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20.善次郎

 恋歌が高村晋輔の背に回り込むのを、善次郎は黙ってみていた。慌てることなくゆっくりと晋輔に向き直ると、閉じていた目を開き、薄く口を開いて牙をのぞかせたが、手を伸ばしては来なかった。口元には生前と同じように嘲るような笑みが浮かんでいる。

 相手は明らかに昨日とは様子が違っていたが、高村晋輔はこの前とすべて同じやり方を繰り返すつもりらしい。手に持っていた刀を善次郎の前に放り出す。

「取れ」

 善次郎にそう命じながら、自分は左手だけを刀にかける。

その間、善次郎は、高村晋輔が頑なに侍の意地を通すのを眺めていた。

 面白そうに。

 退屈そうに。

「それで?」

 気を取り直したように、善次郎は訊く。

「どうするんだ?」

「何が」

「俺は、お前の親父の仇なのだろう?」

「そうだ。だから、お前を殺す」

「そりゃよかった」

 善次郎は退屈そうに笑った。高村晋輔を迎えるように両手を広げる。

「おめでとう。悲願達成だ。俺はもう死んでいる」

「ワシが殺したわけじゃない。それにお前は生き返った。だから、今度こそワシが殺す」

「おやおや。それじゃあやっぱり残念、だ。お前には、俺は殺せない」

 善次郎が嗤った。

 高村真輔は笑ったりしなかった。ひたすら真面目で、どこまでも剣呑な目で、父親の仇を射殺そうと睨む。

 ろくでもない父親のためだとしても、その目はどこまでも真剣だった。

「わしはお前を殺す」

「だから、無理だって」

 善次郎は嗤って答えた。

「俺は死んでいるんだ。死者を殺す?どうやって?」

「その口を開けないようにする。その目を開けないようにする。その手足を……」

「だから無理だって」

 善次郎は嗤い、首を振った。

「訂正しよう。俺は死んでない。俺は死なない体を手に入れたんだ」

 両腕を広げる。

 鳥や蝙蝠が翼を広げるように。

 目当ての遊女を抱きとめるように。

 威嚇し、逃げ道をふさぐように。

 目の前で両腕を広げる善次郎に、しかし、高村晋輔は表情を変えなかった。

「取れ」

 鬼に向かい、高村晋輔は真顔で言う。

 善次郎は大きく口を開き、牙を誇示するように剥いたが、晋輔は眉をひそめただけで、顎をしゃくって再び善次郎に投げた刀を示した。

「取れ」

「あんた、他にやることないの?」

「ない」

 恋歌の抗議にも晋輔は平然と答えた。

 そのことが恋歌には信じられない。

 相手は死んだはずの男で。

 それなのに再び目の前に現れて。

 しかも、鬼のような牙があり。

 鬼のような力で、人を殺した。ちょうど善次郎自身を殺したときのように。

 それなのに、この若侍は普通の人間を相手にするような公正さで対峙しようとしている。

 恋歌は歯痒くなって、高村晋輔に抗議する。

「わかってるの?相手はもう普通の人間じゃないのよ」

「何であろうと、仇討ちは正々堂々と行わねばならん」

 目は鬼と化した善次郎に向けたまま言う晋輔の顔を、恋歌はまじまじと見つめた。

 まじめ、というのにも限度を超えている。

 実際には普通の人間相手の仇討ちでも、尋常に勝負、などと声をかける奴は少ない。物語の中でこそ、討手は仇に対して声をかけて公平な勝負を望むが、現実でそれをやる奴は滅多にいない。討手にしてみれば、やっとのことで見つけた仇だ。逃げられてはかなわないし、それ以上に返り討ちにでもされたのでは目も当てられない。大抵はまず相手が気づかぬように近づき、一太刀浴びせてから声をかけるか、まったく声などかけずに、不意打ちで斬り殺す。そこまですることに抵抗があるものは、相手が動けなくなるまで深手を負わせ、とどめを刺すまえに声をかける。

