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26.秘密

 恋歌は幾度か見失いそうになりながらも、美雪の後をついていった。美雪は振り返らなかった。肩の線がひどく硬い。まだ、あの思い詰めた表情のままなのだろう。美雪は俯き加減のまま、小走りになっていた。

 恋歌は美雪に気取られないように気をつけていたが、その必要はなかったかもしれない。美雪は周囲に気を配っている様子はなかった。気を配る余裕が感じられなかった。

 そして、美雪の目的地はそれほど遠い場所ではなかった。

 結局、美雪が駆け込んだのは、丸山の東南背後にある寺社だったのだ。

 大した距離ではない。

 とはいえ、美雪は病弱でこそないが、頑丈と言うほど体力に溢れているわけでもない。

 それでも坂の多い長崎の階段をほとんど息つくこともなく一気に登りきったのは、やはり彼女がひどく思い詰めていて、自分の疲れにさえ気づく余裕がなかったからだろう。

 後を追う恋歌が後ろから見た美雪の姿は顔を俯かせて、肩の線を怒らせて階段を小走りで登っていった。

 もう昼も近い。

 太陽は空の真ん中にあって、長崎の町を照らしている。

 人を内緒で呼び出すのなら、もう少し暗くなってからの方がいいのに、と恋歌は思う。もっとも、遊女にとっては、夜こそが仕事の時間だ。遊女が夜にいなくなれば、すぐに楼主に知れる。高村晋輔もそう考えて美雪を呼び出したのだろうか。



 高村晋輔は既に来ていた。

 何をするでもなく、境内の楠をぼんやりと見つめている。

 美雪が来るのを認めると、表情を露わにすることもなく、黙って頭を軽く下げた。美雪は会釈を返すこともなく、彼のとこまで小走りに近づいた。

 恋歌は林の木に隠れようとしていた。恋歌の小柄な身体なら、境内の木々に隠れることくらい造作もない。

 美雪の最初の一声が聞こえた。

「どういうつもりですか?」

 声はひどく苛立っていた。恋歌は美雪がこれほど硬い声を出すのを初めて聞いた。高村晋輔が美雪に送った手紙は、少なくとも恋文ではないのだろう。

 もっとも、高村晋輔の恋文が美雪を苛立たされる、ということがあり得ないとまでは言い切れない。その場合は高村晋輔の恋は、美雪の声を聞いただけで結論が見えたようなものだった。ご愁傷様。

 だが、聞こえたのはそれだけで、後は二人の声はまったく聞こえなくなった。恋歌は美雪たちから離れすぎたことに気づいたが、林から出ればすぐに見つかる。

 どうしようか、と迷っていると、いきなり高村晋輔が恋歌の方を見た。素早く木の陰に隠れる寸前、彼が何かを美雪に言うのが見えた。美雪が振り返った。

「恋歌?」

「出てこい」

 高村晋輔が怒ったようでもない声をかける。

「そんななりで林に隠れるのは無理だ」

 恋歌は自分の着物を見下ろした。

 晋輔の言う通りだった。華美に走りやすい遊女の服の中でも、丸山遊女はもっとも華やかな服装を着ることで有名だ。

「京の女郎に長崎衣装、江戸の意気地にはればれと、大阪の揚屋で遊びたい」

 とは、それぞれの遊郭の特色から「いいとこ取り」をしたいと願った男の唄だ。

 オランダとの商いで潤うこの町では、遊女たちも、他の遊郭とは異なる派手やかさをもって着飾っている。

 恋歌も、いつもそんな服ばかり着てきたから、自分たちがいかに目立つ存在なのかを忘れてしまう。勿論、客に会うわけでもない外出中に本当に着飾っているわけではないのだが、それでも郭の外の女たちの中では人目を引くことに代わりはない。

 仕方がない。

恋歌は諦めて、彼らの前に出ていった。

「どうせなら、もっと人気の少ない場所にすればいいのに」

 と、恋歌は言った。

 高村晋輔は苦笑いを浮かべた。

「その通りだが。人を呼ぶには、自分の居場所を知らないければならない。まだ長崎に来たばかりだからな。人気のないような場所では、地名を人に聞くこともできない」

「……なるほど」

「恋歌……何故」

 美雪が恋歌に咎めるような声をかける。

「申し訳ない」

「だが、彼女にも関係のあることだ」

 高村晋輔は、美雪に謝る恋歌を庇うように、恋歌と美雪の間に立った。

 あたしに関係のあること……?

