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107.朝日の中で

2014/11/14 誤字など訂正。

 恋歌の目には一瞬の交錯が焼きついている。


 善次郎を斬った高村晋輔は、刀を振り抜き、そしてそのまま倒れこんだらしい。

 らしい、というのは、恋歌はその姿を見ていなかったからだ。

 一瞬で広がった炎。善次郎が顕わにした恐怖と苦痛。炎に変わるその肉体と舞い散った輪郭。その残像に、恋歌は目を奪われていた。


 善次郎を斬った晋輔は、残心しなかった。気を残し、姿勢を保って次撃への準備をすることも、反撃に備えることもしなかった。できていなかった。

 彼は太刀を一気に振り抜き、その勢いのまま倒れこんだのだろう。

 恋歌は聞こえた音で、そう推測した。


 善次郎の輪郭を持った炎は、一瞬で消えた。


 恋歌は何もなくなった虚空を見上げる。見上げている。


 何もない。


 善次郎の姿も。

 その輪郭を形作った炎の一片も残っていない。


 今しがたの喧騒は消え去り、いつも通りの朝日が差し込むいつもどおりの桜泉楼の二階だった。もちろん、つい今まであった雨戸は戸袋に収められたのではなく、すべて中庭に落ちてしまったのだが。

 呆然とした長い時間が過ぎ、舞い散った炎が完全に消えうせ、あの卑劣で傲岸な男が今度こそ復活してこないのを確認して、恋歌はようやく腰を上げた。


 よっこいしょ、と年寄りじみた声をあげて立ち上がり、高村晋輔を振り返る。そして、「おめでとう」と、恋歌は晋輔に手を差し伸べた。

 倒れ込んだ晋輔は、身体中の力を使い果たしたように伏せっていたが、恋歌の声に上体を起こし、胡座をかく。それから戸惑ったように問い返す。

「おめでとう、か……」

「いいんじゃない?今度こそ、あいつを倒した。今度は達成感あるでしょう?」

「ああ」

 高村晋輔は、笑顔で頷き、出された恋歌の手を握る。そして、足の痛みを堪えながら立ち上がった。

「今度こそ奴は終わった。もう出てくることはないだろう」

「うん」

 恋歌も、笑顔で頷ける。

 善次郎は死んだ。あの外道で卑怯な鬼は、今度こそ滅んだのだ。


「おめでとう」

「うむ。感謝する」

 晋輔は頷き、恋歌は頷いた。だが、立ち上がった晋輔を見る顔に笑みは消えていた。

「でも、まだ終わってないのよ。わかってるでしょう?」

「勿論だ。深雪どのを助けねば」

 高村晋輔は、真剣な顔で頷く。そして深刻な顔で問いかける。

「だが、どこを探せばいい?」

 恋歌は答えられない。

「……わからない。わたしには」

「ならば、しらみ潰しに探すしかない」

「……うん」

 すぐに答える高村晋輔の決意を、恋歌は頼もしく思う。ありがたく思う。

 だが、しらみ潰し、とはどの範囲を探すのだ。

 相手は霧になって消えてしまう。空をも飛べる。

 どれ程の距離が行動範囲に含まれるのか、恋歌にはわからない。

「行くぞ」

 高村晋輔は立ち上がる。

「ここにいたら間に合わなくなることは間違いない」

「そうだよね」

「美雪どののそばには、あの吸血鬼の親玉がいるのだろう?日が昇っている今なら、鬼は寝ているということだ。さっさと見つけて、首を切り落としてやろう」

「うん」

 恋歌は強く頷き、それを弾みにするように歩き出した。


   *


 一階への階段に、まだ楼主の死体は残っていた。恋歌はそのことには驚かない。楼主は刀で切り殺されている。吸血鬼として復活することはないのだろう。

 だが、そのそばに寄り添っている人物には驚いた。

「楓姉さん……」

 階段に腰かけた楓は、楼主の血まみれの頭に膝枕をしていた。自分の着物を楼主の血で汚すことも気にせず、目を閉じた男の青ざめた頬を、細い指先でそっとなぞる。

「馬鹿な男だよねぇ」

 二階から降りてきた足音に気づき、顔を上げる。恋歌たちを見て、楓は小さく笑う。

「ケチで、ケチで。どうしても、自分が損することが我慢できなかったんだ。自分が買ったあんたを殺される損を認められなかった」

 死んじまったら、金なんて使いようがないのにね。

 そう言う楓の指先には、優しさ以外の情感が含まれているように思えて、恋歌は思わず楓を見つめてしまう。

「……姉さん、まさか」

 楼主への気持ちを問いそうになった恋歌に、楓は不釣り合いなほど明るい笑い声をあげた。

「ばあか。あたしが楼主に惚れてたのかって?そんなはずないだろ」

「そっか。……そうだよね」

「ただ、さ。私を買って、少しは名の知れた女にしてくれたのは、やっぱりこいつだからさ。少しは感謝もしてるんだよ。家から引き離された寂しさはあったけど、それはこいつが悪かったわけじゃないし、その金で両親や弟たちが助かったのも間違いないしね」


