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13.青餅

 青餅という言葉がある。

 長崎で売られている餅で、二つ並んでべたべたしてくっつく。

 つまり、恋人という意味だ。

 実のところ、遊女が恋をしても、楼主にはいいことはない。

 想う男がいれば、女は他の男には抱かれたくなくなるし、思い詰めて駆け落ち、更には相対死(心中)でもされたのでは元も子もなくなる。

 だから、本来なら遊女の恋愛は禁止なのだが、実際には色恋沙汰の話題が減ることはない。

 そもそも本当に禁止されてしまったら、あわよくば遊女と恋仲になりたい、と郭にくる客の興を削ぐことになる。

 遊女は客に愛を囁くし、客は「話半分」と言いながらも、半分はその嘘を信じたがる。

 もちろん、そのすべてを信じることはできない。

「あなたは私の青餅よ」などと遊女に言われて鼻の下を伸ばしていたら、その「青餅」とやらに会うための金と贈り物の金でたちまち財布は空になるだろう。遊女が傾城とも呼ばれる所以だ。

 もちろん、そんな遊女の甘口ばかりだけではないのだが、なんといっても、女はその手の話題が好きなのだ。

 恋歌も、決してそういう噂話は嫌いではない。

 だが、その噂の主役が自分で、不本意な相手と噂になっているとなれば、笑ってばかりはいられない。

「はあ!?」

 噂の中で高村晋輔が自分の青餅役になっていると聞いた恋歌は、思わず大声になって聞き返した。

「なによ、それ」

「あ。違うんですか、やっぱり?」

 恋歌付きになったばかりのカムロが聞き返す。


 美雪は隣でくすくすと笑っている。

 人事だと思って。

 とはいえ、それほど真に受けられていたわけではなかったらしい。

 そのことに僅かに安堵しながらも、恋歌はカムロに言い募る。

「昨日、突き出しの邪魔をされたチンニュウ者相手に青餅も何もないでしょう」

「でも。命を賭けた密度の濃い時間の中でなら、互いを想う気持ちが芽生えても不思議はないって……」

「…って、誰が?」

「……楓さんが」

「やっぱり」

 美雪が笑顔で頷く。

 恋歌にも、驚きはなかった。

 その光景が目に見えるようだった。

 悪意はない。

 その点に関して、恋歌はこれっぽっちも疑っていない。

 けれど、話の真偽よりも面白さを優先させる楓が、自分が知っていることに尾鰭背鰭をつけて、おもしろおかしく語って聞かせ、噂を無責任に解き放っている場面を想像するのはきわめて簡単だった。

「まったく、あの姉さんは……」

「姉さんらしいよねぇ?」

 美雪がくすくすと笑っている。

「らしい、じゃ、すまないよ。こっちの身にもなってほしいな」

「そうだね。ごめん」

 謝りながら、けれど、美雪の笑みは消えない。小さな拳で口元を隠したまま、肩を震わせている。

 それに一言文句を言ってやろうと口を開いた恋歌は、ふと別のことに思い当たる。

「でも、楓姉さんは……」

 恋歌はひとり呟く。

 楓は昨夜、あの騒ぎには参加しなかった。

 あの時間、楓は他の客の相手をしていたし、その客は周囲で何が起ころうと楓を離すはずがない。

 伊の七、というその男は郭でも有名な粘着質な男なのだ。

 中島川のそばに蔵を持つ酒屋の主だが、吝嗇家としても、恐妻家としても有名だった。

 つまり遊女にとってはありがたみの少ない客だ。

 そのくせたまに来たときには、ひたすら女に纏わりつく。

 彼は、たとえ郭が火事になろうと女の手を離すことはないだろう、と言われている。まして昨夜の騒ぎは伊の七にも楓にも関係のないことだ。伊の七が楓を部屋から出したとは思えない。

 だから、楓はあの騒ぎを見てはいない。

 なのに、噂は見てきたように細かいところにまで触れていた。

「誰か……」

 楓に話したヤツがいる。

 噂を無責任に広げることでは定評がある楓に。

 それでなくても噂を面白く「改変」することのうまい楓に、一部始終を吹き込んだヤツがいる。

 それは誰だ。

 美雪か?

