横浜ドックヤード、午前0時のエコバッグ
第一章:ため息はイルミネーションに溶けて
二十六歳、会社員、横浜在住。
伊達美咲のプロフィールは、それだけだ。そこには「恋に恋い焦がれている」という、最も重要な、しかし誰にも見せない一行が欠けている。
今夜も、そうだった。
横浜駅西口のネオンが滲むビルの、ありふれた個室居酒屋。会社の同期が開いた飲み会は、その役目を終えようとしていた。
「美咲、気が利くねー!」
「サンキュー!」
空になった唐揚げの皿を隅に寄せ、空いたグラスをすかさず見つけて「、何飲みます?」と笑う。美咲は、いつだって完璧な「盛り上げ役」であり、「いい人」だった 。
ただ、それだけだった。
男性陣の視線は、熱心にスマホの連絡先を交換している友人のA子と、上目遣いで「すごーい!」を連発するB子に集中している。美咲には、誰も「次は?」と聞いてこない。
「また、これだ」
心のシャッターが、ガラガラと音を立てて下りていく。
いいな、と思う人は、いつも彼女の隣の席の友人を好きになる。そして美咲は、カフェで二人の馴れ初めを聞かされながら、完璧な笑顔で「おめでとう」と言うのだ。言えてしまう自分が、大嫌いだった。
友人たちと駅で別れ、一人、桜木町方面へと歩き出す。さっきまでの喧騒が嘘のように、冬の夜気が肌を刺す。
振られてばかりの人生。
元カレたちに言われた言葉が、忘れた頃に蘇る。
「美咲はさ、ちょっとドジすぎ」
「悪気ないのはわかるけど、見ててイライラする」
そうなのだ。彼女は少し、ドジだった 。
資料の締め切りを一日間違えて(間に合ったが)真っ青になったり、デートで盛大にアイスコーヒーをこぼしたり。
世の中には、そんな「ドジ」を「守ってあげたい」と感じる男性もいるらしい 。だが、美咲が引き当てるのは、決まって彼女のドジを「鬱陶しい」と感じるタイプの男たちだった。彼らにとって、彼女の欠点は「人間味」ではなく、単なる「負担」でしかなかった 。
「恋愛に、向いていないのかな」
このまま真っ直ぐ家に帰るには、時間が早すぎる。空っぽの部屋が、美咲の孤独を増幅させるだけだ。
彼女は、まるで吸い寄せられるように、みなとみらいの光の中へ足を進めた。
「汽車道」(きしゃみち)を、ぶらぶらと歩く。ここは、派手なイルミネーションというより、水面に映る高層ビル群の夜景が、ただただ美しい場所だ 。遠くに見える屋形船の灯りが、やけに温かく見えた。
やがて、彼女の足はランドマークタワーのふもと、船のドックだった石造りの広場「ドックヤードガーデン」で止まった 。
見上げると、滝のように流れ落ちるイルミネーション 。
その光の粒の一つ一つが、自分の「いい人」としての笑顔のように、安っぽく、虚しく見えた。
「はぁ……」
美咲は、深いため息をついた。白い息は、光の中に吸い込まれ、すぐに消えた。
第二章:ぶちまけられた幸運
帰ろう。何度目かのため息の後、美咲は決めた。
ドックヤードガーデンの石段を、地上へと上り始めた、その時だった 。
「わっ!」
上から降りてきた男性の、大きな紙袋の底が、まるで意志を持ったかのように破れた。
ガサッ、という鈍い音と共に、中のものが石段を転がり落ちる。大量の書類の束、分厚い本、そして何かのデザインサンプルらしき角材。
「あ……!」
美咲は、驚きよりも先に体が動いていた。自分がよく物を落とすせいか、転がるものを拾い集めるのだけは得意だった 。
「大丈夫ですか!」
ハイヒールをものともせず、散らばった書類をかき集める。
「あー……最悪だ……」
階段の上で、男性が途方に暮れている。二十代後半だろうか。上質なコートを着た、整った顔立ちの人だった。彼は破れた紙袋を無残そうに眺めている。
「これ、持てない……」
その姿を見て、美咲は自分のトートバッグに手を突っ込んだ。
「あの、これ、よかったら使ってください」
彼女が差し出したのは、いつも不測の事態(主に自分のドジ)に備えて持ち歩いている、折り畳みのエコバッグだった。
「本当に、助かりました」
「いえ、そんな……」
「これ、お礼です。せめて、コーヒーだけでもおごらせてください」
