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38.宣告

「お疲れ様」

 まだ呻いている男たちを尻目に、恋歌は晋輔に歩み寄った。

 晋輔の息は少し乱れている。だが、疲労困憊している、というほどでもなかったし、その表情には大きな動揺は見られなかった。

 だから、恋歌も言いやすかったのだ。

「ありがとう」と。

「いや。怪我がないみたいで良かった」

「うん。ありがとう」

「これからどうする」

「どうするって、廓に戻らないと」

 恋歌はとりあえずそう答え、高村晋輔は頷いた。

 すでに完全に日は落ちて、空には星が散りばめられる時間だった。

 つまりは、夜、だ。

 鬼が出でもおかしくない時間だったが、今までのところ、彼らは人目を避けている。少なくともそのように思える。

 昨夜、恋歌が落とした雨戸の音で人の注目が集まると、善次郎は苦笑しながらも退散したのだ。人通りの多い、廓への道で、あいつが襲ってくること可能性は少ない、と思っていいかもしれない。

 だから、おそらくは大丈夫。

 そう思いはしたが、桜泉へ向かう足取りが速くなり、しだいに小走りになるのはどうにもならなかった。


  *


「ああ、無事だった」

 桜泉楼の入り口で待っていた美雪は、恋歌の顔を見るとはっきりと安堵の表情を浮かべて迎えてくれた。

「楼主が遅すぎるって、怒ってるよ。何かあったの?」

「春風……姉さんにね」

「春風姉さん?」

「殺されそうになった」

「え?」

「……春風、善次郎についたみたい」

「そんな……」

 美雪は息を呑む。

「でも、大丈夫だったよ。晋輔がけてくれたの」

「高村……様が?」

「うん。助かった。いや、実際さ、結構……」

「うん?」

「……怖かったよ」

 苦笑いを浮かべて言った。

 そう。苦笑い、だ。

 苦くても、なんとか笑顔になったと思う。

 美雪は、笑い返さなかった。

 黙って、恋歌を見つめ、抱き寄せた。

 恋歌は静かに美雪の肩に頭を乗せる。

 その首筋に、抱き寄せる美雪の手が冷たく、心地よかった。

「じゃあ。お帰り」

「……うん」

「無事でよかった」

「うん。ありがと」

「春風は本当に私が憎いみたい」

「あたしは、あんた、好きだよ」

「うん。ありがと」

 そのまま恋歌の頭を肩に乗せた姿勢で、美雪は高村晋輔に向き直ったようだ。

「高村さま。恋歌を助けてくれて、ありがとうございました」

「うむ」

 晋輔が頷く。

 恋歌は最後に、言いにくいことを口にした。

「春風はどこかに行っちゃった。あの姉さん、どうするんだろう」

 知らぬ間に消えた春風を最後に見たときの表情が、恋歌の頭にあった。高村晋輔の思わぬ反撃を受け、圧倒的に有利な状況がたちまち崩れてゆく恐怖に怯えていた顔。

 妹女郎を憎み、殺そうとするまでに歪んでしまった姉女郎の行く末を思う。殺意を向けられたにもかかわらず、恋歌は春風に無事でいてほしかった。

 春風の心をあそこまで捻じ曲げてしまったのは、善次郎だと思う。

 たぶん、そうだと思っている。

 それでも、自分が好意を持たれていないことは知っていた。

 恋歌にとっては理不尽な感情であっても、春風にとっては至極当然の感情であることを恋歌は理解していた。

 だから、彼女にこれ以上苦しんでほしいとは思っていなかった。

 どこに行ったかはわからないが、そこで静かに幸せに暮らしてほしい、と思えた。

 廓から逃げ出した遊女に、そんなに簡単に安住先など得られるはずがないとはわかっていたが、それでもできることなら、と。

 だから、美雪の驚いた声は恋歌の意表を突いた。

「どうする……って。春風姉さん、さっき帰ってきたわよ」

「え?」

「少し顔色は悪かったけど、普通に帰ってきたわよ」

「…いつ?」

「だから、さっき」

「……なんで」

「なんでって……」

「帰ってきて悪かったわね」

 強い口調が、美雪の背後から響き、美雪は振り返る。

 恋歌もまた、そちらを見やった。

 春風が立っていた。

 忌々しげな表情で恋歌を見たが、特に彼女は傷ついている様子はなかった。楽しそうではなかったが、それでも笑みらしきものを浮かべる余裕はあるらしい。

 もっとも、恋歌にはそちらの方が驚きだった。

「なんで?」

「うん?」

「なんで、ここにいるの?」

「なんでって、ここがあたしの居場所だもの。年季があけるまでは、勝手に出てゆくわけにはいかないのよ。恋歌太夫はご存じないかもしれないけどね」

 春風は居直ったように切り返す。

 そして、もちろん、思いだしたように大切な一言をつけたすことも忘れない。

「ああ、そういえば、もう太夫じゃないんだよね。あんた、阿蘭陀行に落とされたんだっけ?」

 楽しそうに笑う。

 もちろん、恋歌は楽しくない。だから、春風に向けることができるのは、睨むような視線と押し殺したような声だけになった。

「……人を殺そうとしておいて、よく平気で戻ってこれるね」

 春風がいなくなることに「寂しい」と感じた。恋歌にとっての春風との付き合いは、美雪とは比べようもないが、それでも恋歌は年上の相手に敬意を払ってきたつもりだし、妹女郎としてそれなりに付き合っているつもりだった。