「うん」

 恋歌は頷く。

 楓の言うことはわかる。

 もちろん、自分が売られたことに傷つかない娘はいない。だが、ほとんどの娘は親の決定に従い、従容として女衒に連れられて郭に来る。

 家族が飢えずに生きるにはこれしかないのだ、と理解しているから。

 恋歌もそのひとりだった。

 もっとも、恋歌の場合、違う世の中にいたら違う感情も沸くのだろうか、と思いもしたが。


 楼主のことは好きではなかった。たぶん、それは桜泉楼にいた女全員に共通する思いだ。だが、同時に楼主を責めれば自分たちの問題が解決すると思う女もいなかった。

 恋歌は沈黙し、楓に抱えられた楼主の顔を見つめる。その恋歌に、楓は穏やかに問いかけた。

「善次郎、やっつけたんだね?」

「うん」

「勝ったんだ?」

「……うん」

 恋歌は頷く。

 あの男を殺すために、恋歌たちは戦った。そのために春風が死に、用心棒が死に、そして楼主が死んだ。そのことを考えると、明るく笑うことはできない。

 だが、楓は言葉を失った恋歌の感傷を吹き飛ばすように笑いかけた。

「で?教えてよ。賭けはどうなったのかな?」

「え?」

 いきなり向けられた問いかけに恋歌は意味がわからず呆ける。

「……なにが……」

「あんたは生きてる。そちらのお武家さまもやられなかったんでしょ?」

「うん」

「じゃあ、あんたは無事に『やられた』?」

「やられ……」

 それはもちろん、高村晋輔がやられなかった、の「やられる」とは違う。吸血鬼に咬まれた、という意味ではないのだろう。

「な、なんでそんなこと……」

「あ、あんたには言ってなかったっけ?」

 楓は聞き直し、恋歌は顔を赤らめる。綾羽の話を思い出していた。

 賭けになっている、という話だった。

 高村晋輔の童貞と恋歌の処女は無事に失われるか。

 真っ赤になった恋歌を見て、楓は答えを知ったのだろう。

「ああ、美雪か綾羽あたりから聞いたんだね」

 さすがに察しが早い。

「で、どうだった?うまくいったの?」

「こ、こっちは命懸けだったんだよ。そんなヒマなかったわよ」

 動揺は声と顔、両方に表れた。

 まだこれからやらなくてはならないことがあるのに、こんなことで遊ばれている場合じゃない。だが、恋歌が自分の調子で話を進めることはできない。楓の前では、楓の笑顔によって時間の進む速さが決まる。