 もちろん、美雪はすべてを知っている。

 だが、美雪の視点では知らない部分もまた詳細に語られている。

 では、それは……

「誰?」

「ん?」

 美雪はきょとんとした顔で、恋歌を見返す。

「姉さんに余計なこと吹き込んだのは誰なの?」

「さあ。私はわからないけど」

 と美雪は穏やかな笑みのまま首を傾げる。

 恋歌は美雪の目の奥にある動揺を探るように見ながら、美雪の言葉を否定してみた。

「……嘘」

「……なんで?」

 美雪は不思議そうに恋歌を見ている。

 その唇にはいつものように優しい笑みが浮かんでいる。

 だが、その唇は「話さない」と持ち主が決めたことは決して話さない。

 恋歌はそれを知っていた。たぶん、郭にいる他の誰よりも。

 だから、恋歌は呼びかける。

 つい昨日まで使っていた、美雪と自分との付き合いの古さを示す名前で。

「波路……」

「なあに千鳥?」

 慣れ親しんだ古い呼びかけにも、美雪は動じない。

 口の堅さでは定評のある美雪の口をこじ開ける術を恋歌は持たない。

 だから、狙いを変える事にした。

「あんたは知ってる?」

 自分についたばかりのカムロに目をやる。

「ひっ……」

 綾羽(あやは) というその少女は、恋歌に話を振られ、目に見えて、はっきりと動揺した。

 だから、恋歌は笑顔で頷いた。

「ああ、知ってるんだね」

「いえっ……」

「あんたは、教えてくれるよね?」

「……あの…」

 綾羽は困っている。

 あるいは、話したのは綾羽自身かも知れない。

 楓は話術が巧みだ。楽しく話していると、いつのまにか自分が知っていることを全部話してしまう。

 恋歌だって、何度話の種を引き出されたことか。

 考えてみると恋歌が「おしゃべり」だとされるのは、半分は楓の責任でもある。もちろん、相手が楓でなくても、秘密を守るのは得意ではないのだが。

 楓を相手に口を閉じていられるのは、美雪くらいのものだった。

 だから、綾羽が噂の元であったとしても、本当は恋歌には責めることはできないのだとわかっていた。もちろん、「責めることはできない」と「責めない」とは違うのだとも知っていたわけで、それが綾羽に問いかける理由でもある。

