100.対決 2
高村晋輔は、恋歌を人質にとられて窮地に陥っている。どうやら、高良晋輔はやはり自分のことを好いてくれているらしい。
状況はともかく、晋輔の心情は、恋歌には朗報だった。
だからこそ、晋輔は青ざめている。怯えている。
脅かされているのが自分の命ではなく、恋歌の命であることが明らかにされたから。
晋輔の優しさは身に沁みていたし、今や彼の好意も疑いない。
だが、ここで高村晋輔に心を折られても恋歌には喜べない。
イライラした。
ひどくイライラした。
だから、善次郎に視線を向ける。その視線は善次郎のものとぶつかることはなかった。
「うるせえんだよ」
善次郎はまた、何事か呟いていた。
「うるせえぞ。これからが面白れぇんじゃねえか」
それはまるで、ここにいない誰かと言い争っているみたいだった。
だが、恋歌はそれには構わず、自分を羽交い絞めにする男を糾弾する。それは半分は、善次郎ではなく高村晋輔に聞かせるためのものだったから。
「どっちにしたってあんたは私を殺すんだわ。今は晋輔が怖いかもしれないけど、その晋輔が死んだら私を守るものはなくなる」
「……それでもお前を殺しはしないかもしれないぞ」
恋歌の指摘に、善次郎は視線と意識を恋歌に戻して答えた。
だが、その弁明は恋歌には噴飯ものだ。
「かもしれない?どうせあんたには、私のことを助ける気なんてない。これっぽっちもない。だから、あんたは私を助けるって空約束さえ出来ないんだよ」
「そうかもしれんな」
善次郎は頷く。
面白そうに。
すべてが瑣末に過ぎないとでも思っているかのように。
そのやり取りを聞いて高村晋輔が目を剥くが、善次郎はそのことにも興味を示さない。
だから、問題を丸投げするかのように、善次郎は晋輔に声をかけた。
「この娘、どうする?」
「……手を出すな」
晋輔は答える。
その返答に善次郎は驚かなかった。恋歌もだ。
それは当たり前の答えだった。人質を取られた側が取った側に望む当然の要求。その要求をしないくらいなら、そもそも人質を取ることに意味はない。だから勿論、その要求に対する回答も当たり前のものになる。
「だったら、刀を捨てろ」
「駄目よ、捨てちゃ」
恋歌は意識して平坦な声で晋輔に命じる。
「……だが…」
晋輔は動けない。
晋輔は苦悩している。
平静を装っていたとしても、それはあまりに下手くそな演技だった。
これでは命懸けで駆け引きをしている相手を騙せるはずがない。
恋歌はそっと背後に視線をやる。
そのとき善次郎が顔をしかめ、背けた。体の重心を後ろにずらし、顔の位置をずらした。
同時に恋歌の目に小さな光が入る。
そのとき、ようやく恋歌は気づいた。
本当に、ようやく、だ。
何故、今まではっきりと意識できなかったのだろう。
朝日が昇っている。
雨戸に開いた小さな穴からいくつもの光が長い針のように鋭く暗闇の中を貫いている。
外はもう朝なのだ。
幾条もの細い筋が、雨戸の内側の暗闇を貫き、白い光が微かに屋内を照らしている。
気がつくと、暗闇は僅かに明るんでいた。
そうだ。
外はもう朝なのだ。
この雨戸の外にある光を浴びせれば、善次郎は死ぬ……はずだ。
恋歌は晋輔に目で雨戸に注意を向けるように晋輔に促す。
高村晋輔は、大きく表情を揺らさない。
ただ、彼は一度強く目を閉じることで、恋歌に頷く代わりに理解を示した。
そして、反撃に転じる。
「なあ、善次郎」
「なんだ」
高村晋輔はいつものように表情の乏しい顔で一歩踏み出す。
いつものように。
喜怒哀楽のわかりにくいその顔で。
「お前、気づいているか?」
「……なにを」
善次郎が笑う。
恋歌の肩口に顎を乗せ、善次郎は涎を垂れ流しながら笑っている。その善次郎に、晋輔は挑発的な笑みを向ける。
