104.善次郎 4
動物を殺す場面があります。残酷な描写になりますので、ご注意ください。
2014/6/26 全面訂正。
特に晋輔が生まれる前に夏が養女になっていた記述を削除。
(夏は晋輔の妹なのでした(恥))
機橋家に最初に生まれた男子は孤独だった。
それが特別な出来事なのか、よくあることなのか、それは彼にはわからない。何故なら、その経緯は彼の意思によるものではなく、彼の落ち度によるものでもなく、彼の与り知らぬできごとだった。
その父、機橋善衛門は若くして財務を取り仕切りながらも清廉を以って知られた人物だった。
清廉さから人に好かれたが、それはすべての人に好かれたわけではなかった。
清廉さを望む者がいれば、それを厭う者もいる。
例えば、高村雄之助が計算を得意として成り上がったのとは対照的だった。高村雄之助はその人脈と優れた営利感覚をもって懐を肥やしていた。それを嫌うものもいたか、それを利用するものにとってはとても得難い人物だったのだろう。雄之助は凡庸な善衛門を尻目に財を築いていた。
善衛門とてそれを好ましく思ってはいなかったが、彼にできることはなかった。
それよりも切実な問題は、妻との間に子宝が恵まれていなかったことだ。彼はやがて、それを憂いて側妻を置いた。
そうして産まれた機橋家の長男ではあったが、皮肉なことにその直後正妻が身ごもった。悪い女ではなかったが、やはり感じるところはあったのだろう。側室に対する当たり方はきつくなった。
正室に男子が生まれれば、側室の子に家督を渡すわけにはいかない。年齢が上の長男は「弟」となり、産まれたばかりの「兄」の下につくことになった。
その後正妻が二人目を身篭ったことで、妾腹の子の立場は完全になくなった。
そのころ、善衛門は、同僚高村雄之助から相談を受けた。
当時、高村家もまた、子供に恵まれていなかったのだ。
身の置き場のなくなるであろう、自分の側室の子。
その将来を考えれば、子を望む家に預けることは間違いだとはいえない。まして相手は格式こそ劣るものの同僚の中ではもっとも財を成している家だ。子供の将来を考えるうえで理想的な相手だとも言えた。
そのため、機橋善衛門は、側室の長男を養子に出すことに決めた。
機橋家妾腹の長男善次郎は、高村家の養子となった。
だが、運が悪かったのだろう。
今度は、高村雄之助の妻が身ごもったのだ。
実子ができたら、不要になった養子は「返す」ことができる。この場合、「返される」本人の意思など、最初から考慮されることはなかった。 養子に「付属」する持参金さえ返せばそれも可能なのだ。
だが、高村雄之助は機橋家との繋がりを維持したがった。「不要」な次男を返される機橋から不興を買うこと怖れ、雄之助は善次郎を預かり続けた。
とはいえ、実子ができた以上、他人の子に家督を譲ると言う選択肢は雄之助にもなかった。
彼は今までどおりの穏やかな態度で養子に接し続けた。それだけで、彼の人間性を非難する意見はなかった。
ただ、穏やかな態度ではあったが、どうしてもその心は実子に向かっていた。それもまた、非難されることではないのかもしれない。
唯一の「希望」は高村家の正妻が、死産でもしてくれることだったが、彼女は元気な赤ん坊「晋輔」を無事に出産した。
それが、機橋善衛門に最初の子善次郎が産まれてから、高村家に長男が生まれるまでに起きたことだ。
そのため、機橋家の本来の長男は自らを望まれていない者、と意識した。
たまに会う母親は、ことあるごとに彼に謝った。
謝りつづける母親の下で、側室の子は行き場をなくした。
彼は悪くなかった。
だから誰も彼を責めたりはしない。
だからといって、誰も彼を受け入れなかった。
誰も彼を望まなかった。
