39.鬼たちの夜
14/03/16 誤字など訂正。
顔がある。
表情は豊かではないが、目や口の歪みで、笑っていたり泣いていたりするのがわかる。
とはいえ、やはり縦に伸びた口は、恐怖に怯えているように見えやすいようだ。もっとも、それは恋歌自身の今の感情を反映しているだけかもしれない。 そう思うと、ただの木の節目から自分の感情を覗き込んでしまう自分が情けなくなる。
確かに自分は怯えている。
恋歌は壁を見ていた。
別に楽しいことが書いてあるわけじゃない。
人生を見直す教訓が記されているわけでもない。
ただ、木の節が、目や口に見えるだけだ。
他にやることもなく、恋歌はそこに座っていた。
春風が地階の部屋に引きこもって、半時(一時間)近く経つかもしれない。
その階段のそばで、恋歌は座り込んでいる。
一階。
部屋を持たない遊女たちが、格子越しに道を行く男たちに声をかける。
そうして客を引いた遊女と引かれた客が、軽く酒を交わしながら、使用中の「寝所」が開くまで時間を潰す。
あるいは、暇な遊女が仲間と噂話をしている。
恋歌もその輪の中に入ろうと考えていた。
だが、剣呑な顔をして、刀を抱えている侍が隣にいたのでは、話の輪の中に入ることはできなかった。
「善次郎は、恐らく今夜も来る。恋歌殿はワシが守ろう」
高村晋輔は、そう言って、恋歌の隣にいることを楼主に認めさせた。もっとも、本当に守れるのか、と聞かれて、晋輔にはあまり自信があるようではなかったが。
楼主としても、恋歌にはまだ価値があると思っているのだろう。初夜に手をつけることの「安全性」さえ証明されれば、引く手あまたの遊女だと考えているのだ。だから、まだ、鬼に食われてしまうのは「もったいない」のだろう。
まったくもって、ありがたいことだ。
恋歌はため息をつき、一階の片隅で壁の詳細な観察を続けた。
「あの……何かすることありますか?」
カムロの綾羽がおずおずと話しかけてくる。
姉女郎とはいえ、鬼に狙われている女と関わるのはやはり怖いだろう。その気持ちはわかる。自分だって怖いのだから。
だから、恋歌は笑顔で首を振った。
「いいよ。今日はやってもらうこともないし。用事があったら呼ぶから、それまで楽にしてなさい」
「はい」
安堵して、綾羽は他のカムロと話をしに戻っていった。
恋歌は、美雪のことを考える。
美雪は今日は客がいて、そちらに行っている筈だ。
本当は、恋歌は美雪のそばにいさせてもらえれば一番安心できる。高村晋輔の刃が善次郎に通じない以上、あの鬼と渡り合えるのは美雪だけなのだから。
だが、彼女の武器は彼女の弱点でもある。
鬼に対しては有効な、だが他人には決して知られてはならない武器。
「あら、まだこんなところにいるの?」
ふと見ると、地階から春風が上がってきていた。
「いちゃいけない?」
「邪魔だわ」
それほど悪意を乗せずに、さらりと春風は言う。言ってくれる。
「でも、ここがいいの」
「邪魔だし」
春風は繰り返す。
「あんたが邪魔だし。そっちのお武家様はもっと邪魔だわ」
誰がいつここに来るか、計っていたのだろうか。
ちょうど春風が望んだであろうときに、遣り手のサキが来た。
ちらりとこちらを見る。だからといって、この忙しい時間帯に恋歌たちに話しかけるつもりもないらしい。恋歌が用事もなく郭にいるのは、楼主も認めたことなのだから。
だから、サキはこちらには来ないはずだった。
だから、その瞬間を選んで、春風は言う。
大きな声で。
「そんなところでお武家様が大きな刀を抱えて座っていたら、お客様逃げちゃうわよ」
春風の声はよく通り、一階にいたものが皆振り返った。もちろん、その中にはサキもいた。
「恋歌、自分の部屋に戻ってなさい」
サキはそう命じた。
でも、と恋歌は反論を試みる。
「人がいるところの方が安心できるのよ」
「その代わり、ここに鬼が出てきたらお客さまも含めて皆殺しだわ」
鼻で笑って、春風が答えた。
その言葉の効果はテキメンだった。春風はただ一言で、一階の大勢の客と遊女の口から一斉にすべての言葉を奪ったのだ。
鬼が来るか。
それはわからない。
だが、太刀を抱える高村晋輔の姿は、その可能性が少なくないことを、というよりほぼ間違いないことを、皆に信じさせた。
一人の客が腰をあげた。
「……とりあえず、今夜は帰るよ」
恐怖は伝染する。
他の客が、周囲を見渡し始める。
「その必要はありませんでしょう」
サキが声を張り上げた。
「桜泉楼がお客様を危険にさらすことはあり得ません」
そう言って請け合う。
そして、恋歌に向き直った。
「恋歌、自分の部屋へ行っていなさい」
それは、恋歌に一人で死ね、と言っているようなものだった。善次郎に手もなく打ちのめされた高村晋輔が、一人で恋歌を守れる保証はない。一人になって善次郎が出てくれば、彼女を守れる者はいないのだ。
それでも、この状況では逆らえない。
皆殺し、があり得ることかどうかはわからない。だが、可能性としてあり得る以上、自分が陥った危機に無関係な人たちを巻き込むわけにもいかない。
「綾羽、何か食べられるもの持ってきてくれる?」
「はい」
