3. 闖入者
8月29日誤字修正
2014/10/14誤字修正。……というか、第一話で恋歌16才でした。
階段の軋む音に、恋歌は膝の上で合わせた手を思わず強く握りしめた。
きっちり閉めたはずの障子の隙間から吹き込んだ風が、行灯の火を揺らす。
中庭に面した二階の雨戸の桟は、かなり痛んでいる。大工に払う金を楼主が出し渋って、郭の若衆に修理を任せているからだ。
桜泉は決して金に困っているわけではない、と恋歌は思う。
楓がいて、吉野がいる。
そして、美貌のカムロ千鳥が、つまり自分がいた。
客の数は、他の揚屋に比べても多いように思う。
だから、儲かっているのだと思う。もちろん、金のことは恋歌にはわからないが。たぶん、儲かっているのだろう。
それでも楼主は、若衆にこの仕事を押し付けた。
それでなくても忙しい若衆に。
実のところ、素人のやっつけ仕事で直せる範囲を超えている。
それでも、一旦押し付けてしまうと、その結果がどうあれ、金を払って直そうという気はなくなるらしい。若衆を叱りながらも、改めて職人に頼むことはしなかった。
今では、雨戸に少し力を加えれば、桟ごと中庭に落ちてしまいそうに見える。そんな雨戸の隙間から、外の風が吹き込んでくるのだ。
だから、畳に落ちた恋歌の影が微かに揺らめくのは、
影の肩が震えているように見えるのは、
きっと風のせいだ。恋歌はそう思うことにした。
けれど、二階へ上がってきた足音が近づいて来るにつれて息はつまり、足音が恋歌の部屋の前で立ち止まったときには、吐息が震えるのはごまかしようがなかった。
まいった。
本気で緊張してる。
恋歌は震える手を胸に当てながら大きく息を吐いた。幾重にも重ねた着物の上から鼓動が感じられる。祭囃子のように早い拍子と大きな響き。もしかしたら、と恋歌はようやく気づいた。
あたし、怯えてる?
そんなはずはないと振った頭が重い。カムロ(遊女見習い)のときとは髪の結い方も髪飾りの量も違う。この髪飾りひとつと同じ値段で、一夜の伽をする女がいる。今恋歌が身につけている着物を売って、その金を分け与えれば、数十軒で娘が女衒に売られずに済むはずだ。もちろん、三年前の恋歌自身にその十分の一の金でもあれば、売られたりはしなかった。そんな大金を躊躇いもせずに恋歌に貢いだ男がいて、そいつが今夜恋歌と一夜を過ごすために、更に大金を払った。
当然だ。
江戸の吉原。大阪の新町。京の島原。そしてここ長崎の丸山。
この四つが日本の四大遊郭とされる。
その丸山遊郭でもっとも美しいとされてきたカムロが、最も美しい遊女になったのだ。彼女の最初の男になるためには、当然最高の額が必要になる。それだけの金を出してまで求められることを、恋歌は廓の価値観で誇らしく思った。
「善次郎様がお見えになりました」
障子の向こうで若衆が告げる。
恋歌が閉ざされた障子に頭を下げると同時に、その障子が開き、善次郎が入ってきた。
やるべきことは理解していた。姉女郎の挨拶を何度も見てきたし、繰り返し躾けられてもきた。しかし、自分でやるのは初めてだった。手足がうまく動かない。練習の時には完璧だった色気に満ちた仕草が、からくり人形のようにぎごちない。男をとろかせるはずの艶笑がひきつって、自分の顔が誰かの福笑いにされているみたいな気がする。なにより頭が霞み、何も考えられない。
