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103/121

103.対決 5

本日、3話投稿する予定です。(予約投稿で一時間おきに)

よろしくお願いします。

 ふっざけんじゃないわよ。


 恋歌の叫んだ悪態は、静まり返った桜泉楼に響き渡った。きっととなりの遊女屋にまで聞こえているだろう。

 

 だから、反射的に恋歌は声を落とす。

 さすがに太夫格の女が街全体にまで響き渡るような怒声を張り上げるのは格好悪いと感じたのだ。

 こんなときでも太夫の立場とか、格好なんてものを考える自分をほんの少し嫌悪する。

 だから、一息つく。軽く息を整える。

 それからほんの少し声を落ち着けて怒りをぶつけることにする。


「ふざけないでよ。晋輔、言ったじゃない。こいつを殺してくれるって。必ずこいつを殺すって」

「……っ」

 恋歌の糾弾に晋輔は押し黙る。それはやはり、真面目な晋輔にとっては指摘されて痛いところだったらしい。息を呑み、彼は言葉を失う。

 だが、一度視線を落とし、失った言葉を廊下の床から探し当てたとき、紡がれた言葉にはやはり力を取り戻せていなかった。

「……すまん。わしは、その約束を守れそうにない」

「じゃあ、美雪はどうなるの。あんたが死んだら美雪はどうなるのよ」

「……」


「おお、あの小娘かあ」

 善次郎はうっすらと笑う。

「あのくそ生意気な小娘。あいつは本当に生意気な奴だ」


 それは恋歌には美雪の命がまだ失われていない証左として聞こえた。

 心が明るくなり、思わず破顔しそうになり、必死で顔を引き締める。今は笑顔を浮かべている状況じゃない。

 昨夜から唯一の吉報に喜びを露わにする事もなく、恋歌は高村晋輔にこれ以上なく真剣な面持ちで言葉を続ける。 

「あんたは私に惚れたんでしょ?美雪は私の一番の友達だよ」

「そうだ。だが、わしは……」

「よく考えて。あんたの選ぼうとしている結末がどんなものか。あんたは本当にわかってる?」

 高村晋輔の声をさえぎり、恋歌は問いかけ、その答えを自分で並べたてた。

「あんたは死ぬ。美雪は死ぬ。私は弄ばれて殺される。それがあんたの望みなの?あんたが見ていないところでなら、私や美雪がどうなろうと構わないってわけ?ふざけんじゃないわよ」

 恋歌は吐き捨てる。

「何、ひとりで諦めてんのよ」

 恋歌は罵る。

「なんで、そんなに清清しい顔しているのよっ」

 恋歌は若侍を糾弾する。


「そう責めてやるな」

 そう言って高村晋輔を擁護したのは、善次郎だった。この鬼は恋歌の首に腕を回しながら、恋歌に好き放題を言わせて楽しんでいる。

「こいつはお前を助けようとしているだけだ。あまり責めては可哀想だ」

 もちろん、それは善次郎にとってはからかっているつもりだったのだろう。この男が本当に高村晋輔に同情するはずがない。

 無力な恋歌たちを嘲っているつもりだったのだ。

 恋歌は叩きつけるように答えた。


「そんなこと、あんたに言われなくたってわかってる」


 善次郎は一瞬だけ鼻白む。


「こいつは私のことしか考えていない。だから、腹が立っているのよ」


 善次郎の顔から、表情が抜け落ちる。

 嘲笑が影を潜め、死相に近い無表情さで高村晋輔を振り返った。

「下がれ」

 善次郎は命じる。

「それともこいつを殺すか?」

「それはダメだ」

「じゃあ、お前が死ぬしかない。俺が恋歌を殺すよりも早くお前が俺を殺す方法はない。どうせ雨戸は倒れないのだから」

 善次郎は酷薄な笑みを浮かべて言った。すべてを見透かしたような言い方だった。

 晋輔は反射的に反駁する。

「そんなことは……」

「あるさ。あるとも。そうだろう?お前が直したんだ」

「……っ」

 晋輔は表情を変えなかった。

 だが、それでもその視線が厳しいものになったのは恋歌にもわかった。恋歌はそれを責めない。恋歌自身ははっきりと驚きを表情に出してしまっていたからだ。

 善次郎は愉快そうに、その恋歌を見下ろして笑う。

「知っているとも。春風から聞いたからな。血を吸ったときに、全部゛聞いた゛のさ」

 春風が善次郎に話した?