彼はそこにいて。
誰も彼を望まなかったのだ。
ある日、彼は気づいた。
「誰も俺を見ていない」
そのことに気づいたが、怒りは感じなかった。
ただ、途方に暮れ、静かに世界を憎悪しただけだった。
彼の鬱屈は周囲にも理解された。
中には同情する者もいたのだろう。
だからといって、彼の境遇が改善されるはずもない。
そもそもこの世界で嫡子となれる者よりなれないものの方が多いのだ。
武家の次男、三男など大抵は生涯独り身で暮らすしかない。まして妾腹の子など、嫡子が生きていれば、この武家世界においては何の存在意義もない。
養子として出されたのに身の置き場がなくなる、ということはそうあることでもなかったが、それでも同様の事例が皆無というわけでなはい。鬱屈しているのは彼だけではないのだ。彼だけがひねくれる贅沢を許されるはずもなかった。
だから彼は静かに鬱屈し、仮初の立場を失う恐怖から苛立ちを内側に隠したまま日々をすごした。
そんなある日、彼は一匹の犬に噛まれた。
大きな犬だった。
通りを行く者は皆、その大きさに怯え、距離をとった。
その大きさは犬が鍛えたゆえの体ではないだろう。
ただ大きいと言うだけで、他のものは道を譲る。
その姿は、血の濃さに胡坐をかく連中を想起させた。
むしゃくしゃした。
だから、彼は握っていた棒で打った。
犬は逃げなかった。
犬は怒るのだと彼は知った。
犬が唸る。
頭を落とし、しかし、視線は落とさず、彼を睨み据える。
そして。
犬は猛然と飛び掛ってきた。
顔を守るために反射的に突き出した腕に、鋭い牙が突き刺さった。
あまりの痛みに彼は悲鳴をあげる。
突き出した腕は確かに彼の頭部を守ったが、だからといってその痛みは許容しうるものではなかった。
悲鳴をあげ、彼は腕を引く。
だが、引こうとすると犬の牙は余計に深く刺さるばかりだった。犬は足で踏ん張り、引くのだ。牙は更に刺さる。犬は彼の腕を食いちぎろうと顔をゆすり、体を揺すった。
彼は泣きながら、懇願するように犬の顔を見た。
犬は、彼を睨んでいた。
犬は彼を見つめていた。
犬の目に映る彼は怯えていた。
犬は笑わない。
彼を咬んだ牙の間から唾液を垂れ流しながら、彼を睨み続ける。
彼は怯えた。
彼は泣いた。
彼は自らの浅慮を後悔し、犬に慈悲を請うた。
もちろん、すべては泣き声で表現された。
彼は泣きながら腕を振るう。
犬は離れない。
犬は離れられないのだ。
牙は犬の最大の武器であり、同時に咬んでいる間は自らを拘束してしまう弱点でもあったのだ。
彼は泣きながら、膝を地につき、その二の腕を地面に押し付けた。
犬の目に動揺が走る。
彼は空いている右手で犬の首を掴む。握る。地面に押し付ける。
犬が口を開いた。
だが、腕は抜けない。
もはや、そいつが咥えこんだ肉の棒は逆にその口に押し入れられ、犬の頭を地面に押し付けているのだ。
犬が吠える。
だが、その音は高く、弱い。
彼は地面に膝を着き、更に腹をつけて、犬にのしかかっていた。
その目ははっきりと恐怖に染まり、彼を見つめていた。
瞬間、そのことに気づいた。
こいつは、俺を見ている。
彼は、そのことに震えるような悦びを感じた。
俺を見ている。俺だけを見ている。そうして、ひたすら俺の許しを請うている。
怖くて、俺から目を話すことが出来ないんだ。
彼は笑っていた。そして気づく。彼は勃起していた。
く、く、く。
勝手に唇から笑い声が零れる。
くくくっ。
自分が異様な笑い声を上げていることがわかる。
だが、犬の首を絞める腕からは力が抜けない。
動揺と恐怖に、犬が引き攣るような泣き声をあげる。
もう犬は完全に萎縮していた。
彼を殺すことなど考えることもできず、苦痛に耐えながら彼の寛恕を請おうとしている。
