1. 恋歌
寛保2年4月27日 長崎。
「目を閉じてな、千鳥」
言われて、彼女は目を閉じた。
そうして彼女を、千鳥を包む世界のすべてを終りにした。
彼女が見てきたもの。
彼女。
千鳥と呼ばれたカムロ(見習い遊女)として見てきたもの。
そうして暗闇の中に引きこもってからどれくらい経っただろう。白粉を塗られ、眉を描かれた。そして今は唇に紅を塗られている。
唇を紅く染める細筆の感触がくすぐったい。
くすぐったくて笑ってしまいそうになる。
「動くなよ。動くと福笑いにしちまうぞ」
姉女郎の楓が、からかう様に言う。
「もっとも、目を開けて最初に見るのが自分の顔に乗った落書きでよければ、好きなだけ動いてみな」
自分の顔を見てみたかった。
けれど鏡を見せてはもらえない。
「いいから、黙って任せておきなよ」
そう言って、楓は笑うだけだ。ころころと鈴が鳴るような笑い声。
そう挑発する楓は、いつものあのにやにや笑いを浮かべているのだろう。それを想像して、千鳥は余計に笑いそうになった。色々と緊張する理由があるはずなのに、あまり緊張しないで済む。
言葉遣いがきれいだとは言えない楓だったが、目下のものには優しく、男女問わず人気のある姉女郎だった。
おかげで、湧き上がる笑みを堪えているうちに時間はたちまち過ぎ去った。
やがて廊下で床板が軋み始めた。
誰かがやってくる。
足音は千鳥の部屋の前で止まり、障子が滑る音がした。
その足音が誰か、目を開くまでもなく千鳥はわかっていた。
「ほう、うまく出来てるじゃないか」
もちろん、それは楼主の声だった。
「そりゃそうです。あたしが化粧してやったんですから」
楓が笑う。
「うむ。丸山一番の名を他の揚屋に譲るわけにはいかん」
楼主の答えも満足げだった。
見なくてもわかる。
彼は小刻みに頷いている。組み合わせた両の指を奇妙に動かしながら。
それが彼の癖だった。廓の誰もが知る癖だった。
彼は、自分で意識することさえなく、金を数えているのだ。
「嬉しいだろう。今日からはお前も金を稼げる。今日からは無駄飯ぐらいとして過ごさなくていいんだ」
喜んでいいぞ、と楼主は真顔で恋歌に「許可」する。
もちろん、千鳥は目を閉じている。それでも、目を開かなくてもわかる。楼主は真顔で言ったに決まってる。彼は千鳥が本気でそれを望んでいると信じているのだ。
「そろそろ善次郎様がお見えになる時間だ。いつでも迎えられるようにしておけ、千鳥」
「千鳥じゃありませんよ」
楓が穏やかな微笑を声に乗せながら、楼主に言った。
「もう千鳥じゃないんです」
「そうだな」
遊女たちから反論されるのを嫌う楼主も、今日は声に笑みを含ませたままだった。
「もう、千鳥ではないな」
「いいよ」
声をかけられ、彼女は眼を開く。
目の前に美しい女がいた。それが彼女が「彼女」として最初に見たものだった。
白粉と口紅で強い印象を与える。けれど、遊女なら誰もが整える化粧の下の美しさは、同じ化粧をしていても彼女の美しさを際立たせていた。
そしてもちろん、美貌の女は鏡の中にいた。
「きれい」
彼女は呟く。
「だから、当たり前だって。あたしが化粧してやったんだから」
楓が笑う。
「ありがとう。でも、ホントにきれい」
「おお。今日から丸山一番はお前だ。桜泉楼の名を汚すなよ、千鳥」
そう釘を刺す楼主に呆れたように楓が言った。
「だからぁ、もう千鳥じゃないですよ」
「おお、そうだった。そうだった」
慌てて楼主が言い直す。
千鳥という名はカムロのもの。
楓という遊女についた二人のカムロ。
一人は波路。先日、突き出しを終えたばかりの新人遊女。
そしてもう一人が千鳥だった。
千鳥も16歳になった。一人前の遊女になる。千鳥の名も終わり、新しい遊女としての名で呼ばれるようになる。彼女の名は既に決まっていた。それを呼ばなかったのは、桜泉楼のでのシキタリに従ったからだ。
カムロの時代を終え、新しい遊女となったとき、彼女の新しい名を最初に呼ぶのは楼主なのだ。楼主は軽く咳払いをすると、彼女を新しい名で呼んだ。
「桜泉楼、いや丸山一番の遊女として金を稼げ」
その後に続けられたのが彼女の新しい名前だった。
「いいな?恋歌」
楼主は彼女をそう呼んだ。