「敵娼を務めさせていただきます恋歌でございます。よろしくお願いいたします」
やっとのことでそう言うと、男はにんまりと笑った。彼には敵娼の拙さを楽しむ余裕があった。
「突き出しの式は終わったんだ。気楽にいこう。ゆっくり夜を楽しもうじゃないか」
いいさ、笑っていろ。
あんたが笑っていてくれる限りは、万事上々だ。
この男が江戸に帰る時には、更に懐から金子をむしり取って、自分を連れて行かせるつもりだった。十年以上も続く年季明けをのんびり待っていたのでは、帰るところがなくなってしまう。それより金持ちに身請けされた方が、遙かに幸せになれるはずだ。そのためにはこいつの心を捉えること。あたしを自分だけのものにしたくなるようにしむけること。
丸山で最も美しい遊女恋歌を最初に抱く男になろうと、数人の男が名乗りを上げ、豪奢ぶりを競い、気前の良さを誇った。長崎でも有数の豪商羽村籐衛門。名主のひとり新右衛門。そして、この江戸から来た謎の商人善次郎。
善次郎というこの男が、彼が最終的にいくら支払ったか、恋歌は知らない。知りたいとも思わない。彼がどんな男なのかは、楼主でさえ知っているかどうか疑わしい。彼には謎が多く、その中のひとつは何故彼が恋歌の最初の客に選ばれたのかということだ。いくら金をもっていようと所詮、余所者は余所者だ。いつかは江戸に帰る。
だが、長崎の豪商に恋歌を抱かせれば、以後もずっと贔屓にしてもらえる。
それにもかかわらず楼主は善次郎を恋歌の相手に選んだ。
善次郎が江戸に帰った後のことを楼主に忘れさせるほどの額だったのか。
だったら、と恋歌は善次郎の杯に酒を注ぎながら、心の中で彼に命じた。長崎土産にあたしを買っていけ。手ぶらで帰ったのでは寂しいよ。絶世の美少女を長崎の思い出にどうぞ。
善次郎は三十代になったばかりか。十四になったばかりの恋歌には比べるべくもないが、まだ肌には艶がある。浅黒い肌は長旅の証拠だ。しかし、真っ赤な顔は酒を飲んでいる証拠ではない。血走った目と伸びた鼻の下は、とある妄想を頭の中で繰り返してきた証拠だ。
自分はもしかしたら、本当はえらく不幸なのかもしれない、と恋歌は思った。
気がつくと、善次郎の手が恋歌を掴んでいた。
もう片方の手が恋歌の肩にまわり、細い身体を軽々と引き寄せる。恋歌の頬が彼の胸に触れたとき、恋歌の鼻を酒臭い息が包んだ。
早すぎる。
廓の礼儀に反している。あたしを誰だと思っているんだ?
「ち、ちょっと……」
抗議しようと軽く睨んだ恋歌の胸に節くれ立った手が滑り込んでくる。
「もう……順序ってものがありますでしょ?あたしを抱きたいのなら、その気にさせてくれなくちゃ」
笑顔を繕うのが難しい。相手は血走った目で恋歌の懐を手でまさぐっている。その手を押さえると同時に、恋歌は自分の心も押さえつけていた。何をがっついているのかと怒鳴りつけてしまいそうだった。
「江戸の女は存じませんが、長崎では焦った殿方は嫌われますよ」
善次郎はくすくすと笑いながら、手を動かし続けている。
ちくしょう。
こういう場合、殴ってもいいのか?