「あやは」

 恋歌の視線に刺されて動きを止めた綾羽に、美雪が声をかける。

「こっちにおいで」

 優しい声。

「波路……」

「なあに、千鳥?」

 綾羽を庇おうとする気配に抗議する恋歌にも、美雪は動じない。

 それがわかったのだろう。

 綾羽ははっきりと安堵の色を滲ませながら、美雪の下に駆け寄った。

 もちろん、綾羽が本気で恋歌を怖れていたら、こんなマネはできない。本気で姉女郎の機嫌を損ねたら、カムロの生活は大変なことになる。

 だから、綾羽も半分は冗談の通じる場面だと思っているのだろう。

 恋歌が本気で怒りはしない、と感じているのだろう。

 それは、まあ、恋歌に対する信頼でもあるし。

 それは、まあ、恋歌にとってそんなに悪い気がするわけでもない。

 とはいえ。

 すべてをわかったような笑顔で澄ましている美雪と、その元でニコニコ笑っている妹女郎の姿を見れば、やはり悔しくならないわけがない。

「波路ぃ」

「なあに、千鳥?」

「強情……」

 他に言いようがなかった。

 それは恋歌が負けを認めたと言う宣言だった。

 綾羽は安堵し、美雪は優しい笑顔を更に深めた。

 ちぇっ、と恋歌は苦笑いする。

 美雪のこんな笑顔を見れるのなら、負けるのもそんなに悪くないかもしれない、などと、美雪に惚れた客みたいなことを考える。

「じゃ、私、お部屋を片付けてきます」

 恋歌が本気で機嫌を損ねていないとわかったのだろう。綾羽は立ち上がり、障子を開けて出て行こうとして、そこで表情を強張らせて立ち止まった。

 彼女が誰かを見上げた表情。

 それは端的にいえば恐怖だ。

 綾羽にこんな表情をさせるのは誰だろう。

 そう首を傾げるより早く、障子が開き、その答えが、つまり楼主が顔を出した。

 彼はしかし、恋歌の姿を見つけると、珍しく上機嫌な様子で彼女に声をかけた。

「いい話がある。俺の部屋へ来い」


  *


「よろこべ」

 と言われて喜ぶ人間は少ない。

 強制される喜びなんて、大抵当人にとってはろくでもないことが多いのだから。

 だから、恋歌は楼主に喜びを強制されても喜んだりはしなかった。

「喜べ、恋歌」

 楼主の部屋に呼び出された恋歌が満面の笑みを浮かべた楼主にそう言われて、曖昧な笑みを浮かべながらも心中ではかなり警戒してたのも無理からぬことだろう。

 だが、その一方、喜びを強制する人間が、そういうことを斟酌してくれることもまた

少ない。それを考慮するような性格なら、そもそも喜びを強制などするはずもないのだろう。

「ありがたいことだ」

 と、楼主は腕を組んでひとり頷いた。

「本当にありがたいことだ」

「何がです?」

 恋歌は訊いた。

 楼主はそれさえ教えずに「喜べ」と言ったのだ。恋歌は、何を喜んでいいのかさえわからなかった。 

「羽村さまがお前を御贔屓にしてくださるそうだ」

「羽村さまが?」

 これには、知らぬうちに、恋歌の声も明らんでいた。

 羽村籐衛門は先ほど恋歌が直接訪れ、その女房に追い出された家だった。

 楓は「全部終わり」と言ったが、見ろ、ちゃんと恋歌の訪問には意味があった。

 もちろん、この羽村家の当主と妻との間でどんなやり取りが会ったのかは、恋歌は知らない。知りたいとも思っていない。籐衛門が癇癪を起こした妻に叩き出され、その腹いせに郭につぎ込むことにしたのだとしても、それは恋歌のあずかり知らぬ事だ。

 なんにしても後で楓に自慢してやろう、と恋歌は思った。

「考えてみると、わしも何故、あんな得体のしれない男にお前を当てがってしまったのか。実はよくわからんのだ。わしも良くなかった」

 楼主が反省している!

 思わず恋歌は目を見張った。

 良くないことでも起きる前触れだろうか。

 これ以上悪いことが?

 そう考え、恋歌はぞっとした。

 ほんの少し明るさを増した恋歌の心も、不吉な前触れを見たようにまた沈んだ。

 もちろん、楼主は恋歌のやや失礼な想像を知ることもなく、上機嫌で笑顔を浮かべ続けた。

「これでわしも肩の荷が下りた。お前はお前で良い旦那ついた。夕べのことは忘れて、ここから仕切りなおしだ。

 今夜、すぐに籐衛門様はお見えになる。面倒な手続きを求めて御機嫌を損ねるわけにはいかん。当然、わしもおもてなしさせていただくが、その後、籐衛門様にはそのままお前を抱いていただく」

 楼主が笑った。

 喜べ、と他人に言う男だ。恋歌の気持ちなど斟酌するはずもない。そもそも、恋歌だって確かに喜んだのだ。

 それでも、今夜が床入りだと宣言され、恋歌の心の臓は、一度止まったような気がした。

「籐衛門様の御機嫌、くれぐれも損ねるではないぞ」

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