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102/121

102.対決 4

2014/11/14 誤字など訂正。

 高村晋輔が自らの太刀を廊下に突き立てたとき、善次郎は愉快そうに笑った。

 恋歌は赤色化した視界の中でそれを見た。

 頭蓋が破裂しそうな頭痛の中で、善次郎の笑い声を聞いた。

「そうだ。それでいい。それでいいぞ」

「恋歌をおろせ」

 晋輔は血相を変えて怒鳴る。刀を手放して自分が丸腰になったことも意に介していないみたいだ。

 ただ、恋歌にはそれはひどく遠くに聞こえる。今、彼女の頭の中にあるのは苦しさだけだ。

 その苦痛が僅かに加減されたものだとしても、恋歌にはわからない。足をばたつかせ、死に物狂いで両腕に力を込めて善次郎の腕に縋りつく。足をばたつかせ、後ろに触れた善次郎の足に自分の足を絡みつかせる。

 そうするとほんのわずかに息が通る。苦しくても、ほんのわずかに

 善次郎の足に絡みつかせた足に力を入れ、少しでも自分の体を持ち上げようとする。

 善次郎が笑っているのが聞こえる。

「おいおい、俺の股ぐらに尻を押し付けるな。おっ立っちまうだろうが」

 善次郎の笑い声が聞こえる。何かを言っているのもわかる。

 だが、今は恋歌には反発する余裕がない。


 ずり落ちてしまう体を上げようと、善次郎の足に繰り返し足を絡める。その足を下に押し出すことで、体を持ち上げようとする。善次郎の下半身に自分の尻を押し付けているかどうだなんて、考える余裕もない。

 苦しい。

 涙が出る。

 鼻水が出る。

 頭の中が熱を持って膨れ上がり、破裂してしまいそうだ。



「はやくしろっ」

 晋輔が遠くで叫んでいる。


 善次郎の声は冷静だ。

「お前は下がれ。刀から離れろ」

「わかった。わかった。わかった」

 晋輔は声を荒らげ、急に自分の刀が怖くなったみたいに自分の刀から距離をとった。

「ほら、離れたぞ。もうわしは刀に手が届かない。だから早く恋歌をおろしてやれっ」

「そこで跪け」

「わかった。わかったからっ」

 晋輔の声は自分の苦痛のように声を裏返して叫ぶ。

 その瞬間、恋歌にもはっきりとわかった。


 高村晋輔はこの鬼に屈服した。


 恋歌が本当に命を奪われそうになるのを見て、彼の心は折れた。彼の武士としての矜持は、使命感は、克己心は、すべて根元からへし折られたのだ。


「今から下りてやる。お前はそこにいろ」

「わかった。わしは動かないから」

 無様な高村晋輔を笑って、善次郎の体は床に下りる。

 同時に恋歌の足も床に着いた。

「……くはっ」

 恋歌も呼吸を取り戻す。体は勝手に咳き込んで暴れるが、それでも咽喉の中を豊かな空気が流れてゆく感覚は、恋歌に例えようもない安堵をもたらした。


「そこから動くなよ」


 善次郎は恋歌を引きずる。

 恋歌は着いてゆく。恋歌は首を絞めた冷たい腕から引き離されないように、慌てて足を動かし、善次郎についてゆく。


「一歩も動くな」

 善次郎は大またで足を踏み出す。

 廊下に突きたてられた太刀へと近づいてゆく。

「指一本動かすなよ」


 垂直に立った太刀。


 晋輔と善次郎との間にはそれが立っている。


 動くな、と言われて、晋輔は動かない。

 廊下で正座して、黙して善次郎を見つめている。


「今からお前の首を切り落とす。そうしたら、動いていいぞ」

「恋歌を自由にしてやれ」

「お前が死んだら考えてやるよ」

「……頼む」

 晋輔は目を閉じ、両手の力を抜いた。

 高村晋輔は自分の中で優先順位を決める。

 その大切なものを守るために、彼はいつでも他のものを捨ててしまう。妹の仇を討つために自分の立場を捨てた。そして、今度は旅先で知り合った遊女のために、その敵討さえ諦めてしまったのだ。