男性――涼介と名乗った――の申し出を、美咲は断れなかった。飲み会が散々だったことも、予定が何もないことも、すべて見透かされているようだった。
涼介が「ここなら、まだ静かに話せます」と連れて行ってくれたのは、みなとみらい駅直結の横浜ベイホテル東急、ラウンジ「ソマーハウス」だった 。こんな場所に、男の人と二人で入るのは初めてだった。
窓の外には、夜景の主役である大観覧車が光り輝いている 。
「ごめんなさい、俺、間抜けで。まさか底が抜けるとは」
「いえ! 私もよくやるので」
「伊達さん、でしたっけ。美咲さん」
「はい」
涼介は、二十八歳の会社員だと言った。彼には、人を安心させる不思議な力があった。とても話しやすく、美咲は、つい先ほどの飲み会の愚痴をこぼしてしまった。
「……それで、結局、私、また『いい人』で終わっちゃって。いつもこうなんです」
自嘲気味に笑う美咲に、涼介はアドバイスも同情もしなかった。ただ静かに聞いていたが、彼女が話し終えると、ふっと笑った。
「わかるよ。俺も、似たようなものだ」
「え?」
「ほら、見ての通り、袋は破くし、ドジだし」
「そういうことじゃなくて」
涼介はコーヒーカップに視線を落とした。
「みんな、俺の『中身』じゃなくて、『外側』にあるものにしか興味がない、っていうか。美咲さんとは逆かもしれないけど、結局、俺も『都合のいい人』なんだと思う」
美咲は「外見(女としての魅力)」が足りないから恋愛対象として見られない「いい人」。
彼は「外見」が良すぎるから「内面」はどうでもいいと扱われる「都合のいい人」。
二人は、本質的に「内面を正しく見てもらえない」という点で、全く同じだった。
「……なんか、すみません。変な話して」
「ううん」と美咲は首を振った。「私、今夜、涼介さんに会えてよかったです」
連絡先を交換して、二人はラウンジを出た。
美咲は、彼に渡したままのエコバッグのことを思い出し、冷たい夜気の中で、小さく微笑んだ。
第三章:マイペースな二人
涼介は、仕事の詳しいことを話さなかった 。
美咲も、あえて聞かなかった。
彼が実は、みなとみらいにオフィスを構える新進気鋭の建築デザイン事務所のチーフデザイナーであり、いくつかの大きな公共プロジェクトを成功させている「若手のやり手」であることなど 、美咲は知る由もなかった。
彼が感じている「クライアントの情熱に応える」プレッシャーや 、彼の「スペック」目当てで群がってくる人々への疲弊も 、美咲は知らなかった。
美咲が知っていたのは、彼が送ってくる「おはよう」のスタンプが可愛いことと、仕事終わりに電話するときの「お疲れさま」の声が優しいことだけ。
二人のやり取りは、いつもマイペースだった。
「今度、あそこのカフェのパンケーキが食べたい」
「いいね。じゃあ日曜、行くか」
涼介にとって、この「詮索しない」関係が、何よりも心地よかった。彼の肩書きや年収という重い鎧を、美咲の前では脱ぐことができた。
休日のデート。美咲は、またドジを踏んだ。
二人で歩いているとき、ガラス張りの自動ドアに気づかず、ゴン、と可愛い音を立てて額をぶつけたのだ。
「いった……!」
「美咲ちゃん!」
元カレなら、ここで「何やってんだよ」「恥ずかしい」と、盛大なため息をつかれただろう。美咲は、泣きそうになりながら謝ろうとした。
「ご、ごめん、な、さ……」
「ぷっ……あははは!」
涼介は、お腹を抱えて笑っていた。
「大丈夫か? 痛そうだけど、面白すぎる」
彼は、美咲の「完璧ではない」人間味を 、そのドジを 、心の底から愛おしいと思っていた。美咲は、赤くなった額を押さえながら、ぽかんとしていた。
怒られない。呆れられない。
ただ、笑ってくれる。
それが、どれだけ美咲を救ったことか。
ある夜、涼介が電話の向こうで深く悩んでいた。大きなコンペが近いらしく、珍しく弱音を吐いていた。
「クライアントの要望と、チームの理想が、全然かみ合わなくて……」
いつもの美咲なら、オロオロと「大変だね」「頑張って」としか言えなかっただろう。「いい人」は、的確な指摘が苦手なのだ 。
しかし、美咲は違った。