 好かれているとは思っていなかった。

 きっと、言いたいことは沢山あるのだろう。

 それでも、殺意を従容として受けることはできない。

 向けられた殺意を、筋の通ったもの、と認めることはできない。

 殺されそうになった怒りを消すことはできない。

「なんで、あんなことを……」

「なんで。あんなことを」

 春風は恋歌の問いかけを繰り返す。

 反問、ではなかった。

 ただ、言葉をそのまま、なぞらえただけのようだった。

「なんで、あたしを殺そうとするの」

「じゃあ」

 と、春風は口元に笑みを乗せて首を傾げる。少し倒した顔で、嘲るように笑う。

「なんで、あんたは生きてるの?」

 がちゃり。

 と、音がした。

 その剣呑な音に春風は表情を硬くする。

 振り返った恋歌は、その音が、高村晋輔が太刀の鯉口を切った音だと知った。

「晋輔……」

「人を殺すつもりなら、自分が殺されることも覚悟するべきだ」

 冷やかな目が、春風を見据える。

 その姿に頼もしさを感じながらも、恋歌は彼を制止する。

「駄目だよ。春風は鬼じゃない」

「だが、やろうとしたことは、鬼と変わらない」

 恋歌は言葉を失う。

 せめて春風か言い訳でもしてくれればいいのに、と思いながら。

 もう、二度とやらない、とでも言ってくれれば、まだ取りなしようもあるのだ。

 だが、春風は何も言わなかった。

 ただ、鼻で笑って、恋歌を睨んでいた。

 そのとき、低く、意地の悪い口調の声が言った。

「なにをしているんだい?」

 聞いた声が聞こえる前に、恋歌にはその姿が見えた。

 面倒なのが来た。

 恋歌は思わず眉をひそめた。


   *


 自分を睨む春風の後ろから近づく老いた影。

 遣り手のサキだ。

「なにを、して、いるんだい?」

 近づいてきて、彼女はもう一度繰り返した。一言一言区切るようにして。視線は主に恋歌に向けられていた。

 つまり、恋歌が何をしているのか、聞いているのだった。

「私は、何も……」

「そうだ。彼女は何もしていない」

 止める間もなかった。

 恋歌の答えに被せるように高村晋輔が言い、サキの視線を引いた。右手を太刀に添えて鯉口を切った姿勢で。

春風が目を見開く。

「おやおや、お侍様、こんどは入り口で大立ち回りをするつもりかい?」

 皮肉たっぷりの口調。そして視線。

 置いてもらっている以上、武士といえど、郭の監督役には逆らえない。その程度のことはわかるのだろう。高村晋輔は、とりあえず反駁することなく、口をつぐんだ。

 そのことに安堵する恋歌を一睨みして、サキは続けた。

「こんなところに突っ立っていたら、お客様の邪魔になるだろう。どうせ今夜のあんたには客もいないんだから、とっとと部屋に引っ込んでな」

「……はい」

「で。あんたは、恋歌太夫に何か言われてたのかい?」

 これは、まだ振り返っていない春風に対する言葉。

 春風は恋歌を見ていた。

 サキの声は聞こえている。

 必ずしも恋歌に好意的でない言葉を背中で聞いている。

 だから、彼女の口元には小さな笑みがあった。

 そして、彼女が話題に上る。サキに呼びかけられ、春風は振り返る。

