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掌編小説集

濁ったまなざし

掲載日:2026/02/02

 濁ったまなざし


 あなたは死んだ、けれどもそれがすぐに理解できるほど、私は器用じゃなかった。シーツに包まれた身体を撫でながら、まだ少しだけあたたかかった足の裏に触れたとき、私はあなたの死よりも先に、私の手が冷えていることに気づいた。あなたの足は冷たくなりかけていたのに、なぜか踵のあたりはやわらかくて、それがどうしようもなく現実で、あなたがもう戻らないということよりも、「いまだけは、まだ触れる」ということの方がずっと切実だった。頬はすでに凍っていて、私は自分の指があなたの皮膚の上を滑る音を聴いた。それは生きていたときの肌の音じゃなかった。吸いつかず、弾力がなく、ただ薄い膜が張られたような不在の質感。それでも私は触れつづけた。指をあごに滑らせた。口がわずかに開いていて、たぶん最後に呼吸を奪われたときの癖がそのまま残っている。私はそっと指で唇を閉じてやった。冷たい。ぴたりと硬い。思ったより早く、あなたは死後硬直を始めていた。愛したあなたが、いま、私の手の中で、生きていたという証拠ではなく、死んだという物理的事実として変質しつつある。


 あなたの髪は整然としたままだった。私が指で撫でたからでも、美容師が整えたからでもなく、ただ、死によってすべての流動性が停止したから。動かなくなったというより、動かさないことで保存されたような、そういう美しさだった。私が好きだった左側の分け目もそのままで、あなたが眉をひそめて笑ったときに動いた前髪も、もう絶対に乱れない。私は、額から頭頂に向けて指を這わせた。毛髪はまるで感情のない絹のようだった。生きているときに何度も撫でたはずなのに、こんなふうに丁寧に触れたことがあっただろうかと思った。まぶたの上にも指を添えた。皮膚の下に確かな球体がある。動かない眼球、動けないあなた。私は迷いながらも、ゆっくりとそのまぶたを開けた。乾ききった睫毛が、音もなく皮膚から剥がれる。眼球は白濁していた。光を受けても反射せず、死がもっとも濃く染みついた器官が、いま目の前にある。瞬きをしない、見つめ返してこないその目を、私はただ見つめた。そこには意思も反応もなく、もうなにも映さないことで永遠の静止に至った眼。私はそこに、かつて一度も見たことのなかったあなたの完全なかたちを見出した。一切の選択も、一切の語りも終わり切った場所で、ようやくわたしは、あなたと真正面から出会えた。


 もう、あなたは誰をも見ていなかった。けれどその白く濁った眼球が、なぜか私には、これまで見たどんなあなたの表情よりも、ずっと「本物のあなた」に見えてしかたがなかった。もう何も考えず、何も語らず、何も演じない、ただそこに在ることだけに徹したあなた。まなざしの奥に隠していたものがすべて消え失せ、ただ、あなたの核のようなものだけが、剥き出しのまま、そこに露出している気がした。私が何度も愛したあなたの顔ではなかったけれど、私がこれまで、どこかでずっと探しつづけていた「本物のあなた」は、いま、このまなざしにこそ宿っていた。生のあいだに触れたすべてのあなたが仮象だったのだと思えるほど、この瞳だけが、もう何も演じていないあなたのすべてだった。声も、呼吸も、心臓の鼓動も、すべてを失い、だからこそ、かえってすべてがその瞳に凝縮されているようだった。


