42.鬼たちの夜 3
13/1/20 サブタイトル変更しました。(40話とダブってました。すみません)
「晋輔、どうしたの」
女は言った。
恋歌には、彼女のしようとしている事がわからなかった。
彼女は、春風だ。
それは一目見ればわかる。
他の誰でもない。
春風だ。
いつもの春風と違ったのは、彼女が包帯をしているということだけだった。
もちろん、高村晋輔は春風を傷つけていない。だが、彼女の右手は布で完全に巻かれていた。顔も、頭から右目周りは斜めに、そして痛々しいほど大仰に帯状の布が巻いてある。
まるで全身にひどい怪我を負っているみたいに。
「晋輔」
と、春風は呼びかけた。十字架をおもちゃのように弄びながら。
美雪が奪われた十字架を取り戻そうと手を伸ばし、しかし、善次郎に後ろ襟を掴まれ、無造作に引き倒のされた。
「邪魔するな。これから面白くなるんだ」
善次郎は引き倒した美雪を蹴り飛ばした。
美雪は宙に浮かぶほど蹴り上がる。
それでも、彼女の視線は十字架から離れなかった。
「春風姉さんっ!」
「しんすけ」
悲鳴のような美雪の呼びかけを完全に無視し、春風は、もう一度若侍の名を呼んだ。少し幼いような口調を真似て。
春風が若侍の下の名前を呼んだ事に、恋歌の心がほんの少し小波立つ。
馬鹿馬鹿しい。
転がってきた美雪を抱きかかえながら、恋歌は自嘲する。
これでは、まるで、恋歌が春風に嫉妬しているみたいだ。
ばかばかしい。 仮に恋歌が高村晋輔のことで嫉妬する感情を持っていたとしたって、春風と高村晋輔の間には何もあるはずがない。だから、春風の呼びかけになんて、何の意味もないのだ。
それなのに。
ただ、春風の呼びかけだけで、高村晋輔は顔を伏せた。
「え?」
恋歌は、思わず間抜けな声を上げた。
目の前の光景の意味がわからない。
何故、高村晋輔は顔を伏せるのだろう。何故、刀を下げたのだろう。
彼は、ひどくうろたえた表情をしていた。
意味がわからない。
その姿を見て、善次郎は哄笑した。
「これはいい。江戸からわざわざ長崎まで仇を追ってきて、仇の前で太刀を下ろすか」
ちょっとした余興のつもりだったのだがな。
そう言って可笑しそうに笑う善次郎に、晋輔は答えない。
「お前、まだ引きずってるのか」
晋輔は答えない。
太刀と一緒に視線まで床に落とし、何里も走ってきたみたいに、苦しそうに肩で息をしている。震える肩に怒りはある。落とした視線に、怒りは残っている。
だが、その顔は上がらない。太刀を握る手に力は戻らない。
「お前、まだ夏が忘れられないのか」
夏。
春風は、誰かの姿を模しているのだ。
そして勿論、「夏」というのが、春風が模した人の名なのだろう。
模したといっても、ただ包帯を巻いただけだ。
それでこれだけ高村晋輔が動揺するということは。
「そんなに似てるの?」
似てないさ。
善次郎は、嘲笑を浮かべた顔は晋輔に向けたまま、恋歌の問いに答える。
「ただ、手ごろな女に包帯を巻いただけだ」
手頃な女。それが春風のことなのだろう。
ただ、包帯を巻いただけ。
きっと幼子でも騙されない。もちろん、晋輔だって騙されたわけではないのだろう。わかっていた。彼もわかっている。目の前の包帯を巻いた女が、「彼女」でないことは。
「彼女」のはずはない。
晋輔の知り合いなら、長崎にいるはずがない。
「彼女」がこんなところにいるはずがない。
晋輔だって、それは知っているはずだ。
それなのに。
ただそれだけで、高村晋輔は動きを止めてしまった。
相手が鬼になろうと、不死身の肉体を誇示しようと怯まなかった高村晋輔は、ただ無関係の女に包帯を巻いただけで心を折られてしまった。
晋輔の心をそれほど揺らす女。
その存在を知ったとき、恋歌の心の中で経験したことのない感情がざわついた。ひどく不快な感覚で、それに名前をつけることを恋歌の矜持は頑として拒んだ。それでも訊かずにいることは出来なかった。
「夏って、誰なの」
「……妹だ」
振り絞るような声で晋輔が答える。
「妹さん……」
繰り返す自分の声に何故か安堵の響きがあることに、恋歌は気づかなかった。
しかし、晋輔の妹なら春風とは年齢とは差があり過ぎる。
それでも、晋輔は春風に妹を見てしまった。
仲のいい兄妹だったのだろう。
そもそも、妹が兄に呼びかけるのに「晋輔」と呼び捨てにすること自体、武家の家庭ではありえない。
だが、それを許してきた兄だからこそ、恋歌が呼び捨てにしても、晋輔は怒らなかったのだ。
本当に、仲のいい兄妹だったのだ。
だが、もちろん、善次郎がそんな高村晋輔の心情を斟酌するはずもない。
「俺の女房さ」
と善次郎は嗤う。
「仲のいい夫婦だったんだぜ」
「ふざけるな」
晋輔のその声に力はなかった。ただ、声の底にあった怒りに火が付いていた。それだって力強いものではない。怒りでさえ、晋輔の声に力は戻らなかった。
「どこの男が妻にあんな怪我をさせる」
善次郎は嗤う。
「子供に夫婦のことはわからんよ。あれもまた、俺なりにあの女に惚れた結果だ」
「ふざけるな」「お前の親父はその辺のところがわからなかった。嫁に出した娘のことで、亭主に口出しするなんぞ。恥知らずだ」
「お前は夏を殺した」
「そうだ。俺のものだ。抱こうが殴ろうが俺の勝手だ。殺そうが、だ」
「ふざけるな」
晋輔の声は悲鳴に近かった。
善次郎は嗤い続けていた。
「お前の親父は、今のお前みたいな顔で乗り込んできやがった。だから殺したのさ」
「だから、お前をわしが殺すんだ」
高村晋輔は激昂した。
「貴様のような男に夏を嫁に出すことに、わしは反対した。考え直すよう、父上に頼み込んだ。だが、父上は聞き入れなかった。損得勘定だけで、自分の娘を獣の餌に放り出したんだ」
「その父親の仇に来たんだろ、お前は」
「そうしなければ敵討ちの許可はおりん」
「それにしたって……随分、無理しただろう」
「お前に考えてもらう必要はない」
晋輔は低い声で答えた。
武士にとって、敵討ちは目上の存在を蔑ろにされた報復だ。
主君の仇。父親の仇。それらは「討つべき仇」として認められる。だが、子や妻の仇は、討つべき筋として認められない。
妹の敵もまた、武士が仇として狙う「本来の筋」ではない。
だから。
高村真輔が言ったのはそういうことだ。
高村晋輔は、その異なる筋の仇を追うために、建前としては父親の仇として善次郎を追ってきたのだ。
恋歌はようやく得心がいった。
以前、恋歌は聞いたことがあった。
「どんなお父様だったの?」
普通なら「立派な侍」や「尊敬すべき父親」とか言うべき場面で、高村晋輔は、しかし、「ろくでもない男」と答えた。
そんな男のために何故敵を討とうとするのか。
恋歌にはわからなかった。
だが、これが高村晋輔の答えなのだ。
「妹の仇」では討つための許可は下りない。だが、どんな父親であれ、「父の仇」なら「討つべき筋」として許可が下りる。そのために彼は「父親の仇」を追ってきたのだ。