「恋歌には関係ないわ」

「美雪殿、そなたが何者であるかは彼女には関係がない。だが、美雪殿がこれから何をするかは、彼女にもとても関係があるはずだ」

「美雪が何者であるか……?」

 こいつは何を言っているのだろう。

「美雪殿が何もしなければ、今度こそこの娘は善次郎に殺される」

「そんな……っ」

 恋歌の抗議に答えるように、高村晋輔は言った。

「おぬしは善次郎に見初められた。奴はひどく執心している。お主をなぶりものにして殺すのが、今の奴にとって最大の楽しみのようだ」

 最高。

 恋歌は吐き気がしてきた。

「あいつはそういう奴なんだ。そうやって恋歌くらいの年の女を二人、あいつは殺している」

「……あいつはなんなの?」

 今、自分の呼び名の後に「殿」がついていなかった。

 美雪にはついていたのに。

 まあ、自分がこんな話し方をしているのだから、文句を言うつもりもないけれど。

「あいつは……善次郎だ」

「それは知ってる。あいつがただの変態野郎だったのは、でも一昨日までの話よ。多分、今じゃ生きてさえいない。今のあいつは何?」

「知らない」

「なのに、あいつの考えていることがわかるの?」

「あいつはそういう奴だった。昨夜の様子を見る限り、変わったようには見えなかった」

「くそ野郎は、死んでもくそ野郎だと」

「そうだ」

晋輔は、恋歌の言葉遣いにも眉をひそめることなく頷いた。

本当に感情の起伏の少ない奴、と恋歌は思った。

 恋歌の言葉遣いに腹を立てて高村晋輔が苛立てば、それで恋歌も多少は気が晴れると思ったのだが。

「あの怪物に心当たりは全然ないの?」

「ない」

「なら、何故、平然としているの?」

 恋歌は苛立ってきた。

「あんたに斬られても、あいつ平気だったわ。全然傷ついた様子なかった。なのに何故、あんたは平然としているの?」

「わしは父の仇を討たなければならない。奴がどんな怪物になろうと、殺さなければならない」

 そのためには、と言いながら高村晋輔は美雪を見た。

「この娘の力が要る」

美雪は何かを探していた。地面に落ちている何かを必死になって、しかし微動だにせずに探していた。高村晋輔に対する返事であったかも知れない。だが、答えが見つかった様子はなく、彼女は地面に目を落としたままじっとしていた。

 その姿を見て、恋歌は昨夜のことを思い出した。

 あの不死身の怪物にただ一度だけ苦痛を浴びせたのは、高村晋輔の太刀ではなく、美雪の握った障子の格子だったのだ。美雪の非力にもかかわらず、あの怪物の腹部に格子は確かに突き刺さった。

 恋歌は覚えている。

 怪物の恐怖と苦痛に満ちた目。

 高村晋輔は、その理由を美雪に問うていたのか?

 そう。彼は美雪がその答えを知っていると考えている。

 そして、美雪はその問いに心当たりがあるようにも見えた。

「わしが言ってもいいのか?」

 高村晋輔は目を落としたままの美雪に問いかけた。

「美雪殿が黙っている理由はわかる。できれば、わしも関わりたいとは思わない。だが、わしは奴を滅ぼさなければらない。それが務めだ。わしは奴を倒したいんだ」

 美雪は黙っている。

「美雪殿にだってわかってる。いつもそなたが仲間を守れるとは限らない。多分、次に善次郎が現れた時、この子は奴に殺される。それでも美雪殿は黙っているつもりか。そして自分が危ないときだけ、そっと秘密の武器を使うつもりか?」

「やめて」

 美雪の唇だけが動いた。

「そんな言い方しないで」

「すまん」

 あっさりと晋輔は謝った。自分に非を認めれば遊女に頭を下げられる侍というのは、恋歌の気に入った。晋輔はそのまま黙ってしまう。恋歌は話が見えなかったから、少し口をつぐんでいることにした。美雪も再び口を閉ざし、三人が沈黙を競い合う形になった。

 結局、最初に口を開いたのは美雪だった。

「何故わかったの?」

「あのとき、そばにいたから」

 美雪の問いに、高村晋輔はそう答えた。

「あのとき、美雪殿の呟きが聞こえた。離れていた恋歌には聞こえなかったろうが、わしには聞こえた。あんなのは聞いたことがなかった。だから……多分そうだと思った」

「……そっ」

 美雪は何かを吹っ切るように強く頷いた。

 頷くと背を伸ばし、顎を引いた。

「そっか」

 そうすると、もう彼女は俯かなかった。目には強い光があり、優しさを失ってはいなかったが、ひ弱さとは無縁の表情を築き上げていた。

 次に彼女が恋歌に向き直ったとき、美雪は晴れ晴れとした笑顔を広げていた。

「あたし、恋歌にも話していなかったことがあります」

 それでも彼女は一度だけ周囲を見渡し、周囲には三人の他に誰もいないことを確認した。

 太陽は微かに傾きはじめ、美雪を背中から照らしていた。彼女の影は恋歌の方へと短く伸びていたが、今はその影さえ恋歌の見たことのない強さを感じさせた。

 美雪は胸を張り、誇るように言った。

 その言葉を恋歌は既に予想していたような気がする。昨夜見た光景を思い出していた。美雪だけがあの怪物を傷つけることができた武器。障子の骨。十の字に組まれた木の格子。

 つまり。

 美雪は恋歌の心にあった言葉を掬うように口にした。

「私、切支丹キリシタンです」


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