 もちろん、仇討ちがそれど多く行われているわけでもないから、恋歌も本物の仇討ちを見たことはない。しかし、現実なんてそんなものだということは恋歌だって知っている。

 まして、目の前の若侍は当事者だ。知らないはずがない。

 敵討ちに成功する栄誉も、失敗する不利益も、すべて彼が背負うことになる。そして、その差は今後の彼の人生において、覆しようのない落差を生むことになるのだ。

 それはわかっているはずだ。

 それでも、ここまで馬鹿正直に立ち向かうことができるとすれば。

 よほど育ちがいいのか。

 あるいは、単に馬鹿なのか。

 もちろん、恋歌は躊躇なく後者に賭ける。

 善次郎もそう考えたようで、牙の生えた口を嘲るように歪めたまま、一歩踏み出した。

 晋輔のほうった太刀を跨ぎ、晋輔に、そしてその背後にいる恋歌へと足を踏み出す。

「何故太刀を取らぬ。また、逃げるつもりか」

「違うと思う」

 恋歌は思わず突っ込みを入れる。

 更に一歩踏み出した善次郎に、晋輔はようやく刀を抜いた。

「勝負」

 晋輔が低く呟いた。呟き終わると、短い静寂が舞い降りる。

 静けさが恋歌の耳を圧した。

 さすがに善次郎も足を止める。だが、その口元にはあの嘲るような笑みが貼りついたままだ。

 静寂を破ったのは、土足でここまで上がってきていた晋輔の足音だった。彼の草鞋が畳を蹴る摩擦音が、僅かな静けさを裂く。はっとして恋歌が彼の動きを目で追おうとしたとき、高村晋輔は既に善次郎の肩に太刀を叩き込み、彼の敵を袈裟切りにしていた。

「……速い」

 恋歌がそう呟いたときには、もう彼は刀を引いている。素早く善次郎の背後に回り込み、次の構えを取った。

 二撃目は必要ない。

 誰だってそう考えたはずだ。普通なら、今の一撃を受けて立っていられるはずがない。十分に致命傷になりうる攻撃だった。

 しかし、相手は鬼だ。普通の人間の常識は通じない。

 簡単には死なないだろう。高村晋輔にもそれはわかっているようだった。

 とどめのために、もう一撃が必要になるか。

 恋歌はそう考えた。

 そして、恋歌はその程度にしか考えていなかった。おそらくは高村晋輔も。

 恋歌は善次郎を見た。その視線が善次郎のものとぶつかった。

 善次郎は恋歌を見ていた。恋歌を見て嗤っていた。彼の着物は肩から裂かれ、そこから骨まで達した傷がはっきりと見えた。

 それなのに善次郎は嗤っていた。

 痛覚がないのか。

 鬼だからもう、何の痛みもないのか。

 恋歌は思い、それと同時に気づいた。善次郎が言った言葉だ。

 死者を殺す?

