41.十字架
高い音だった。
決して不快な音ではなかった。
だからといって、心が安らぐような穏やかな音でもない。
耳だけでなく、心にまで突き刺さる鋭い音だった。
「な、に……」
恋歌は音の方を見た。高村晋輔は善次郎から意識をそらさぬようにしながらも、背後を窺った。
音は美雪から聞こえていた。おそらくは、美雪の右手から。
だが、美雪には訝しげな様子がない。彼女にはその音が聞こえていないのか、あるいは気にならないのか。
美雪の右手は、左の袂に入れられていた。そして、高く鋭い音は、そこから聞こえてきているようだった。
「……っく」
善次郎が息をのむ。
理由がわからないながらも、何か脅威になるものの存在を感じているのだろう。その存在に怯えているのだろう。
その善次郎に対し何の説明をすることもなく、美雪はゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「地とそれに満つるもの。世界とその中に住むものは皆、主のものなり」
「なんだ……?」
いきなり聞き慣れぬ言葉を唱え始めた美雪に、善次郎が訝しげな目を向ける。
「主はその基を大海の上に据え、大川の上に定めたまえり」
美雪の視線は、揺るがない。
その目は、静かに善次郎を射抜いていた。
「主の山に登るべきは誰ぞ。その聖所に立つべき者は誰ぞ」
美雪の右手が、それを引き出す。
同時に、美雪の袂から光が溢れだした。
「……!」
恋歌、晋輔、善次郎、三人が皆、言葉を失った。
眩しい。
恋歌は目を細め、善次郎が腕で顔を庇う。美雪自身、驚きの表情で自分の手を見ている。
もっとも、高村晋輔は、それでも善次郎から目を逸らさなかった。
光が地下の暗闇を満たし、恋歌は音と光の正体を知った。
「やめろっ」
聖なる光から逃げるように、善次郎は顔を背ける。
美雪の手にあるもの。それは決して大きなものではなかった。
2、いや3寸(6~9㎝)程度だろうか。
昨夜と同じように二本の棒を組み合わせただけ。
そうして、二本の棒はもちろん、十の字を形作っていた。
ちっぽけな、本当にちっぽけな十字架。
それが、その簡易な十字架が、強くまばゆい光を放っているのだ。
「十字架って、いつもこんな風に光るの?」
「まさか。私だって、こんなの見るのは初めてだよ」
美雪は自分の手にある輝きに驚き、だが、誇らしげに腕を伸ばす。善次郎に向けて
突き付ける輝きは、更に光を増してゆき、もはや直視できないほどになっていた。
「手、清く、心いさぎよき者。その魂虚しきことを仰ぎ望まず、偽りの誓いをせざる者ぞ、その人なる」
「……やめろ」
善次郎が炎を怖れる野犬のように、美雪の十字架に怯えている。
いや。野犬なら、炎に警戒しながらも、警戒すべき故に、松明から目を放さない。
炎に怯えながらも、顔をそむけるようなことはしない。恐るべきは熱であり、炎の明るさではないのだから。
だが、善次郎は、十字架から放たれる光そのものに苦痛を感じているように顔を背け、目を庇っていた。
恋歌は、そのとき、聞こえてくる音が高い理由を悟った。善次郎が光を恐れる理由を知った。
それは摩擦音だった。
聖なる存在が、その光で汚れた存在を磨耗させ、削り取る、容赦のない切削音だった。
美雪が善次郎に近づくと、音は更に高く、強くなってゆく。
善次郎は身を縮め、うずくまった。
「ちくしょう。なんだ、それは……」
善次郎の食いしばった歯の間から、小さな悲鳴のような声が聞こえた。
もちろん、美雪は答えない。
ただ、静かに、けれど淀みなく美雪の頭にある聖なる言葉を暗唱している。
「かかる人は主より祝福を受け、その救いの神より義を受けん。斯くのごとき人こそ、主を慕うものの族類。主のみ顔を求める者の族類なり」
それに善次郎は怒り、恨み、憎悪しながらも、どうしようもなく聞かされている。
「やめろ。やめろ。やめろ……」
美雪の声を遮ろうと声を上げるが、今や善次郎のその声は消え入りそうに小さい。決して強く張り上げてはいない美雪の声を、掻き消すことも出来ないのだ。
「門よ。こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ」
美雪はただ静かに言葉を紡ぎ、静かな視線で善次郎を串刺しにする。そうして、晋輔の背後から体をずらし、牢の入り口へと回る。
「栄光の王、入りたまわん。栄光の王とは誰なるか。力を持ちたまう猛き主なり。戦いに猛き主なり」
美雪が腰をかがめ、牢に入る。それを、善次郎は止めることもできずに怯えている。その怯え、苦痛に歪む善次郎の顔を、強烈な光が照らしている。
「門よ、こうべを上げよ。とこしえの戸よ、上がれ。栄光の王、入りたまわん」
恋歌が目を細め、高村晋輔が善次郎を注視していた。美雪もまた自分の手で光を放つ信仰の証を嬉しそうに見ている。暗闇の中、強い光は美雪の誇らしげな表情をも眩ませていた。
だから、美雪の背後に動く姿には気づくのが遅れた。
「この栄光の王とは誰なるか。万軍の主、これぞ栄光の……」
不意に光が途切れる。
「え?」
美雪の手から十字架が取り上げられたのだ。
「あら、つまらない。私が持ったら、光は消えちゃうのね」
「春風!」
そう。
春風だ。
もちろん、それは春風だった。
それは間違いない。
声は春風のものだったし、顔が隠されていても、右の目は春風のもののように思えた。 全体的な仕草も春風のそれだ。
だが、春風の着ているものは、先程までとは異なっていた。
美雪から十字架を取り上げた右手こそ素肌が見えているが、他はすべて布で覆われている。
これは、包帯だ。
もちろん白い包帯など高価で、簡単に使えるものではない。
破れた服を帯状に切ったボロ布を捲いただけだった。
頭。左手。足。
ぐるぐると巻かれた布が痛々しい。
見る者は布の下に怪我を想像してしまうからだ。
だが、先程まで元気で憎まれ口を叩いていた春風が、体中に怪我をしているわけもない。
何故、こんな格好をしているのか。
これがなんの「準備」なのだろう。
失笑をこらえられなかった恋歌だが、美雪の切り札を奪われたことを考えれば、とても笑うことはできなかった。極めて危険な、あるいは絶望的でさえある状況なのだ。
それでも、それ自体は無意味だと思える春風の行動。
だが、春風の「準備」には、確かに意味があった。
高村晋輔の態度で、恋歌はそれを知った。
「……夏」
泣きそうな声が、高村晋輔の口から零れる。
世間知らずなほど馬鹿正直な若侍は、泣きそうな顔で、太刀を持つ手をだらりと下げていた。