頷いた綾羽を横目で見ながら、春風は高らかに声をあげる。
「あら。恋歌太夫は御自分の部屋へ?二階のお客様が巻き添えになるかもしれないのに?」
「……地下に行きなさい」
サキが訂正する。
「そんな……」
「行きなさい。他のお客様にご迷惑をかけるわけにはいかないでしょう」
「一番左の部屋が空いているわ」
春風が悪戯っぽい声で口を挟む。
その意味に恋歌が気づくより早く、恐らくはサキ自身思いつくより早く、サキは春風に何も考えることなく言葉を返した。
「春風、恋歌を案内してやって頂戴」
「はあい」
流石に後ろめたさがあるのか、少しだけサキの声の調子が落ちたが、それでも彼女の考えが変わることはなかった。その代わり、せめてもの温情のつもりだろうか。サキは高村晋輔に向き直り、決して好きではないであろう若侍に頭を下げた。
「お侍さま、どうか、この娘を守ってやってくださいませ」
*
地下に下りる。
夜だから暗いのはどこでも同じだが、それ以上に閉ざされた圧迫感が恋歌を包む。
まして、案内するのが自分に敵意を持っている者なのだから余計にそう感じるのだろう。
それは小さい部屋だった。
もともと、タチの悪い酔客を押し込むための場所だ。居心地の良さを提供するようには考慮されてはいない。
ここに来るのは久しぶりだった。
廓に買われたばかりのころには、楼主や遣手に反抗的な態度をとって随分世話になった場所ではある。だが、美貌のカムロとして、遊女になる日を嘱望されると、多少の生意気には目をつぶってもらえるようになった。
だから、余計にサキには嫌われたのだろうが。
当たり前だが、恋歌の割り当てられた地階の部屋には誰もいなかった。その当たり前のことに、善次郎という先客の存在に怯えていた恋歌は、少し安堵した。
同時に、強烈な後悔に襲われる。
確かに春風は「一番左の部屋」と言った。
だが、ここは「部屋」ではない。
ここは、酔客を一晩泊めるための部屋だ。タチの悪い泥酔客を。
大人しくしてくれるとは限らない彼らを泊めるということは、実質彼らを一晩閉じ込めるという意味でもある。
襖や壁で仕切られている「部屋」というよりは、格子によって区切られている。この部屋で客が遊女と二人の時間を楽しむ、ということは想定されていないので、当然、外からは丸見えだ。格子の扉には錠がかけてあり、当然、鍵を閉めれば、内側からは開けられなくなる。
つまり、この部屋は簡易な牢獄だったのだ。
こんなところに自分から入る馬鹿はいない。
そう恋歌が文句を言おうとしている間に、晋輔はさっさと中に入ってしまった。
「ちょっと待って……」
慌てて晋輔を制止するために、その背を追おうとして入り口で腰を屈めた恋歌の背を春風が押す。
恋歌がよろめき、高村晋輔はその体を牢獄の中で受け止めた。
簡単に「獲物」を檻に入れられたことに気をよくして、春風が笑顔になる。
「怖い鬼が入ってこれないように、鍵は閉めておいてあげるね」
袂から何かを取り出し、牢の扉についた錠に近づけようとする。
何か。
もちろん、それは錠の鍵なのだろう。
そんなものをかけられたら、それこそ逃げられなくなってしまう。
慌てて抗議の声を上げようとする恋歌の前に、高村晋輔は前に出た。
近づいた春風の前に鋭い刃が突きつけられる。
「それはやめておけ」
晋輔の声は冷ややかだった。
「お前の腕より、ワシの刀の方が長い」
格子の隙間から突き出した刃で、春風を牽制する。
確かに春風が鍵をかけられるほど錠に近づけば、高村晋輔は彼女を突き殺すことが出来るだろう。
春風は忌々しげに晋輔を睨み、恋歌は吐息が震えるほど安堵した。
春風はしばらく晋輔を睨んでから、不意に笑顔を作った。非常に感じの悪い笑顔だった。嘲笑とか、侮蔑、といった名前が付けられるべき表情だった。
「じゃあ、私は私で準備がありますので。自分の部屋に戻りますね。ごゆっくり、お二人様」
背を向けようとして、立ち止まる。
「ああ、そうそう」
更に感じの悪い笑みがその顔に貼り付いていた。
「お侍様。なんなら、その娘、無理やりやっちゃっても構いませんよ」
「春風!」
「どうせ。今晩限りの命ですから。この娘も、あんたもね」
そう言って、春風は笑った。
唇が開く。
歯が見える。
春風は人間だ。
牙はなかった。
それでも恋歌には、開いた唇の間に見えない牙がギラリと凄んでいるように思えた。
「そうはさせないわ」
その声は決して鋭くはなかった。
強くもなかった。
怒りも含まず、威圧的でもなかった。
それでも、反射的に振り返る春風の表情は、はっきりと相手を脅威として認識してるように見えた。
その姿を見て、恋歌は安堵する。
「……美雪」
「ご飯、持って来たよ」
盆の上に二人分の食事を乗せて、美雪は笑顔を浮かべて見せた。
穏やかで、でも、心強くもある笑顔。
だが。
その頼もしい笑顔が、一瞬で凍りつく。
驚きではないだろう。だが、強い緊張、そして恐怖があった。
自分の背後を見つめる美雪の視線を辿り、恋歌は振り返る。
そこに誰がいるかを、既に理解しながら。
善次郎登場までいきたくて、少し長めに、そして少し遅くなりました。
今年はここまで、かな。
皆様、よいお年を。




