」だ。

「春風姉さん」

 善次郎に蹴られた腹を押さえながら、美雪は苦しげに呼びかける。

 恋歌は声をかけなかった。春風に好かれていない自分が頼んでも、春風が言うことを聞いてくれるとは思えなかったから。

 高村晋輔は、春風の奇妙な格好に妹を重ね、手出しができずにいる。

 怒りを燃やした眼差しを、しかし、地面に垂らし、憎い仇に向けるべき太刀を力なく下げている。

「よくやった」

 上機嫌で善次郎は笑う。

「うまい具合にやったな。出てきたのも、ちょうどいい頃合いだった」

「私、うまくやった?」

「ああ」

「喜んでくれた?」

「もちろんだ」

 春風は、誉めてもらいたがる子供のように善次郎に問いかける。

「私、役に立ったでしょう?」

「ああ。よくやった」

「じゃあ、噛んで」

 と、春風は無邪気に言った。

「私を噛んで。あなたと同じ、死なない体をちょうだい」

 それが春風が善次郎についた理由だったのだろう。

 恋歌を捕らえたとき春風が言った言葉の意味を、恋歌は理解した。

 体が病弱だった春風は、いつも何かに怯えていた。

 楼主や遣手に逆らうことなどけっしてなく、カムロだった恋歌や美雪にさえ過剰なまでに気を使った。

 死なない体。

 確かに、それがあれば、何事に対しても怖れる理由はなくなるのかもしれない。善次郎に噛まれることで春風も鬼になるのなら、不死身の肉体が手に入るのかもしれない。

 だが、それは……

「人間でいたいなんて思わない。死なない体を私にちょうだい」

 春風はそう言い、不死と引き替えに失うものを指摘しようとした恋歌から言葉を奪った。

「……噛め、か」

「うん」

 春風の意気込みに対し、善次郎の笑みはあまりに軽い。言葉に力を持たない。

 どうでもいい、と思っているように。

「不死の体、ねえ」

「それが約束だったわよね」

「……そうだ。約束だった」

 善次郎の笑みは深くなり、それと同時に誠実さは失われてゆく。もちろん、そもそも、こいつに誠実さなどというものが多少なりともあったとすれば、の話だが。

 春風はそれに気づかない。

 恋歌でさえわかる善次郎の酷薄さが見えない。あるいは、見ようとしていない。

「だが……」

 と、善次郎の言葉は、恋歌の予想通り肯定的なものとはならない。

「だが、まあ、まずはそいつを外に捨てちまえ」

 そう言って、檻の外に目をやる。

 確かに、檻の外に放り投げれば、恋歌たちには手が出せない。

 この狭い檻の中、高村晋輔は自由に太刀を振るうこともできない。恋歌たちは逃げることもできない。

 そうして、善次郎の勝ちは半ば確定する。春風は善次郎の望みを叶えたことになる。 そうして、善次郎が春風に望むことはなくなる。春風の善次郎に対する優位性はなくなってしまう。