恋歌は太夫だ。江戸っ子に恋歌がなめられるということは、廓全体が侮辱されたということだ。頬を張っていい場合もある。しかし、客を殴っておいて、事情を楼主に理解されなければ、こちらが痛い目にあう。
遊女が「痛い目」にあうとなれば、それは本当に痛い目にあうのだ。廓に拘束される遊女を懲らしめる方法は肉体的なものから社会的なものまでいくらでもある。どれも経験したいとは思わないものばかりだ。
「そんなに強引にされなくても、逃げやしません」
「逃がすものか」
言って、善次郎は恋歌の袂から手を引き抜くと、恋歌を抱いて立ち上がった。
抗議の声をあげる恋歌を無視して、大股で隣の部屋とを仕切る襖へと歩み寄る。足で襖を開くと、部屋の中には二組の布団がぴったりと並べられていた。善次郎は恋歌を抱いたまま、暗い室内に入り、布団の前で立ち止まる。
と、彼は布団の上で、腰を落としもせずに恋歌の身体を放り出した。布団の上とはいえ不意の落下の衝撃に、恋歌はふっ、と息を詰まらせた。苦しむ恋歌に背を見せて、善次郎は悠然と襖を閉ざす。苦しみに目を閉じる寸前、再びこちらを向いた善次郎が笑っているのが見えた。
笑みを浮かべたまま、男がのしかかってくる。荒い息が聞こえ、恋歌は全身に善次郎の体重を感じた。反射的に吐きだした手を軽々とねじ伏せ、善次郎は笑う。
「じっとしてろ」
「こんなことをなさらなくても……」
「悪いな」
善次郎が恋歌の顔のすぐ前で笑った。
「こういうのが好きなんだ。女は、今のおまえみたいな表情がいい。そういう目で見られると、俺はぞくぞくする」
なんてやつだ。
「そんな……」
反駁しかけた恋歌の頬が、乾いた音をたてた。同時に頬が破裂したみたいに弾かれて、顔が横を向いた。痛みはすぐには感じなかった。自分の身体に馬乗りになった男の手が強く握られている。自分で触れてみると、頬が熱かった。
殴られた?
少し考えてそれがわかった。
あたしが殴られたの?あたしの顔を殴るなんて。
怒りよりも驚きで、恋歌の動きが止まった。
「そう。それでいい」
優しい声。
違う。
優しさと間違えそうになるほど……穏やかな声。
「今、刃向かおうとしたろ?そういう女は好きじゃない。逆らうな。いいな?」
やばい。
こいつはやばい。
逃げた方がいい。こんなやつが相手なら、楼主だってわかってくれるかもしれない。恋歌はまだ、やられちゃったわけじゃない。傷物じゃない。他の客だって、まだ恋歌を求めてくれるはずだ。
よし。
野郎、ぶん殴ってやる。恋歌は腕に力を込めた。
そのとき、善次郎が恋歌の耳元に口を寄せた。
「江戸に来い」
思わず恋歌の動きが止まった。
「俺がお前を身請けしてやる。一緒に連れて行く。江戸に来い」
腕から力が抜けてゆく。恋歌は抵抗もやめて、相手の顔を見た。
江戸へ?
「お前、何年ここにいるつもりだ。いくら売れっ子になっても、結局やることは変わらないぞ。毎日毎日、遣り手婆と楼主に怯えながら、客の機嫌をとって生きてゆくつもりか。毎晩、いろんな男に抱かれて、そのうち妙な病をもらって死んでゆくのか。中には俺より非道い奴もいるかも知れんな」
「だから江戸へ?あんたと一緒に?」
「ああ、連れて行ってやる」
善次郎の目の前で浅ましく心を動かされたのは悔しかった。取り繕うことさえできずに心を動かされた恋歌に、善次郎はにんまりと笑っている。
好きになれそうにない笑みだった。
しかし、慣れることならできるのかも。
「年季明けまでは長い。若い女が入ってくれば、みんなそっちへ向く。どんな美人も、年を食えば見向きもされない」
「非道い言い方」
しかし、男の言うとおりだった。
遊女と客の関係なんて、所詮はそんなものだ。目を剥くような金を払って身請けでもしない限り、遊女を独占することはできない。逢う度に金もいる。無心もされる。どうせ金を払うのなら若くきれいな女の方がいいに決まっている。どうせ遊女だって他の男に抱かれ、無心するのだ。何で男だけが、商売女に操をたてにゃならん、というわけだ。
人気のなくなった遊女は、遊女としての等級を落とされる。
江戸の吉原なら、太夫、格子などの「部屋持ち」から「格子」「張り見世」などの低級まで、細かい区別がなされる。
ここ長崎の丸山遊郭では吉原や島原(京の遊郭)のような細かい等級はないが、他の遊郭とは異なる区別がなされる。
だから、恋歌は身請けを望んだ。
狙ってはいた。けれど、本当に望みが叶うなどと信じてはいなかった。いずれいなくなる客を相手にほとんど一発勝負で身請けを望むのは、どう考えても無謀だ。だが、今、目の前にいる男は、まさに恋歌の望むことを口にした。
恋歌が望んだような男ではないにせよ。
廓を出られる?