彼は少し力を抜き、犬の首を簡単にへし折らぬように加減した。
そしてその目がまっすぐに彼の目を見つめるように誘導した。
くかかかかっ。
笑っている。
彼は笑っている。
やがて、犬はべろを突き出し、べろの隙間から泡を吹き出した。そして、彼から視線を外すことができぬまま死んだ。彼はその時間が少しでも延びるように調整し、その時間を楽しんだ。
犬が死んだとき、彼は寂寥感を感じた。
終わってしまったことが寂しく、つまらなかった。
茫洋として立ち上がる彼を、周囲の大人たちが気味悪そうに見ていたが、彼は気にしなかった。
善次郎少年は人生を渡るための舵を見つけた。
何者にも求められずとも、誰にでも自分を認めさせる方法を理解したのだ。
それは恐怖だった。
他者を恐怖させ、その意思を自分の掌で弄ぶ術を彼は身に着け始めた。
それは勝利であり、敗北だった。
彼の願望は成就し、同時に彼は挫折した。
彼は望まれることを諦めたのだ。
そして諦めると同時に、彼は自由になり、その気楽さは彼を強くした。
もはや好意を望む必要はなかった。誰かに好かれたり、気に入られたりしようと思わなければ、苦しむ必要もないのだ。
彼は顔に笑みを貼り付けるようになり、恐怖を撒き散らすことに喜びを感じられるようになった。もはや鬱屈する必要などどこにもなかった。
鬱屈する必要はなくなった。
怖れる必要はなくなった。
その後、機橋家の正妻の子二人が死んだときも、善次郎は笑っていた。増水した川から水死体が上がり、善次郎は冷たくなったふたりを声を出さずに笑った。涙で目を充血させた正室に睨まれても、彼は冷ややかに笑みを浮かべ続けた。
機橋善衛門は、高村家に善次郎の養子の解消を申し込んだ。正妻に実子がいなくなった以上、外にいる実子の「返却」を望んだのだ。
高村雄之助は嬉々として「不要」な養子を返すと同時に、娘「夏」を善次郎に嫁がせる約束を取り付けた。
善次郎は再び機橋善次郎になった。彼は笑っていた。
いつもわらうことができていた。
だから、今も笑える。
今では、死さえ考慮に値するものではなくなった。
彼はただ恐怖を抱き、それを他者に押し付けることで笑みを更に深く刻むことができるのだ
それなのに。
彼はわからない。
体が笑うことを欲し、それを叶えているのに、何故こんなにも苦しいのだ。
善次郎は体を二つに折り、痙攣する腹を抱えながら笑い続けた。
「ふっざけんじゃないわよっ」
彼の腕の中で小生意気な女が叫んでいる。
「私も斬れ。そして、あんたも死ねっ」
彼は笑った。
おかしくはなかった。
だが、笑い飛ばせばいい言葉のはずだった。
なのに。
苦しい。
善次郎は体が痙攣するのを感じた。
胸の痛みに体を二つに折る。痙攣する体から出る声は、自分でも笑い声にしか聞こえない。
いや、笑っているのだ。
彼は笑っている。
実際ここには笑うべきものがある。
絶望があるのだ。
彼には手の届かないものがあり、それは恐怖を与えるだけでは壊れない。彼の手の中に堕ちてきて、慈悲も寛恕も求めようとしないのだ。
その言葉は彼に久しぶりの絶望を与えた。
そのことに彼は怒り、苦痛に満ちて嗤い続けた
すみません。
この話で悩んでいて投稿が遅くなりました。
この話をどこに挟むか。
あるいはそもそも入れないか。
この話において作者は善次郎に「ひたすら悪い男」という役を与えましたので、過去話など邪魔なだけかも、とも思ったのです。
話のリズムも悪くなるし。
投稿のリズムも遅くなるし。
でも、これが一番落ち着くかな、とこのようにしてみましたが、悩んだ割にヘマが多いったら……。
ご意見・ご感想・ご鞭撻などいただけたら幸いです。




