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106.嘆くもの

「オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ……」


 彼女は怖れていた痛みと感覚に悲鳴をあげた。

 突然ではなかった。不意打ちではなかった。彼女はその苦痛の可能性を予期し、怯えていたのだ。


 彼女は死をゼンジロウと共有した。

 ゼンジロウが首を切り落とされた痛み。己が肉体が炎に変わる苦しみ。その恐怖。そしてそれらすべての感覚の途絶。すなわち、死。すべて彼女は感じていた。


 ゼンジロウは死んだ。


 彼女にはそのことがわかる。

 もちろん、ハルカゼの死の際にも、その感覚を感じてはいたが、その喪失感は今感じているものとは比べ物にならぬほど軽微なものだった。

 所詮、あれは使い捨ての駒だった。


 今度は違う。


 ゼンジロウはいない。

 あの邪悪で強靭な男は消えた。

 いや、消されたのだ。


 こんなはずではなかった。

 こんなことが起こりえるはずがなかった。


 キリスト教徒の娘は彼女が捕らえた。

 残った若造と小娘は、不死者を滅ぼす術をもたない。


 彼女たちが負けるはずがなかったのだ。


 それなのに。

 ゼンジロウは消えた。

 彼女は独りだ。

 また、ひとりになってしまった。


 彼女は怯えていた。

 だからこそ、彼女は命じたのだ。

 逃げろ、と。

 夜明けが来れば、不死者は脆弱な存在になり下がる。それは彼女たち吸血鬼と呼ばれる者にとっては明らかだ。

 だが、彼女たちは寿命を知らない。

 永遠という無限の時間の中で、獲物を屠る機会はいくらでもある。

 夜は来る。必ず来る。明けない夜がないように、暮れない陽もまたないのだ。

 そのときまで逃げていれば、必ず勝てる。


 だから、彼女は命じた。

 逃げろ、と。

 だから、彼女は懇願した。

 逃げて欲しい、と。


 ゼンジロウの強さを彼女は愛した。


 気が狂いそうなほどの飢餓の中で平静を保てるあの男を、彼女は玩具として欲し、伴侶として望んだ。

 あの男の強さを彼女は愛した。


 だが、彼女は伝えなかった。


 いや、彼女自身が知らなかったのだ。


 弱さを認められぬほどの強さは、逆にそれ自体が弱みなのだ。


 例えば、あの凡庸な女「ハルカゼ」ならば、夜明けとともに逃げ帰ってきただろう。

 僅かでも危険を感じたら、すぐに逃げ帰ってきただろう。

 そもそも夜明け前にはあの女なら苦しくて戦う気力を失っていたに違いない。

 我侭で嫉妬深く、気の弱い、そのくせ生への執着心だけは強い無様な女。


 だが、それでよかったのだ。


 ゼンジロウは強かった。

 夜が明け、薄っぺらい木戸の外には陽光が当たっている状況で、あの男は強靭な精神力で以って戦う意思を保つことが出来た。

 自分を付け狙う邪魔者との戦いを楽しむことが出来た。

 逃げろ、と懇願する彼女にあの男は答えた。

「これからがいいところなんだろうが」


 彼女が愛してやまなかった強靭な精神。

 彼女が恐れたほどに圧倒的な忍耐力。


 だが、それがあの男を滅ぼした。



 彼女は嘆いた。

 怒りが心を染め上げる。

 悲しみが憎悪を強くする。


 今や太陽は昇り、この街を照らしている。

 彼女は今、薄っぺらな暗闇に守られているが、それでも動くことはできない。

 彼女でさえ陽が昇ってからは、動く力を奪われるのだ。


 ミユキという小娘は、今も何かをつぶやいている。だが、さすがに疲労は極に達しているのだろう。もはやその声は低く、小さく、彼女には何を言っているのか聞き取ることはできない。もうしばらくすれば、完全に気を失うかもしれない。

 それでも、今はまだ、彼女は寝台の上で、圧し掛かる聖句の微かな重みを感じている。それは夜明けの重圧とともに彼女を拘束し続けている。

 そう。

 今や彼女を拘束するのは、小娘の唱える聖句だけではない。外の世界を太陽が照らしているが故の行動阻害が始まっているのだ。


 彼女でさえ、昼間は行動力を失う。

 それなのにゼンジロウは動き続けた。あの薄っぺらな板一枚で作られた暗闇で、あの狂気の剣士と対峙し続けた愛すべき漆黒の存在。


 なんという男だったのだろう。


 もう、いない。

 もう二度と、あんな男には会えないだろう。



 彼女は独りだ。

 また、独りになってしまった。


 彼女は渇いている。

 とてつもなく渇いている。


 彼女は耐える。この渇きに彼女は永遠に耐えなければならない。

 独りで。


 だが、何のために。


 何のために、また、独りで彼女は生きるのだ。

 この渇きは止まない。この飢えがこの身から去ることはない。そして、癒されることのない孤独が続く。

 永遠に。

 彼女に作れる「仲間」は、飢えに狂って言葉も失った獣ばかりだ。


 彼女は大切な玩具とそれ以上に大切な伴侶を失った。失い続けるのだ。

 いやだ。

 こんなのはいやだ。


「オ・オ・オオオ……」

 気がつくと、唇から意味のない呻き声が漏れ続けている。

 自制できない感情。嫌悪すべき惰弱さ。

 だが、今は気にならなかった。


 彼女は死なない。

 不死たる彼女にとって、死後の楽園も地獄も意味がない。

 いや、地獄は関わりがある。

 ここが地獄だ。

 独りで耐えねばならない永遠の飢餓。終わることのないの渇き。癒されることのない孤独。彼女自身が地獄なのだ。


 右手が勝手に胸を上がる。左手が主の意思を無視して咽喉を掴む。

 そこに悪夢がある。

 そこに渇きがある。

 それはまるで咽喉に詰まった異物のように、彼女を苦しめた。

 左手は咽喉を掴む。

 右手は鎖骨の間隙に食い込み、その爪で肉を開き、触れることの出来ない飢餓を取り除こうとする。

 

 駄目だ。

 自制を失うな。

 自制を失えば、血を吸う獣に堕する。


 ようやく自制心が浮上する。

 それを意識的に展開し、身勝手に本能に従おうとする四肢を拘束下に置く。


 大丈夫。


 彼女はひとりだった。

 初めから。

 これからも。


 ひとりでありつづける。


 その強さはもっているはずだ。


 彼女は手を下げる。

 

 大丈夫。


 彼女ははじめからひとりだ。

 たったひとりだ。


 ひとりで。孤独で。か弱い。


 だが、それ故に。

 無敵だ。


 もちろん。

 彼女は待てる。

 暗闇が来るのを。

 それはすぐそこだ。


 永遠に比べれば一瞬にすぎない。


 彼女は待ち、そして狩る。屠る。


 いや、報復するのだ。

 彼女に孤独を強いた者たちに、彼女以上の苦痛を与え、彼以上の無残な死を与えよう。


 彼女は自制する。

 だが、怒りを忘れたわけではない。


 決して。


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