「サキさん」

 春風は笑顔で振り返った。

 ただし、、満面の、ではない。

 ひどく疲れた、弱々しい、そして怯えの混じった笑顔だった。

 サキには好ましい笑顔だった。いつも気に入らない遊女たちを打擲し、相手に「怯えられること」と「敬われること」が同義であると感じるサキには、とても好ましく見えるのだろう。

「どうしたね。この元・太夫にあんたは何を注意されていたんだい」

「いえ、私は何も……」

 消え入りそうな、けれど間違いなく先に届く声量で、春風は口を開く。

「私、殺されそうになったんだよ」

 反射的に、恋歌は口にしていた。

 口にした瞬間、自分の敗北を悟った。

「殺される?それはまた穏やかじゃないねえ」

 サキが笑顔を向ける。

 凄みのある笑顔を。

 サキは意地の悪い女だ。郭の遊女なら誰でもそう考えている。

 だが、だからといって、彼女が筋の通らない話を好んでいるわけではない。

 彼女は彼女なりに筋が通っている、と少なくとも自分で考えている理屈を通す。そこに好き嫌いが含まれ、そのときの機嫌が上乗せされるにせよ、それでも自分では納得しているつもりの理屈を通すのだ。

 殺されそうになった、は冗談で済まされる話ではない。

 本来ならありえない話なのだ。

「だが、事実なのだ」

 高村晋輔が口ぞえをして、それが逆効果になったことを恋歌は悟る。

「さっきから……恋歌にそう言われているんです。何か、街で絡まれたみたいなんですけど、私のせいだって……」

「だが、お前はあの場に……」

「知りません」

 春風はシラを切る。

「私、嫁ご盗みにあったの」

 恋歌は言った。

「見ていた人もいたよ」

「誤解よ」

 泣きそうな声で春風は返す。

 それから、ふと良いことを思いついたように、声を明らめた。

「そうだ。それじゃあ、明日にでも、その人を呼んできて。話を聞いてみましょう」

 春風が優しい笑顔で告げ、恋歌は春風の意図を知った。

 あのとき、恋歌が捕らえられた時、周囲で見ていた者もいた。

 その中には、恋歌の知っている顔もあった。名前も知らなくても、明日、あの場で探してみれば、会えるかもしれない。相手が男で、恋歌太夫が頼むなら、そいつは言うことを聞いてくれるかもしれない。桜泉楼に来て、サキや楼主の前で恋歌が拉致されたことを証明してくれるかもしれない。その場に春風がいたことをも。

 だが。

 それでは遅い。

「明日」では遅いのだ。

 春風の笑顔がそれを告げていた。

 春風は、今夜恋歌を殺すつもりなのだ。

 春風が笑う。顔色の変わった恋歌が自分の意図を察したことを知り、恋歌の恐怖を楽しんで笑う。

「じゃあ、明日の朝、その人たちを探してみて」

 穏やかな口調。

 控えめで上目遣いの視線。

 だが、その口元には隠しようのない嘲笑があった。

 彼女は、恋歌の死を予告したのだ。

 若輩者でありながら、高い人気を背景に先輩を貶めようとする妹女郎。そのタチの悪い女に責められる哀れな姉女郎の役を演じ、春風は笑っていた。


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