「もう、その外は朝だぞ」
と晋輔は雨戸に手をかけ……ようとして止める。
触れる寸前で、その手を止める。
「そのようだな」
善次郎は笑っている。
もちろん、彼にもわかっている。
気づかないはずがないのだろう。
その表情が演技なのか本心なのか、恋歌にはわからない。
そもそも、善次郎の顔は見えない。肩に乗っている男の顔を振り返ってまじまじと見つめる余裕もない。
その顔を正面から見据える晋輔は、ゆっくりと念を押すように言葉を続ける。
「知っているだろう?ここの雨戸の桟はひどく傷んでいる。一昨日にお前も見たはずだ。わしがこの手で押せば、雨戸は倒れる。」
「その一枚が倒れたところで、俺のところまで光は届かない。お前はそこで一人で日向ぼっこでもしていればいいさ」
「いや、一枚だけではない。一昨日と同じだ。この一枚が倒れれば、隣の一枚も倒れる。そして次々と倒れてゆくだろう。そうなれば外の光は次々と中に差し込み、お前は死ぬ」
「……そうだなあ」
善次郎はそれを否定しない。
「そうなれば俺は死ぬのだろうよ」
「それならば引け」
と晋輔は言う。
「死にたくなければ、恋歌をおいて引くんだ」
高村晋輔は余裕を示している。
自分が強い立場にあることを示す余裕の表情で、彼は善次郎を睥睨している。
彼の顔は、喜怒哀楽がわかりにくい。
普通ならわかりにくいその顔。
他の者にはわからないであろう、その乏しい表情。
だが、恋歌にはわかった。
彼は怯えていた。
無表情を装い。
余裕があるふりをして。
この表情の乏しい若者の顔を、ここ数日、恋歌は誰よりも見てきた。
だから、彼の緊張がわかる。彼の恐怖がわかる。
彼は賭けをしようとしているのだ。
分の悪い賭けを。
何の手札もない状況でハッタリだけを武器に、彼は善次郎を制そうとしている。
恋歌はそのことを理解する。
そして思う。
春風のときもそうだった。
善次郎というこの傲慢な男は、人をいたぶるのが好きで、あまりに簡単に人を追い詰める。そしてあまりに容赦なく人を追い詰めすぎるのだ。窮鼠が猫を噛むように、この男は簡単に人に捨て身の反撃を決意させる。
だが、だからといって窮鼠と化した側が必ず勝てるほど、善次郎は優しい猫でありえない。口下手な高村晋輔がハッタリだけで善次郎相手に勝負を挑むのは、あまりにも分が悪かった。
恋歌は、高村晋輔のやろうとしていることを推測し、失敗した場合失われるのが自分の命であることを理解する。だから、恋歌も晋輔の怯えを共感し、納得し、その上で彼が怯えてくれているという事実に微かに悦ぶ。
この若者が恋歌の命をそれほどに真剣に考えてくれているという事実に、恋歌はほんの少し慰められる。
自分の生命の危機への怯えを忘れられるほどではないにせよ。
その恋歌の感情にどこまで気づいているのか、生真面目な若侍は無表情を取り繕いながら言葉を続ける。
「もし、お前が恋歌から手を引き、二度と彼女にかかわらないことを約束して去るのなら、わしはもうお前を追うことをやめよう。お前がわしを怯えるのなら、いいだろう、わしは約束する。そいつをここで放してくれたら、わしは二度とお前の前には現われない」
だが、交渉下手な晋輔だ。
いつも無表情なくせに、こんなときだけ目が気持ちを語りすぎる。
彼は怯えている。
本当は懇願したいのだ。
それが恋歌にはわかる。恋歌にさえわかってしまう。
だから、善次郎は笑みを深くする。
「お前は真面目な男だ」
「そうとも。わしは嘘はつかない」
晋輔は胸を張る。
けれど。
「お前は嘘がつけない」
晋輔の言葉を善次郎は弄ぶ。
高村晋輔は沈黙する。
善次郎は、晋輔の言葉を弄び、それから端的に命じる。
「剣を捨てろ」と。




