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4.  高村晋輔

 何が起きているのか、恋歌にはわからなかった。

 わからないまま、乱れた服を慌てて整え、胸を隠す。

見られた?

 若衆は流石にここまでは入って来ない。それはそうだ。伽をはじめる遊女の部屋に入る奴などいるものか。恋歌は闖入者の顔を見た。相手は恋歌を見ていなかった。

 しかし、既に見られたのかも知れない。

 それもタダで!

 闖入者は向きを変えずに数歩下がった。行灯の明かりが彼の顔を照らした。

 若い。

 元服はしているが、まだ幼いと言っていい顔立ちだ。多分、年は恋歌とそう変わらないだろう。そして悪くない顔だった。恋歌と同年齢の娘の中にいたら、きっときゃあきゃあ騒がれる。

 もう少しきれいな身なりをして。

 もう少し表情にゆとりを持てば。

 今、それを言うのは酷かも知れないが。

 そこまで考えて、恋歌はようやく彼が言った言葉を反芻し始めた。

 仇討ち?

 誰が?

 決まってる。

 善次郎が、だ。恋歌を買った最初の客が、この若い侍の敵だというのだ。

 この男が……父の仇?つまり、人殺し?お尋ね者?

じゃあ、江戸に行く話は?

「そこの女」

 高村晋輔と名乗った侵入者が、恋歌に声をかけた。目はまっすぐ、善次郎を捉えている。恋歌が晋輔を見てから、晋輔は恋歌に一瞥も与えていない。ということは、おそらく既に恋歌の存在を認めたと言うことだ。

 つまり。

 ……ちくしょう。やっぱりさっき見られた。

「なによ」

「お前に用はない。外してくれ」

「ここはあたしの部屋よ。出ていくのなら、あんた」

 高村晋輔は、困ったような顔で少し考えた。

「なるほど、一理ある」

「……は?」

思わず恋歌は小柄な侍の顔を見直した。

 こいつ、本気?

 遊女の戯れ言を真面目に聞くなんて。

 冗談のわからない奴、と恋歌は思った。もちろん、恋歌も冗談で言ったわけではなかったが、少なくともその人物評価だけは正鵠を射ていた。実のところ、恋歌の人生の中で、これほど的確な人間観察はなかったのだが、彼女自身にそれは、まだわからなかった。

 まじめな顔で、若い侍は続けた。

「確かに他の者を巻き込むのもよくないな。では、善次郎、太刀を取って出てこい。外で勝負だ」

「いやだ」

「……しかし」

「俺は金を払って、ここにいる。だから、ここにいていいんだ。お前は違う。出ていけ」

 高村晋輔は口をつぐんだ。呆然としているようだった。彼は仇の理屈に飲まれているのだ。

 こいつ、馬鹿?

 恋歌がそう思ったとき、晋輔は再び恋歌を見た。

「迷惑をかけて悪いが、やはりお前に出ていってもらうしかない。」

「嫌だと言ったら?」

「すまない。ひどいことになるかもしれない」

 高村晋輔は、そう言った。そう宣告することで、自分の恋歌に対する務めは果たしたと考えたのだろう。視線を外すと、もう彼女のほうを見ようとはしなかった。

 そうして高村晋輔は太刀を抜き、善次郎に対して構えた。構えると、もう微動だにしなかった。

……きれい。

 剣術には素人の恋歌でさえそう思った。それほど高村晋輔の構えは完成されていた。

善次郎は?

 普通の男ではないのはわかっていたが、剣術の腕はどうなのだろう。

 善次郎は……震えていた。

 まるで素人みたいだった。

 それでも、せめてもの矜持があるのだろう。彼は投げられた太刀を握り、立ち上がった。構えはない。切っ先を畳につけて、だらりと腕を下げているだけだ。

 彼は無造作に晋輔から視線を外すと、恋歌を見た。

「この小僧の言うとおり、お前は出ていた方がいい」

「やっぱりここでやるの。ここ、あたしの部屋なのに」

 しかし、しようがない、と恋歌は諦めた。諦めて外へ出ようとして気づいた。

 外が騒がしい。きっと人が集まっている。

 楼主はどう思うだろうか。

 いや、楼主だけじゃない。

 他の客は恋歌をどう思うだろう。

お尋ね者につまみ食いされそうになった美貌の太夫。

 いい笑い者……?

