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11.「遊女」

 熱が下がらなかった。

 体がひどく熱い。

 郭内の喧騒を遠く聞きながら、その「遊女」は布団に横たわり、無言で天井を見上げていた。

 でも、これは風邪だ。ただの風邪。

「遊女」はそう思い、自分にそう言い聞かせた。

 そうは言っても、ただの風邪から命を落とした遊女を何人か知ってはいた。

 人が死ぬ理由なんて、いくらでもあるのだ。

 風邪だろうか。

 あるいは、他の病かも。

 例えば……。

 そう考えそうになり、考えるのをやめる。

 考えたところで、どうなるわけでもない。

 あれ。

 例えば……性病。

 例えば……。

 あるいは……。

 ダメだ。考えてはいけない。

 そもそも、彼女だけが煩っているわけではなかった。

 この商売は病の当たる籤を引き続けているようなもので、彼女はただその籤に当たっただけのことだ。自分の境遇に選択の余地はなかったのだから、彼女に罪があるわけでもない。

 それでも、その負債は彼女が背負わなければならない。

 ただ、運が悪かっただけなのに。

 もちろん、死ぬと決まった訳ではないだろう。そもそも、本当は何の病気かもわかっていないのだ。仮にそうであったとしても、時間はある。すぐには死なないはずだ。

 だが、恐ろしい。

 死ぬのは嫌だ。最近では見る数も少なくなったけれど、昔は随分多くの死体を見た。人間の体を犬が食っているのを何度か見たことがある。彼らの仲間入りをするのは嫌だった。

 あの年の秋と冬を思い出す。

 彼女がまだ幼かったその年。

 前年の暮れから、おかしかったのだという。年が明けても天候の不順は続き、暖かくなってからも雨が多かった。梅雨は長引き、気温は上がらない日が続いた。

 最初に訪れたのは噂だった。あるいはその前から皆、気付いていたかもしれない。それでも、対応のしようがなかった。

 飢饉なんて、いつでもそういうものなのだろう。

 いずれにせよ、何の対抗策もとれぬまま、噂の直後に現実が襲ってきた。

 畑に近づくと、風一つないのに畑がざわめいているのが聞こえた。畑に一歩踏み入れれば、無数の羽音が大地からわき上がり、耳を圧する。

 雲霞うんかだった。

もちろん、虫害を黙って受け入れるものなどいなかった。皆、畑に入り、虫を一匹一匹潰していった。だが、その程度の抵抗など、虫たちの数に比べればほとんど何もしなかったも同然だった。小さいが貪欲な虫達は、貴重な食料に舌鼓を打ちながら、砂嵐のように渦を巻いた。そして青ざめながら駆除に狂奔する人々の視界を塞ぎ、あざ笑うように体を包み込んだ。

 もともと実りの少ない年だった。

 それを虫共が食いつくし、稲穂がなくなった。葉も茎も彼らは喰らい、掴んで指先に残るのは小さく黄色い羽虫だけだった。

 夏には、誰もが飢饉が来たのを知っていた。

 秋は収穫の季節ではなかった。

 その年の秋、死は群れをなして顎を開いた。近畿から西国地方にかけて襲った享保の大飢饉は、実に数万とも数十万とも言われる人の命を奪ったのだ。

 彼女の家はそれほど貧しくなかった。もちろん裕福というわけでもなかったが、少なくともこれまでは、娘を廓に売らなくても喰うには困らなかった。だが、収穫そのものが消失してしまえば、些細な貧富の差異など少しも救いにはならなかった。

 彼女は売られた。

 彼女の家は僅かな金を手に入れたが、だからといって救われはしなかった。金は喰うことができない。金を持っていても、買える食料はなかった。裕福な者に与えられた特権は、餓死するときに、金を抱いて死んでいけるということだけだった。

 金を手に入れたとはいえ、残った家族には彼女を心配する余裕はなかった。結局、一番助かったのは彼女自身だったのかもしれない。

 彼女に背を向け、彼女が後にした故郷に比べれば、長崎は天国だった。

 飢饉は長崎の食卓にも影を落としてはいたが、食事そのものが消滅してしまうようなことはなかった。

 長崎市民は運が良かった。時の長崎奉行大森時長は飢饉を憂い、奉行所に蓄えられていた食糧の備蓄を市民に分け与えた。更に食料の買占めをしていた商人たちに食料の放出を命じた。そしてついに、その年、長崎からは一人の餓死者も出さなかったのだ。彼が任期を終え、江戸へ帰るとき、彼を数千人の長崎市民が桜馬場や日見峠まで見送って感謝を表した。

 外では餓死者が続出している中、ここ長崎はとりあえず嵐が過ぎるのを息を潜めて待つ程度の余裕は残していた。

 だから彼女はここでの奉公を苦痛に思ったことはなかった。いや、もちろん、辛いことはあった。振り返ればロクなことがなかった。遊郭といっても、衣食が保証されているわけでもない。カムロの時代から容色に恵まれていなかった彼女は、姉女郎や他の彼女達の残飯をくすめて空腹を癒した。それでも、あの年のことを思えば、自分はましな方なのだと思うことができた。

 だが、死が掠めたという実感だけは、彼女から去ることはなかった。

 いつもそのことが頭から離れない。もともと体の強いほうではなかった彼女は、いつも体を壊し、伏せることが多かった。怖い。大きな声で笑う姉女郎や妹女郎。カムロや和歌集たちの笑い声を聞きながら、いつも彼女は怯えていた。

 何故だろう、と思うくらい、いつも怯えていた。

 死ぬことばかりを考えていた。

 死んでしまうことを怖れてばかりいた。

 今回だって、ただ熱が少しあるだけだ。

 風邪かもしれない。ただの疲れかもしれない。

 布団の中で震えていれば、当然、稼ぎは少なくなる。その分、楼主や遣り手からの風当たりは強くなる。彼女は衣食を保障されているわけでもないのだから、他の彼女の元に訪れた客の残した残飯をくすめて飢えを凌いだ。それができるだけでも、ここにいることは幸せだったのだ。

 だから。

 自分は自分の境遇に満足している。

 なにかというと楼主に逆らい、不平をこぼしてばかりの恋歌や楓達の気がしれない。

 そんなに嫌なら、出ていけばいい。

 丸山の門は開いている。外へ出てゆくことは簡単だ。捕まればただではすまないが、そんなに嫌なら逃げてみればいいんだ。

 そうとも。そんなに嫌なら、ここで生きてゆく必要はない。

 そんなに嫌なら死ねばいいのだ。

 でも、私は満足している。不平なんかこぼしたこともない。楼主や遣り手に対しては常に卑屈なまでの態度で接してきた。客に望まれれば、どんなことでもしてみせた。暴力を振るう客にも逆らったことはない。あの陰険な遣り手も、従順な彼女にだけは辛くは当たらない。稼ぎが少ない分楼主には嫌みをいわれるが、そんなのは仕方のないことだと思っているから、彼女は楼主を恨みはしない。彼らも本当はいい人なのだ。そう思っている。彼らのことは嫌いじゃない。

 私は、満足している。

 なのに、何故。

 私が、ここから出ていかなければならないのか。

 ここから。

 この世から。

「嫌だ。嫌だ。嫌だ」

 死ぬのは、私であるべきじゃない。

「遊女」は、布団の中で震えながら呟き続けた。

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