 楓は恋歌の動揺をからかうこともなく、驚いてみせる。

「あら、それは残念。でも、困ったわね。こういう場合、どうなるのかしら」

「どうって……」

「お武家さまが死ぬか、あるいは生き延びてあんたを抱くか、しか考えてなかったのよ。まさか、若い殿方が生き延びても太夫に手を出さないなんて」

 楓は高村晋輔を見る。

「高村さま、でしたよね?この子は高村さまの趣味じゃないんですか?」

 楓の半ば責めるような口調に、晋輔はたじろぎながらも否定する。

「あー、いや、そんなことは」

「じゃあ、嫌いじゃない?」

 楓は間髪いれずに言葉尻を捉える。

「も、もちろんだ。ただ……」

「つまり、趣味?」

「あ、それは……」

「じゃあ、むしろ、好み?」

「お、おお……」

「実は、ど真ん中」

「う、うむ」

 高村晋輔が圧倒されてる。恋歌が姉女郎を本気で尊敬しかけたとき、晋輔は口ごもりながらも頷いた。

 そのことに恋歌が何か言うより早く、楓は両の手のひらをパンと叩いた。何かの交渉ごとが成立したみたいに。

「じゃあ、話は簡単です。これからやっちゃいましょ」

「な、なに?」

 流石に晋輔も慌てている。その動揺ぶりが恋歌には楽しい。

 彼の誠意に胸を打たれたとはいえ、彼の朴念仁ぶりに振り回された身には小気味良かった。

 だが、楓の提案の意味するところを考えれば、恋歌も平静ではいられない。

「ちょっと、姉さん」

「なによ、せっかく夜を生き延びたんでしょ?ちょっとお祝いしちゃえばいいじゃない」

「いや、だが、だからといって……」

 晋輔は口ごもりながらも毅然として振舞うことはできずにいる。妙にそわそわしながら恋歌の顔を盗み見たりしているのが情けない。

 恋歌は溜息をついて、

「あんた、なにその気になってんのよ」

「いや、その気になってなど……」

「遊女の口車に乗せられて人の処女奪おうとしてんじゃないわよ」

「あー、いや、だが、しかし……」

 しどろもどろになる晋輔に、恋歌は呆れる。

 こいつ、こんな人物像だったかな、と首をひねりたくなる。

「あのね。いちいち人の冗談を真に受けないで。逆に自分でも冗談の一つや二つ使いこなせないと、これからの人生、本当に女に縁のない朴念仁のまま終わるよ」

「じ、冗談か……今度やってみよう」

 女っけのない寂しい人生を想像したのだろうか。実際、嫡男としての立場を外れた武士の男子に嫁をもらう余裕があるか、かなり怪しい。まして、江戸に戻れぬ浪人になるしかないとすれば尚更だ。高村晋輔は躊躇いながらも頷いた。

 だが、晋輔が下手糞な冗談を口にする場面を想像して、今度は恋歌が戸惑う。空気を読まない高村晋輔の冗談は、とても寒々しい情景を思い起こさせた。

 空回りする冗談なぞ、口にしないほうがましかもしれない。

 自分で口にした助言だったが、恋歌はそれ以上強くは言えずに、晋輔の肩を叩いた。

「……まあ、頑張れ」

「……うむ」



「で、どこでやる?」

 と目を輝かせながら、楓は恋歌と晋輔に尋ねる。

「まだ、その話を続けるの……」

「皆いないんだから、どの部屋でも空けるわよ」

「……やめて」

「邪魔が入らないように、私が見張っててあげる」

「……やめてよ」

 っていうか、見張りが一番デバガメしそうなんだけど。

「なんで、もう何にも心配はないんでしょう?だったら、お祝いもかねて彼にご褒美をあげなくちゃ」

「ま、まだ終わってないわよ」

「え、そうなの?」

 不思議そうに楓は問い返す。

 そうだ。楓はまだわかっていない。

「まだ美雪だって助けてないのよ」

「美雪?あの子、すぐに帰ってこれるって噂だったけど。まだ帰ってないの?」

 恋歌の反駁に、楓は首を傾げた。

 そうだ。

 美雪はキリシタンの疑いをかけられて、乙名の家に呼ばれたのだ。楓が聞いているのはそこまでなのだろう。おそらくはその後起きたであろう事を、この快活な姉女郎は聞いていない。