 あるいは話してはいないのか。聞く、とは言葉どおりの意味ではないのかもしれない。血を吸うことで相手の記憶まで吸収できるのか。

 それは恋歌には推測するしかない。

 ただ、ひとつだけはっきりしていることは、善次郎は高村晋輔が雨戸の鴨居を直したことを知っているということだ。

 ハッタリはきかない。

 交渉はできない。

 善次郎を滅ぼす手立ても、ない。


 それでも晋輔は騒がない。

 彼は静かに目を閉じ、善次郎がもたらした情報の意味を吟味していた。

 彼は騒がない。彼は驚かない。彼は既に戦うことを放棄しているのだ。

 心をへし折られ、抵抗する気力さえ失った高村晋輔にできること。

 それは、善次郎の慈悲に縋ることだけだ。


「待ってくれ」

 高村晋輔は声を上げた。

 その声は特に恐慌を来たしているようには聞こえなかった。

 彼はいつものように感情を表さぬ声で善次郎に呼びかけた。

「待ってくれ」

 晋輔はもう一度穏やかに繰り返す。

 恋歌にはその意味がわかった。

 高村晋輔が落ち着いている訳。一度は恐慌をきたしながら、今は平静を取り戻した訳。


 彼は、諦めたのだ。

 恋歌にはそれがわかった。

 高村晋輔は全力で抗った。苦手な言葉による交渉を試み、ハッタリを用いて、運よく成功することに賭けた。そして、それに失敗したのだ。

 もはや、自分も含めた皆が無事で生き延びる希望は潰えた。

 高村晋輔はその場合、優先順位を決定する。

 すべてを望みえぬのならば、一番大切なもの以外は捨ててしまう。

 恋歌はそうして望まれ、高村晋輔は自らを捨てる。そしてついでに美雪の生きる望みさえ捨てられてしまう。

 恋歌はそれを許容できない。美雪のこと。それは勿論だ。だが、それだけではない。高村晋輔がここで死んでゆくことが我慢できない。恋歌のためだなんて格好良く清清しく死んでゆくことが我慢できない。


「待つのはあんたよ」

 恋歌は晋輔を睨みつける。

 だが、高村晋輔はもう動揺しない。彼は穏やかに、けれど決然として恋歌に命じる。

「黙っていてくれ、恋歌」

「冗談じゃないわ」

「黙っていろ、恋歌」

 晋輔は繰り返す。

 だが。

 黙っている。それは恋歌にとってもっとも苦手なことだった。

「無理よ」

「無理かもしれん。だが、口を閉じていろ。口の中に布でも突っ込んでおけば、余計なことを言わないで済むだろう」

 さすがにこの言い方にはムカッと来た。恋歌は声を落として、晋輔を睨みつける。

「あんた、誰に口をきいてるの?」

「江戸から遠く離れた地方のしがない一遊女に命令している」

 高村晋輔は表情のない顔で表情のない冷たい声で答えた。

 感情のわかりにくさは初対面のときからだが、武士としてはむしろ普通の高圧的な態度を彼が取ったのは初めてだった。

 整った顔立ちの彼に真顔でやられると、それは静かな迫力を持って相手を圧倒する。初対面でやられたら恋歌も言葉を飲み込んだかもしれない。

 が、今の恋歌は、それを一笑に付す。

「私がそんな命令きくわけないじゃない」

 晋輔の人柄を知った今になって冷ややかで高圧的な態度を取ってみせられても、今更恋歌は気圧されたりしない。

 晋輔もそれがわかったのだろう。

「……そう、なのだろうな」

 諦めたように彼は溜息まじりの声で答えた。

「だが……」

「だが、じゃないっ」

 恋歌は怒鳴った。


「あんた、まさか、自分が死ぬことで女を助けるだなんて、カッコイイとでも思ってるんじゃないでしょうね」

 恋歌は怒っていた。

 腹の底から怒っていた。

 だから、考えることさえせずに、湧き上がる怒りと激情を声に乗せて言葉にして叩き付けた。

「自分だけ死んで楽になるなんて許さない。私を守るためだなんてカッコつけて死ぬなんて絶対に許さない。私はいやよ。こいつにいいように弄ばれるなんていや。鬼になるなんていや。目の前であんたが殺されるなんて、絶対に、絶対に、絶対に、いやっ」

 声が震える。視界が滲む。恋歌は再び泣いているのだ。

 悲しみ?恐怖?

 違う。

 不甲斐ない男に対する怒り、だ。

 晋輔は顔を上げている。だが、それでも動けない。

 だから、恋歌は更に声を張り上げる。


「聞いてる?聞こえてる?

私を鬼になんてするなっ。自分だけ死んでカッコつけるなっ。

命令よ。私を鬼にするなっ」


「だが……」

 それができるなら、晋輔も動いている。

 恋歌を助ける自信があるなら、最初から善次郎に屈したりしない。

 そんなことはわかってる。それでも……

「聞きなさいっ」

 恋歌は怒鳴る。

「私を鬼にするな。こいつ殺せ。それでも間に合わなかったら。私が咬まれてしまったら……」

 恋歌は絶叫した。


「私を斬れ。そして、あんたも死ねっ」


 無茶苦茶だ。

 自分で思う。

 だが、その言葉に高村晋輔は顔を上げる。

 なすべきことを見つけられずに亡羊としていた目が焦点を取り戻す。恋歌を凝視しながら息を吸う。その吸気が体の中で固化したように、高村晋輔の体に芯が通った。

 そして。


「おおっ」

 体に蓄えた吸気をたった一つの返答ですべて吐き出し、彼は叫ぶ。


 善次郎が笑い出した。

 本当に愉快そうな笑い方だった。そして同時に、空虚な笑い声だった。あまりに笑いすぎて、鬼の体から力が抜ける。

 その笑い声の意味がわからず、恋歌は逃げることも忘れて善次郎の顔を見た。

 笑っていた。

 恋歌の無茶苦茶な叫びに、何かを諦めたような、何かを捨てたような、そんな笑い声だった。傲岸不遜であるはずの鬼が、笑いたくもないことで、それでも笑い続けていた。


 高村晋輔が身を起こす。

 片膝を立て、再び強い意志のこもった視線で善次郎を射抜いた。


 同時に左手の拳を握り、右肩にまで引きつける。そして渾身の力でその拳を雨戸に叩き付ける。


 寸前、小さく呟いた声が恋歌の耳に辛うじて届いた。

「行くぞ、『高村 善次郎』」


「え?」

 恋歌は思わず晋輔と強張った善次郎の顔を見比べる。

「死ぬのだ、兄上」

 晋輔が言い直し、善次郎の笑い声が一際高く、大きくなった。


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