 その姿を見て、善次郎が更に哄笑する。


 恋歌は笑えない。

 高村晋輔は恋歌に惚れている。

 それはわかる。

 だが、それにしたって、ここまで簡単にすべてを投げ出すのが当然だとは、恋歌は思わない。

 何故、この若侍がここまで屈服するのか。恋歌にはわからない。

 すでに終わってしまったこの夜に、彼はとうとう恋歌に指一本触れなかった。

 この若侍の好意とは、どうしても恋歌を手に入れたいと願うほど強いものではなかったはずなのだ。

 自分のものになりえないものを、どうしてそこまで守ろうとするのか。


 混乱と困惑。何より強い苦痛に囚われて恋歌が見つめる中、高村晋輔は吐き出すように言った。


「そいつは、違う」


「何がだ」

 高村晋輔の言葉に、善次郎は愉快そうに問い返す。

「何が違うっていうんだ」

「そいつは、死なせていい奴じゃない」

「なんだ、それは」

 善次郎が嗤う。

 その意味は恋歌にでさえわかる。


 死なせていい奴がいるのか。

 死にたい奴なんて、どこにもいない。


 高村晋輔は間違えている。

 恋歌は、それだけは理解できた。

 むしろそんなことを言う高村晋輔に失望さえ感じた。

 春風の死を思い、高村晋輔に失望さえ感じた。


「誰も死にたくなんかないぞ」

 善次郎が言う。

 皮肉なことに、死者こそが正論を口にしていた。

「死にたい奴なんて、いるわけがないだろう」

「そいつは、わしらとは違う」

 高村晋輔の声が震えている。

 そして怒鳴った。


「そいつは、これから幸せになれるんだ」

 と。



「俺がお前を倒す。わしは消える。

 それともお前がわしを殺すのか?」

 晋輔は問いかけ、自分で答える。

「いいさ。それでも、いい」

 と。

「もう、どうでもいい。

 いいとも。

 それでお前がこいつをあきらめてくれるなら」

 震える声が裏返っている。

 感情に乏しいと思っていた若侍が、声を震わせ、激情に身を震わせている。

 残酷な不死者に向かって、情を説き、悪意に染まった鬼に懇願している。


「お前は恋歌が好きなのだろう?気に入ったのだろう?

 お前が殺された夜、こいつの見せた心意気は見事だった。

 いい女だと思ったのだろう?

 わかるとも。

 だったら、こいつを殺すのはやめろ。

 言葉遣いは悪くても、こいつと話すのは楽しいだろう?だったら、支配しようとはせず一緒に笑え。

 こいつは綺麗だよな。だから、鬼になんかするな。

 そのためになら、わしを殺せ。

 そうすればお前は安心だ。

 それで手を打とうじゃないか」


 それは、恋歌が聞いた高村晋輔の言葉の中でもっとも饒舌な言葉だった。この無口な若侍がこの四日間で口にした一番長く力のこもった言葉だった。

「ずいぶんとベラベラ喋るんだな」

 善次郎が笑ったが、恋歌が高村晋輔に問うた声は押し殺したようなものになった。

 

「あんたは、それで満足なの?」


「満足だとも」

 晋輔は笑う。

 善次郎も笑った。

「高村家のくそ真面目な長男が、そこまで言うとは。ずいぶんと入れ込んだものだ。だから、こいつは死なせてはいけないというわけか」

「……そうかもしれんな」

 曖昧に晋輔は頷く。

 それから、ふと晋輔は付け加える。まるで急に思いついたことであるかのように。


 もし、お前とわしがいなくなれば、と。


「わしとお前がいなくなれば、こいつには金持ちの客が付く」

「そうかもしれないな」

 善次郎も気軽に答えてみせる。

 晋輔はそれに頷く。

「もちろんそうなるとも。こんな女だ。誰も放ってはおかない。必ずどこかの男がこいつを欲しがる。いや、どこかの、じゃないな。どこの男だって欲しがるだろう。そして、そいつは、必ずこいつを幸せにしたがるだろう。

 こいつは幸せになれる。なれるんだ。

 お前が。

 いや、お前とわしさえいなければ、こいつは自分の力で幸せになれるんだ。

 だから、わしはここでこいつを死なせたくないのだ」


 それは随分回りくどい表現だったかもしれない。

 その枝葉を取り払い、本音だけを残したら、もっと単純な言葉になっただろう。


 高村晋輔はこう言ったのだ。


「俺が惚れた女だ。他のどんな男だって惚れるに決まってる。どんな男だって俺と同じように、この女を幸せにしたいと願うはずだ」


 それは自分の死を受け入れようとするこの若者にとって恋の告白だった。


 善次郎が嗤う。我慢できなくなったように笑い続け、哄笑する。

 

 恋歌にはわからない。

 何が起きているのか。

 何故、高村晋輔が膝を屈するのか。

 何故、善次郎が高らかに嗤うのか。


 高村晋輔の言っている言葉が理解できない。もちろん、言葉の意味は理解できる。

 だが、一番大切なことが理解できない。

 何故、だ。

 何故、晋輔は……。


 薄ぼんやりと理解できることはある。

 高村晋輔が恋歌を抱こうとしなかった理由。

 恋歌を望まなかった理由。

 恐らくは多少なりとも好意を感じさせてくれながら、決して指一本触れようとしなかった理由。楼主に太夫の初夜を奪う許可を受けながらも、その特権を貪ろうとしなかった理由。

 彼は。

 彼は、望まないでくれていたのだ。

 彼はただ黙って、彼女を幸せにしようとしてくれているのだ。

 善次郎を倒したら、彼は自分が消え、それだけで彼女が幸せになれると信じてくれたのだ。


 それでも、恋歌にはわからない。

 何故、高村晋輔はこんなにも強く思うのだ。

 何故、高村晋輔はこんな自分にここまで。

 恋歌は自信がある。

 自分は美人だ。綺麗だ。可愛い。

 だけど、その中身はそんなに自慢できるようなものではない。

 遣り手には好かれていなかった。楼主には呆れられていた。春風には憎悪された。綾羽だって、自分を怖れているところがあった。


 だから、恋歌にはわからない。


 何故、自分がこんなに。

 何故、自分がこんなにも、心を揺らしているのか。

 何故、こんなに自分の目から涙が溢れ出すのか。

 役に立たない涙。


 馬鹿みたいに流れる涙。


 馬鹿みたいに。

 馬鹿みたいに。


 桜泉楼の元・太夫、恋歌は馬鹿みたいに泣いていた。


 そして。

 だからこそ。

「ふっざけんじゃないわよ」

 恋歌は泣きながら、高村晋輔を心の底から罵った。

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