「……美雪は鬼に捕まったの」

「……」


 楓はその答えを予期していなかったのだろう。

 ふざけた調子が消え、恐怖に近い深刻な目で恋歌を見つめる。


「だから、助けに行かなくちゃいけないの」

「……そっか。それじゃあ」

 楓が頷きかけたとき、不意に老いた声が悲鳴をあげた。


「楼主!」


 慌てて楓が振り返る。

 恋歌は、しかし、その視線の先を既に見ていた。

 桜泉楼の入り口。

 そこから入って階段を見上げた姿。

 今まで逃げていて、夜が明けたのを待って戻ってきたのだろう。

 それは遣り手のサキだった。


 彼女は血相を変えて階段を駆け上がってくる。

 そして楓が膝に乗せているのが楼主の頭であることを確認して、もう一度悲鳴をあげた。

「楼主っ。どうしてこんな……」

 刀傷は真っ先に目に入っただろう。

 その深さと顔色の悪さから、既に楼主が死んでいることもわかっただろう。

 サキは開いた口から、しかし、何の言葉も発することができずにいる。頭の中では様々な思いが渦を巻いているのだろうが、それが言葉になったのは少し経ってからだった。

 そして、その言葉は恋歌と楓の意表をついた。

「また、あんたのせいかいっ」

 サキはいきなり振り返り、恋歌に細い指を突きつけて糾弾したのだ。

「この疫病神が。とうとう、楼主までこんなことにっ」

「そんなっ」

 恋歌はさすがに反駁する。

 自分が手を下していない者の死まで責を負うわけにはいかない。

「私はなんにも……」

「何にもしてないなら、なんでこんなに次々と人が死ぬんだいっ」

 サキが怒鳴る。

 恋歌は言葉を失う。

 サキの言うことは間違えている。恋歌は悪くない。

 だが、どれほどの言葉を費やしても、サキは納得しないだろう。サキにしてみれば、恋歌に絡んで人が死んでいる。それなら恋歌に罪はあるのだ。

 間違えている。

 だが、サキを説き伏せること不可能だ。

 それを感じて、恋歌は俯く。

 その姿に叩きつけるように、サキは怒鳴り続ける。

「この疫病神が。あんたのせいだ。全部あんたのせいだ。疫病神。人殺し……」

「やめなよ」

 強い口調で、楓が口を挟んだ。

「何をだい」

 途端にサキはぐるりと首を回して楓を睨む。

「全部こいつのせいだろうが」

「なんで。それこそわからないよ」

 楓はとりなすようにサキに語りかける。

 気の長くない楓にしてみれば、「下手に出て」というくらいに穏やかな口調だった。

「別に恋歌は悪くないじゃん。この子は最初から巻き込まれただけだよ」

「悪くない?みんな、この子のせいじゃないか」

「どうして……」

「どうしてもこうもないっ」

 サキは再び叫ぶ。声を震わせ、金切り声で叩きつける。

「お客を何人も殺され、碌でもない噂を流され、とうとう楼主まで殺された。全部この役立たずに絡んでだ。ぜんぶこの疫病神が……」

「だったら余計にやめなよ」

 楓は今度は強い声を挟んだ。

 強い、けれど感情を見せない冷たい口調だった。もちろん、その目は雄弁に語っている。彼女が妹女郎を罵られて怒っている、ということを。

 楓は目ではサキを牽制しながら、突き放すような口調で「助言」する。

「この子が本当に疫病神なら、この子をそんな風に怒鳴りつけてると、サキも碌な目にあわないかもしれないよ」

「……っ」

 サキは顔色を変える。

 唇を震わせ、楓を指す指を震わせる。

「桜泉楼も、もう終わりだっ」

 そして、結局もう一言悪態をついて、足音も荒く階段を下りた。

 そしてそのまま暖簾をめくり上げて外へ出て行った。


 恋歌と楓は、その姿を黙って見送った。


 一人で悪態をつくサキの声が遠ざかって聞こえなくなってから、楓は恋歌を振り返って苦笑いを浮かべて見せた。その笑顔に、恋歌は頭を下げる。

「ごめん、楓」

「なんで?あんたはぜんぜん悪くないだろ?」

「……でも」

 もちろん、恋歌は悪くない。けれど、恋歌が、ここ数日間で起きた様々な出来事の中心人物であることは間違いなかった。そして、もしこのまま桜泉楼が廃れるとすれば、楓もサキも巻き込まれた側なのだ。

 だが、言い淀む恋歌に楓は明るく笑って見せる。

「あたしはさ。ほら、あんたが太夫になるまで、桜泉で一番だった女だよ。実際、あんたが客を取れずにいる間に、私の人気は再上昇したし。桜泉楼がなくなったって、引く手あまた。私を欲しがる店なんていくらでもあるさ」

「……うん」

 楓はそう答えたが、実際には桜泉楼がすぐになくなるということもないだろう。

 一応、この楼主にも妻がいて、息子がいたはずだ。

 その息子は所謂放蕩息子というヤツで、いつも遊び、桜泉の遊女に手を出したりして父親を嘆かせてきた。商売という点では到底父親には及ばないという話だ。

 それでもすぐに店をたたまざるを得ないということもないだろう。

 これからも桜泉楼という小さな世界は続く。

 ただ、そこに恋歌の場所があるかどうかは極めて怪しかった。

 

「それよりさ。これからどうするの?」

「……どうするって」

「美雪、いないんだろ?」

 と、楓は表情から笑みを消して尋ねる。だから、恋歌も強い口調で答えた。

「うん。探す。絶対に見つける。絶対に助ける」

「そっか。私は何をしたらいい?」

「……来ない方がいい」

 躊躇う恋歌の後ろから、晋輔が答える。

「美雪殿が捕えられた場所には、おそらく吸血鬼の親玉もいる。行くのは危険かもしれない」

「でも、じっとはしていられないわ」

 決然と答える。

「どこにいるかはわかっているの?」

 楓に問われ、恋歌は頷けない。

 目を逸らし、首を左右に振る。

「だったら、探す人は少しでも多いほうがいい。違う?」

「……違わない」

「だったら……」


 と、楓が言い募ろうとする。

 と、そのときだ。

「ごめんよっ」

 桜泉楼の暖簾を潜り、一人の男が入ってきた。


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