 相手の望みをすべて叶えたら取引は終わりだ。こちらにできるのは、相手が約束を守ってくれるよう請い願うことだけだ。

 相手が信用に値する人間なら、それでいい。こちらは約束を果たし、相手が約束を果たすのを待つ。それこそが商いであり、取引というものだ。

 だが、相手が信義や社会的信用に意味を感じない人間なら、つまり信じられない人間なら、陥ってはいけない状況だ。

 恋歌にはそれがわかる。美雪にもわかる。

 バカ正直な高村晋輔にはわからないかもしれないが、春風にはわかるはずだ。相手に約束を守らせることは遊女にとって大切な手練手管のひとつだ。

「また来る」

「贈り物をしよう」

「おまえに買ってやる」

 そして。

「身請けしてやる」

 簡単に口にする男を信用せず、口にした以上男にそれを実行させること。

 そもそも、本当に信用できない男の望みを、無防備に叶えてやらないこと。

 それがわかる春風だから、善次郎の指示に逡巡する。

 もちろん、善次郎も春風の躊躇いの意味は分かるだろう。

 だが。その意味を理解しているからこそ、善次郎はそれに気づかないふりをする。

「おまえ、不死身になったら、そんなものにさわれなくなるぞ。あいつらは俺たちを殺したがっている。不死身になりました。滅ぼされました。で、いいのか?」

「そ、そうよね。それはそうだわ」

 春風はぎこちなく頷く。

 不死を望む春風にしてみれば、確かにそれは無視できない問題だったのだろう。得られたばかりの不死の体が、禁忌となる十字架を握っている。

 手放せば、それを手にしようとする女がいて、そいつは自分たちを滅ぼそうとしている。

 春風にしてみれば、手にした十字架は間違いなく脅威だった。

 彼女は笑い、善次郎に頷く。

 その表情から不安は消えていない。不信も残っている。

 それでも、善次郎という男に対する懸念を振り捨て、春風は手にしたそれを放り投げようとする。

「ダメっ」

 恋歌は必死で制止した。

 善次郎の顔が見えた。

 十字架を外へ投げようとして春風は、善次郎に背を向けた。春風の背後で、その男の笑みが深くなるのを、同時にその目が酷薄さを増すのを見た。

 十字架を失うことの不利を、恋歌は知っている。春風に十字架を放り投げられることの意味を理解している。

 だが、今は。

 今は、春風に自分がどれほど危険な男を相手にしているか、わかってほしかった。

「駄目よ、春風。そいつを信じちゃ駄目」

「そうだ。その男は非常に危険だ」

 高村晋輔が真剣な口調で口添えする。そして、その気持ちは春風に届いていた。晋輔の危惧を、春風は理解しているのだ。

「おいおい、必死だなあ」

 だが、善次郎は晋輔の真剣さを嘲笑う。

 あるいはそう装っているだけか。春風の行動によっては、危機に陥るのは善次郎も同じはずだ。

「おい、春風。こいつら、おまえにその玩具を捨てさせたがっているだけだぞ」

「それは、貴様だろう」

「そう思うか?」

「春風殿、こいつは春風殿の手に負える相手ではない」

 詰め寄る晋輔の言葉に、春風は目に見えて動揺する。

 その姿を見て、恋歌は知った。

 彼女は、そのことを知っている。


 何があったのか。恋歌にはわからない。

 だが、春風の態度を見てわかる。春風は知っていた。善次郎が彼女の思い通りになるような男ではないことを、彼女は経験で知っているのだ。

 はっきり春風は動揺し、善次郎に向けた視線を不信の色に変えようとしていた。

「そっかあ」

 善次郎の笑顔は明るい。

「俺が信用できないか?」

 春風は答えない。

 そして、そのことが答えになっている。

 だが、善次郎は動じない。

「そいつは残念だ。じゃあ、お前はそいつらと仲良くやれ。そうすれば、まあ、お前は滅ぼされずにすむだろうよ」

 善次郎は、ひどく明るい笑顔で春風に向かう。明るい笑顔で春風を突き放す。

「ついでに、不死の身体、そいつらに貰うといい。噛んで貰うんだか、どこかを舐めて貰うんだか知らないがな」

 下卑た口調で笑う善次郎に、春風は顔色を変える。

「待って……」

「駄目よ、春風姉さん」

 美雪が春風の声を遮った。春風が善次郎にかける言葉が容易に想像できる。恋歌たちには、春風の望む不死の身体は提供できない。


 だが、勿論、善次郎にも春風の声は聞こえていた。

 わざとらしく、白々しく、善次郎は問い返す。

「ん?どうした、春風」

「私……」

「やめろ、春風殿」

 と、晋輔。

 恋歌はただ息を飲んで春風の躊躇いを見つめていた。

「お前が欲しいのは何だ?」

「春風殿、その男の言うことに耳を貸すな」

 だが、春風の耳も目も善次郎に向けられている。

 善次郎は問いかける。

 静かに。

「お前に『それ』を与えられるのは誰だ?」

 声を荒らげることなく、問いかける。

「不死の身体に障害となるものは何だ?」

「……それは……」

「外に捨てちまえ、そんなもの。俺たちの邪魔をする者に渡すな」

「俺…たち……」

 春風が繰り返す。

 善次郎が何気なく使った自分たちをひとくくりにした一人称に、春風の心が動いていた。

 もちろん、恋歌は、そんなものがまやかしだと知っている。

 だが、もちろん善次郎は、春風の動揺に付け込んだ。

「そうだ。俺たちは……いいか、俺とお前は同じだ。お前の敵は誰だ?お前の邪魔をしているのは誰なんだ」

「それは……」

 春風は美雪を見た。高村晋輔を見た。それから恋歌に視線を向けた。

 自分がどんな顔をしていたか、恋歌はわからない。だが、ほかの二人と同じように険しい顔をしていたのだろう。

 その瞬間、恋歌は春風に悪意を持っていなかった。善次郎の思い通りに動く春風が心配だった。

 だが、春風は恋歌と視線を合わせたとき、顔を強ばらせたのだ。

「春風殿、やめ……」

 その気配を察した高村晋輔が言い終えるよりも早く。

 恋歌が春風に駆け寄るよりも早く。

 春風の手が動いた。

 ほとんど刹那的、とさえいえる表情と動きで、春風は十字架を放り出した。

 十字架はくるくると回りながら放物線を描き、檻の隙間を抜けた。

 恋歌。晋輔。美雪。そして、善次郎。

 四人が見守る中、それは檻の外に落ちた。

「……よくやった」

 善次郎が笑った。



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