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24.手紙

 楼主の部屋を出ると、恋歌は自分の部屋へと戻った。

 下級の遊女は自分だけの部屋をもてない。だから、他の遊女と大部屋で暮らす。だが、恋歌はまだ、部屋までは取り上げられていない。確かに、それだけは楼主の温情なのだろう。待遇に小さな差を残すのは、恋歌をまた太夫に戻すことを念頭に置いているからだろう。

 恋歌を抱こうとしても得体の知れない化け物に殺されない。もちろん、そういう「安全性」が確認されればなのだろうが。

 籐衛門に抱かれたかったわけじゃない。昨夜、鬼になった善次郎が現れるまで、籐衛門から逃げ出したくてしかたがなかった。

 だが、一夜あけて考えてみれば、やはりあのまま抱かれてしまうのが、「幸せ」への近道だったのかもしれない、とも思う。

 今更、詮のないことでもある。

 籐衛門は死んだ。死んだのだ。

 恋歌は、部屋にはいると鏡を覗き込んで、自分の額を見てみた。

 小さな傷だ。どうってことはない。少し厚めに化粧すればわからない。あたしなら、こんなの気にしないと恋歌は思ったが、それが何のなだめにもならないことはわかっていた。

 じっとしていても落ち込むばかりだ。何かしようと思った。

 やるべきことがあった。傷ついた心と身体を癒すこと。

 寝よう。

 そう思ったとき、障子の外に人影が揺らいだ。

「恋歌、いい?」

 美雪の声だ。

「どうぞ」

 恋歌が答えると、美雪は静かに障子を開けて入ってきた。

「大丈夫?随分やられたんじゃない?」

「大丈夫じゃない。随分やられたわ。あげくに……」

 続けるのは、まだ抵抗がある。

 降格。

 やっとのことで口にしたその結論に、美雪は大きな反応を見せなかった。

 美雪も勿論、自分が怒ったところで楼主の意見を覆す力などないことを知っているからだ。

「……そう」

「ねえ、波路」

「……なに、千鳥」

 恋歌の呼びかけに答えて、また、美雪も恋歌がカムロであったときの名前を呼んだ。

 勿論、どちらも親のつけてくれた本名は別にある。だが、廓に入れば、その名を呼ぶ者はいなくなる。カムロになって名前を付けられ、遊女になればまた別の名前を付けられる。考えてみると、恋歌は美雪の本名を知らない。カムロの時の名を知っているだけだ。恋歌も自分の本名を美雪に教えた記憶はない。