 いや、恋歌はまだつまみ食いされてしまったわけじゃない。それに仇討ち。しかも追っ手は江戸から来た好青年(元服が終わっているのだからもう一人前だ)。これはいい話題になる。正しく振る舞えば株を上げられるかも。

 やはり無様な格好では出ていけない。恋歌は素早く着物を纏い、身を整えた。善次郎には指一本触れられていないような顔をして立ち上がる。超然とした顔で善次郎の脇をすり抜け、高村晋輔の前で立ち止まる。この位置に立つと廊下にいる若衆からも見える。あいつはおしゃべりだから、このこともみんなに言いふらすに違いない。

 噂になるように、晋輔にすました顔で一言言ってやろうとしたとき、恋歌は、突然後ろから押された。

「なっ……」

体勢を崩し、晋輔に倒れ込む恋歌を反射的に晋輔が支える。

 その脇を善次郎が走り抜けた。

「ま、待て!」

晋輔は慌てた。恋歌も慌てて晋輔を逃がさぬようにしがみつく。善次郎に背中から突き飛ばされて、若侍の胸に倒れ込み、更に彼から無様な姿勢で放り出されたら、一体若衆はどんな風に加工して噂を流すだろう。

 立ち直れないかも知れない、と思った。恋歌も必死になった。若い侍の顔を真っ直ぐに見ながら、実は廓の若衆にも聞こえるように情感を込め、しかし侍を逃がさぬように腕にはしっかりと力を込めて言った。

「ありがとうございます。あたしは大丈夫。ですから、あたしのことなど気になさらず、お侍様はご自分の務めを果たしてくださいませ」

 慌てていたから、少し早口になっていたかも知れない。

 しかし、晋輔は恋歌を投げ出したりはしなかった。焦りながらも、大丈夫か、と恋歌が背中から刺されていないことを確かめた。そのために、晋輔が善次郎を追うのには更に数拍遅れた。

 恋歌から解放されて晋輔が部屋を飛び出してゆく。その後ろ姿に、しかし恋歌は、とろいと思った。こんなとき、無関係の女なんて放り出せばいいのに。

 もちろん、善次郎の姿が二階にあるはずがないだろう。晋輔の足音はたちまち階段の方へと向かい、そして聞こえなくなった。

しばらくしてから、恋歌は部屋を出た。

 廊下には、若衆の他にもうひとり呆然としている男が立っていた。

 坊主だった。

 長崎では知らぬ者のない女好きの破戒坊主だった。仏に仕える者でありながら、あろうことか突き出しの儀式までして、新人遊女の最初の客になったという信じられない奴だ。

 今日は美雪が相手をしていたはずだったが、今の光景を見たのか剃り上げた頭や顔を隠すことも忘れて突っ立っている。

 声をかけてやろうかとも思ったが、ばかばかしくなってやめた。代わりに若衆に余裕の笑みを向けて言った。

「悪いけど、楼主を呼んできてくれない?お話ししておかないと」

「はい。でも、あの……」

「なあに?」

 こんな奴でも若衆を敵に回していいことはない。若衆は怯えている。今、優しくしてやれば、恋歌の好感度はあがる。

 だから、優しい声で恋歌は問う。

「どうしたの?」

「美雪さんはどうします?」

「どうするって?」

「連れて行かれちゃいました」

「……誰に?」

「善次郎様に」

「………何故?」

「人質に」

恋歌は若衆を見た。それから坊主の顔を見た。

 坊主は恋歌に見とれ、恋歌に見つめられて、にへらっと笑い、それから頷いた。両手を広げ、ぱたぱたと振る。自分が美雪を隠していないことを身振りで伝えているらしい。

「あんたたちは……それを、黙って見ていた、と?」

「……はい」

 恋歌は天井を仰ぎ、目を閉じた。怒りが損得勘定を越えるのに、三拍ほどかかった。

「この馬鹿!」

 恋歌は若衆の胸ぐらを掴んだ。

「女がさらわれるのを、二人そろってぼけっと見ていたのっ?」

「だって……」

「だって、じゃないっ!!それで!?どこへ行ったのっ」

 そのとき、晋輔の怒鳴り声が聞こえた。

「この卑怯者!」

 下だ。

 まだ、廓の中にいる。恋歌は走り出した。若衆があげた悲鳴で、自分が彼の腕を掴んだまま走っていることに気づいた。この臆病で無責任な若者を連れていっても役に立たないのはわかっていたが、彼に悲鳴をあげさせていると、自分の気分が良くなると言う理由だけで、恋歌は彼を引っ張っていくことにした。

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