絶好の機会かも。
しかし。
遊女にとって、「身請け」は殺し文句だ。口にしたからといって、必ずしも信用はできない。身請けをちらつかせながら、遊女を手玉に取り、最後は捨てる客だっている。ましてや相手はこんな男だ。
もし、もう少し前に今の言葉を囁かれていたら、恋歌は一も二もなく飛びついただろう。善次郎の望むことなら何でもしただろうし、彼の望むような女になることを誓いもしただろう。
しかし、目の前の男は恋歌を殴ったのだ。
女を怯えさせて歓ぶような奴を信用していいの?
たとえ、ほんとに身請けしてくれるとしても、こんな奴についていける?
ためらう恋歌の心を見透かしたように、善次郎が言う。
「俺だって、そういつも非道い男ってわけじゃない」
「本当に?」
そう口に出して訊いてしまうこと自体、恋歌の動揺を相手に教えていた。
気がつくと、善次郎は恋歌の帯を解きにかかっていた。その手を止めようとする自分の腕に、力が入らない。
善次郎に対する圧倒的な恐怖があり、怒りがあり、不信があり、にもかかわらず微かな期待がある。何を信じていいかわからず、恋歌は恐慌をきたしながら、お座なりな抵抗を試みている。
そういう女を力で押さえつける善次郎の目の奥には、嫌な炎がちらついている。自分は決してこの男を好きになることはないだろう。
しかし、このまま彼に身を任せることでここから出ていけるのなら……
恋歌は全身の力を抜き、目を閉じた。
すると、外の喧噪が聞こえてきた。
どこかの酔っぱらいが何か叫んでいる。
すぐ上で聞こえる善次郎の低い笑いが、恋歌の身体に降り注ぐ。
身体を汚されているような気がして、目を開けそうになる。
それを我慢して、恋歌は目を閉じたままでいた。善次郎の顔を見ると殴りつけてしまいそうだったから。
外の音を聞いている方が心が落ち着く。誰かがどたどたと廊下を走っている。身体をごろりと転がされ、帯が解かれた。善次郎は妙に丁寧な動きになって、恋歌の着物を一枚づつ開いてゆく。このまま眠ってしまえるといいのに、と思いながら、恋歌は、再び戻ってきた力を四肢から抜いた。
そのときだった。遠くだと思っていた騒々しさが突然近づいてきた。
楼主ではない。もっと軽い足音だ。小柄な若衆と同じくらいだろうか。
それがひどく急いた様子で近づいてくる。
不意の乾いた衝撃音が、恋歌の身体をふるわせた。音は勢いよく開かれた襖が柱を叩いた音だった。
思わず小さな悲鳴をあげながら、音の方を見た。襖が開いている。
「お客様、困ります」
若衆が悲鳴をあげている。
小柄な人影が、そこにあった。
布団に横になった恋歌には、逆光で闖入者の顔は見えない。ただ、彼が土足で畳に立っているのはわかった。そして大小の刀を差した侍であるということも。
彼は手にしていた物を放り投げた。恋歌と善次郎の目の前にそれは落ちて重い音を立てた。
刀だ。
「おまえは……」
善次郎が嗄れた声で呟く。
小柄な人影は、それを受けて答えた。
「我は高村家が長男、晋輔。父の仇を討つために江戸より貴様を追ってきた。善次郎、ここであったが運の尽きだ。さあ、太刀を取れ。いざ、尋常に勝負!」