「あたし、そんなにひどいことしたかな」

「サキになんか言われたの?」

「ちくちく」

 恋歌が両手の人差し指で美雪をつつく真似をすると、美雪は口元だけで微笑んだ。

「そうね。サキにとってはきっと気に入らない太夫だったわね」

「そんなにひどいことしたつもりないんだけど」

「ああ、その辺が特に気に入らないと思うわ」

 そう言って、美雪は笑う。

 あまりに明るく笑うので、恋歌は思わず訊き返した。

「……サキにとっての話だよね」

「もちろん。あんた、随分サキに逆らったわ。でも、他の子は敵に回していないと思うよ。あんたが庇ったお陰で叩かれなかったカムロもいたはずよ」

 そうだ。そういうときもあった。

 そのときのカムロがさっき恋歌に怯えていた綾羽だ。

 ……笑えない。

 とはいえ、綾羽が本当に恋歌に怯えていたわけでもない。怖いのはあくまで楼主なのだ。自分だってカムロの立場なら、姉女郎に対する打擲に怯えるのは当然だ。

 それは恋歌だってわかってる。

「美雪さん、いますか」

 また、障子の向こうから声が聞こえた。

 今度は美雪のカムロだった。

 恋歌は立ち上がり、障子を開けた。

「美雪、いるよ」

 恋歌は室内の美雪を示した。

 恋歌の顔を見て、一瞬怯えたカムロは、自分の姉女郎の姿を見てはっきりと安どの表情を浮かべた。その表情に答えるように美雪は微笑んで問いかける。

「どうしたの?」

 美雪の声はカムロにも優しい。苛ついたことがあると幼いカムロに八つ当たりする遊女もいる中で、美雪に付くカムロは幸せだと恋歌は思っていた。

 自分も綾羽に八つ当たりするような真似は避けなくては、と恋歌は思う。

 カムロも美雪のことは怖れない。だから、ちらちらと怯えた視線を向けるのは、あくまで恋歌を怖れてのことだった。

 自分だって、そこまで怖れられるようなことをした覚えはなかったが。

「あの……お客さんが」

「こんな時間に?……まあ、いいわ。今、行きます」

 ごめん、と目だけで恋歌に言って、美雪は腰を上げかけた。それをカムロは制した。

「いえ、もう帰ってしまわれたんですけど……手紙を渡されました。美雪さんにって」

「そう。じゃあ、後でいいでしょ?」

「いいんですけど……。急ぎじゃないと思うんですけど……」

 と、カムロの答えは要領を得ない。美雪は立ち上がり、カムロに歩み寄った。

「どうしたの?」

「あの人なんです」

「え?」

「仇討ちの人」

美雪は振り返り、恋歌の顔を見た。

「高村晋輔?」

 立ち上がり、声をかけた恋歌にカムロは一瞬だけ怯えた目をしてから頷いた。

 ……だからなんで、あたしに怯える。

 少し苛立つ恋歌に苦笑して、美雪はカムロを促した。

「手紙って?」

「これです」

 カムロが差し出した手紙を受け取り、美雪は、カムロの目も恋歌の目も気にすることなく、それを開いた。高村晋輔が美雪に手紙を出す理由など思いつかないが、あるとしても恋文程度だと美雪は思ったようだった。恋歌もそう考えていた。

 もっとも、本当にあの若侍が美雪に恋文を書いたのだとしたら、恋歌は高村真輔という人物に対する考えを改める必要がある。主に下方に修正する形で。

 それとも、敵討ちの最中(それも相手は鬼だ)に偶然居合わせた女に色目を使う余裕があるのなら、それはそれで大したものなのだろうか。

 いずれにせよ、郭では日常茶飯事に類することだ。だから、美雪の気分も恋歌への叱責の話題に比べて明るんでいた。

「相手は私でいいの?」

 美雪はカムロに聞いたが、その声ははっきりと恋歌に聞かせることを楽しんでいた。つまり、恋歌をからかっているのだ。

「何よ、それ」

「別にぃ」

 美雪は笑っている。

「エラい迷惑な話だわ」

「ほんとにね」

 恋歌の愚痴に、美雪は苦笑いで答える。

「高村真輔の話でしょ」

「そうよ」

「あたしは関係ないのに」

「まあねぇ」

 美雪は苦笑いを浮かべる。

「なに、その笑い方」

「別に」

「あたしは関係な・い・の・に」

「そうよねぇ」

 美雪のそのすました笑い方が悔しくて、恋歌は美雪の顔を睨みつけながら、もう一度繰り返した。

 けれど、美雪は動じない。穏やかな微笑を浮かべている。いや、少し意地の悪さが加わっているだろうか。習い事の師匠が弟子に向けるような「高い場所」での笑い。

 頬を膨らませた恋歌を、美雪のカムロがくすくすと笑った。

 美雪は、その笑顔のまま、無造作に手紙を開いた。

 手紙は短かったようだ。

 すぐに美雪は手紙から目を離した。閉じるよりも早く、彼女は手紙を開いたまま自分の胸に押し当てた。

 手紙を隠すように。あるいは、手に加わる力をどこに向けていいかわからないかのように。

 美雪は驚いていた。それは恋歌にもわかった。だが、手紙から伝わる想いに心を打たれたのではなかった。それは恋歌にもわかった。美雪は青ざめていた。

「どうしたの?」

 恋歌の問いかけにも美雪は答えない。姉女郎のあまりの反応の大きさに、手紙を渡したカムロまで青ざめている。

「なんでもない」

 首を振る美雪の目は定まっていなかった。

「なんでもないよ」

 安心させようと作って見せた笑顔は誰にも向けられていない。その表情ではどんな鈍感なヤツでも安心なんてさせられない。

「ただの恋文。あたしの色香に迷っちゃったみたい。でも、あいつ金持ってるのかしら」

「だいじょうぶ?」

「もちろん。恥ずかしいわね。恋文ひとつで動揺しちゃって。大丈夫。なんでもないわ」

「恋文。結構その気になっちゃった?」

まさか、と美雪は笑った。それからカムロに下がっていいと言った。カムロが下がろうとすると、思いついたようにカムロを呼び戻した。

 笑顔のまま、彼女は言った。

 笑顔。確かに唇の両端は吊り上っている。けれど、その目はまったく笑っていなかった。カムロの腕を掴んだ手には筋が見えている。カムロは顔をしかめていた。

「このことは誰にも言わないでね」

 どれほどの自制を要するのだろう。美雪の声は穏やかだった。いつものように優しい声だった。それでも、その腕にこもった力と真剣な目は、美雪の心中が決して平静でないことを物語っていた

 カムロはおずおずと頷き、美雪が立った今掴んだ自分の腕を見下ろした。それから彼女は会釈して、美雪たちに背を向けた。一度だけ振り返ったときの目を、恋歌は嫌いになった。

「あの……あたし……」

 美雪は急に何かの用事を思い出したようだったが、恋歌は立ち上がり、美雪にはそのまま部屋にいるように言って、自分だけ部屋を出た。

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