 そんなの…………できっこない。

 善次郎が足を踏み出した。その足取りに、晋輔の一撃は何の影響も与えていない。

「しんすけっ」

 恋歌は善次郎から逃れようと下がった。善次郎の背後で再び晋輔が剣を振り上げる。

 三歩。

 高村晋輔は大きく三歩踏み込んだ。

 三歩踏み込むと同時に。

 そして大きく太刀を振りかぶると同時に。

 彼は畳を蹴った。

 高村晋輔の体が跳躍する。

 重いはずの太刀が軽いものででもあるかのように。

 持つ者を地面に押さえつける重さを持つ太刀が、空へ引き上げてくれるものででもあるかのように。

 小柄な若侍の体は、頭一つ大きいはずの善次郎をその瞬間見下ろしていた。

 大きく振りかぶる。

 全身が力を溜め、勢いを蓄える。

 彼の体が宙に浮いていた次の瞬間、そのすべての力と勢いが一気に爆ぜた。

 それに対して、善次郎は防御の姿勢はとらなかった。ただ振り返り、何も持たぬ腕を振り回しただけだ。

 その腕に晋輔の刀が触れた。

 恋歌は見た。

 高村晋輔の身体が、風車のように空中で一回転する。空中の高村晋輔は、太刀を振り下ろそうとした姿勢のまま、ぐるんと旋回した。

 そして、軸の折れた風車のように彼の体は吹き飛んだ。驚愕の表情を顔に貼り付けたまま、吹き飛んだ彼が柱に叩きつけられるのを見た。

 建物全体が揺らぐような衝撃が、彼を叩きのめした。

 思わず恋歌は駆け寄ろうとしたが、その前に立つ善次郎は再び恋歌を目で射抜いた。いや、目で舐めまわしたと言うべきだ。善次郎は鬼になっても生者の肉欲を引きずっていた。

 晋輔は立ち上がる。

 立ち上がろうとする。

 彼は呻きながらも、畳に刺した刀を杖のようにして立ち上がろうとする。しかし、足下がふらついていた。それはそうだろう。そんなに軽い打撃ではなかった。ただ躓いて転んだだけの転倒とは違う。すぐには立ち上がれない。

 彼にとっては幸いにも、しかし本音を言えば恋歌にとっては不幸にも、善次郎の興味は高村晋輔にはなかった。

 善次郎はひたすら恋歌を見ていた。

「早速、男をたぶらかしたのか。さすがは廓の女だ。だが、言ったろう。お前は俺のモノだと」

 死者は死なない。それだけは死者の特権だった。

 それでも死者を滅ぼせるのは?

 善次郎から目を逸らすことはできなかった。それは危険だったし、善次郎の目は彼女を求めていた。ひたすら彼女に飢えていた。

 死者を滅ぼすためには?

 成仏させる?

 恋歌は後退した。その足が何か柔らかいものに躓き、恋歌は尻餅をうった。

 籐衛門の身体だ。

 そう思った恋歌は、その時初めてもう一つの死体が転がっていたことに気づいた。

 知らない顔ではなかった。

 坊主だ。

 昨夜、美雪を敵娼に選んだ女好きの破戒坊主。

 だが、何故こんなところに。

 首をひねった恋歌は、しかし、すぐに腑に落ちた。

 いくら破戒坊主とはいえ、自分とは関わりのない遊女の部屋に入るのは抵抗があるだろう。まして、今夜の客は長崎でも有数の商人だ。大事な夜を邪魔されたら、どんな怒りをぶつけられるかわからない。

 俗を楽しむ坊主なだけに、郭で豪遊する商人を怒らせることは怖かろう。

 つまり、この男は許されたのだ。この部屋に入ることを。潜んでいることを。

 籐衛門はこの男を雇ったのだ。万一、晋輔や恋歌の言っていることが本当だったときのために。

 この桜泉楼に鬼が徘徊していたときのために、籐衛門は鬼退治のために坊主を雇ったのだ。

 だが。

 坊主は目を開いていたが、死んでいた。

 まだ、死んで間もないはずなのに、身体は冷たかった。あの時の善次郎と同じように、喉に食いつかれた痕がある。傷は大きく、喉の肉を深く食いちぎられていたが、出血は極めて少なかった。すべての血を吸い取られてしまったかのように。

「そいつ、お前のこと覗いていたんだぞ」

 善次郎がにやつきながら喋る。牙の生えた口で喋りにくくないのだろうか、恋歌の頭の中の不真面目な部分が考えた。

「籐衛門は、そいつに自分とお前がやっているところを覗くのを許したんだ。そしてもちろん、自分を守らせるための金も払う。そいつにしてみりゃ、いい小遣い稼ぎさ」

「でも、あんたのことは殺せなかった」

「そうだ。だが、籐衛門にとっちゃいいこともあった」

「何よ」

「まだそいつに金を払ってなかった」

 善次郎は愉快そうに身体を揺すった。

 恋歌は、自分の周りにロクな男がいないことを思い、胸の中にため息を落とした。


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