 私はあなたの胸に触れ、腹に触れ、骨の形をたどった。腕を、太腿を、そこにあるほくろの跡を、そっと撫でた。関節が固まりつつあるのが、手のひら越しに伝わってくる。愛したあなたの身体が、もう誰のものにもならない、誰にも触れられないものになっていく。その過程を、私は誰よりも早く、誰よりも深く触れていたいと思った。そして、最後に、私はあなたの下腹部に触れた。あなたがまだ生きていた頃、何度も私を求めた場所。私が何度も愛した、あなたの中心。今そこは、死のなかにあってなお硬さを保っていた。冷たく、そして確かに、張りつめていた。私はゆっくりとその陰茎に指を添えた。筋張っていて、肉が締まっていて、生きていたときよりも重みがある気がした。中身が詰まっているというより、死によって中身が固定されたような、そういう異様な充足。私はそれに、ほんの少しだけ指を巻いた。動かさないで、ただその輪郭を指に覚えさせるだけ。死後硬直。それは、時間が肉体に残した最後の熱だと思った。あなたはもう何も感じないけれど、私は感じる。あなたが死ぬまで私に向けていたすべての欲望が、そこにまだ残っている気がした。私はそれを、撫でた。ゆっくり、静かに、あなたの白く濁った瞳の色を伺いながら、かつての記憶を順に触れながら読み上げるように。でも指を動かしても、あなたはもう濡れもせず、膨らみもせず、収縮もしない。あなたの身体は、ただ硬くあるだけだった。けれど、私はその硬さに、ただ静かに愛を感じていた。あなたの欲望はもうどこにも向かっていかない、もう誰にも応えない、その沈黙のなかで、ようやく私はあなたを抱きしめられる気がした。愛していた。この死の中で。この冷たさの中で。生きているあいだには決して触れることのできなかった深さに、今、私は手を浸している。もうぬくもりはいらなかった。言葉も、視線も、返事も、いらなかった。ただこのかたち、このかたさ、この重さ。それだけが、かわらず私を愛で満たしていった。


 そして私は、身体をかがめて、あなたのそれに唇を寄せた。触れただけで冷たかった。もうあのときの熱はどこにもなくて、どれだけ近づいても、あなたはわたしの気配すら受け取らない。皮膚の表面にだけ、わたしの息が霧のように張りつくけれど、それがあなたの感覚に届いているという錯覚はとうになかった。それでも私は、唇をすべらせた。塩気はなかった。かつてあなたの身体にしみついていた汗や熱や、湿った欲望の名残はすっかり抜け落ちて、ただ、あなたそのものの味が残されていた。味、と呼ぶにはあまりに希薄で、けれど確かにそこにある、無音のような、無臭のような、あまりにも純粋すぎて逆に抗えない密度。空気に溶けきらずに残る、あなたの質感。私はそれを口の中で転がすように、舌でたしかめるように、わたしの熱でそっと包んだ。あなたの形は沈黙のままわたしの中にとどまり、わたしの熱だけがそこにしずかに吸い寄せられて、跳ね返される。どれだけ口内が濡れていても、あなたは濡れない。あなたは冷たく、重く、まったく揺るがず、ただ入っているだけだった。生きていたときは、こんなふうにわたしの中に黙って存在し続けることなんてできなかった。いつも動き、声を発し、わたしを振り回していたのに。今、わたしのなかにあるあなたは、完璧に静かだった。わたしの熱はわたしのものとして閉じられ、あなたの温度はもう凍ってしまっている。


 わたしは口を離した。粘膜が少しだけついて、薄く糸を引いた。あなたはもう、何も返してこない。その沈黙の中にあって、私だけが濡れていることを、あなたは知らない。私の中に残った熱は、誰にも伝えられず、ただ、私の身体の奥底にひっそりと降り積もっていく。私は顔を上げた。あなたの白く濁った眼が、ふたたび私を見ていた。そのあなたの色のなかに、私はかつてあなたが私の体内に流し込んだものを思い出した。繰り返し、夜のなかで、息のあいまに、あなたが私に刻みこんだ、無数の熱の痕跡。そのひとつひとつが、まるでいま、あなたの眼球の底からにじみでてくるようだった。そこには、もうさっきまでのあなたは居なかった。ただ、私の中に注がれたものだけが、今度はあなたの中に溶けていた。あなたは私を見ない。私はあなたを孕んでいる。この濁った白さは、あなたではなく、私の始まりだった。



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