涼介が自分のドジを丸ごと受け止めてくれたように、今度は自分が彼を受け止める番だと思った。
「涼介さんは、いつもクライアントのことばかり考えてるけど」
「……うん」
「涼介さん自身は、どうしたいの?」
電話の向こうで、彼が息をのむのがわかった。
「私がドジなのを、涼介さんが『大丈夫』って言ってくれるみたいに、涼介さんが悩んでるなら、私も『大丈夫』って言いたい。涼介さんのやりたいことが、私は一番見たいよ」
それは、美咲が初めて発揮した、はっきりとした「意見」だった。
涼介は、その言葉に救われた。
彼女は、彼の「悩み」を受け止めてくれた。この対等な関係こそ、彼がずっと求めていたものだった。
「……美咲ちゃん。今度の日曜、空けておいて。大事な話がある」
その週末、赤レンガ倉庫の見えるカフェで、彼は告白した。
「俺と、付き合ってください」
美咲は、泣きながら、何度も頷いた。
第四章:羨望という名の毒
「彼氏、できたんだ」
会社のランチタイム。美咲の報告に、友人A子とB子が色めき立った。
「えー! どんな人? 写真は?」
「えっと、普通の会社員で……とても、いいひと」
美咲は、当たり障りのない答えを選んだ。本能的に、この友人たちに涼介の本当の姿を知られてはいけない、と思った。
彼女たちは、常に他人と比較し、自分が優位に立っていないと気が済まないタイプだったからだ 。
「ふーん、『いいひと』ねぇ」
A子が、値踏みするように笑う。
「よし、じゃあ今度、お互いの彼氏連れて6人で飲もうよ!」
断る間もなかった。美咲が「彼は忙しいから」と渋ると、涼介本人が「美咲ちゃんの友達なら、ぜひ会ってみたいよ」と快諾してしまったのだ。
飲み会当日。
涼介が個室のドアを開けた瞬間、A子とB子の空気が凍ったのを、美咲は見逃さなかった。
美咲から聞いていた「いいひと」という平凡なイメージとは、あまりにもかけ離れていた。洗練されたコート、知的な会話、そして何より、美咲に向ける優しい眼差し。
「美咲、あんなイケメンどこで捕まえたの?」
B子が、美咲にしか聞こえない声で囁く。
A子は、あからさまに自分の彼氏と涼介を比べている 。
飲み会は、終始、涼介への質問攻めになった。「お仕事は?」「みなとみらいによく来るんですか?」「彼女のどこが好きなの?」
事件が起きたのは、中盤、涼介が席を立った時だった。
A子が、自分の彼氏がすぐ隣にいるにも関わらず、涼介の後を追ったのだ。
「涼介さん、すごいですね。美咲にはもったいないくらい」
「……そんなことないですよ」
「あの、私、今度仕事のことで相談したいことがあって。よかったら、連絡先……」
A子がスマホを差し出した、その時。
「ごめん」
涼介の声は、先ほどまでの温かさとは違う、静かな、しかし明確な拒絶を含んでいた。
「そういうのは、彼女(美咲)を通してくれないかな」
A子の顔が、一瞬で歪んだ。
翌日の会社。A子とB子の態度は、あからさまに冷たかった。
「なに、昨日の彼氏の態度。感じ悪くない?」
「美咲に似合いの『いいひと』だと思ってたのに、違ったね」
そして、A子がとどめを刺した。
「ねぇ、美咲。いいひと、紹介してよ。彼氏、ああいうハイスペックな友達、多いでしょ?」
美咲は、言葉を失った。
「A子、彼氏、いるのに?」
「は? もっといいひとがいいに決まってるじゃん」
美咲の中で、何かが、ぷつりと切れた。
ああ、そうか。
この人たちは、ずっとこうだった。私が「いい人」として、幸せを「譲って」きたから、それが当たり前だと思っていたんだ。
涼介が最も嫌う「スペック目当て」の言葉 。その言葉を、平気で口にする友人。
美咲は、あきれて、そして、すっきりと笑った。
「ごめん。涼介さんみたいな人は、多分、私にはもったいないから、紹介できるような友達もいないの」
それは、美咲が長年続けてきた「いい人」の仮面を、自らの手で剥がした瞬間だった。
第五章:空っぽの部屋と、満たされた心
あの飲み会の一件で、二人の関係は何も変わらなかった。むしろ、試練を乗り越えたことで、絆はより一層強くなった 。
「美咲ちゃん。俺、今度引っ越すことになったんだ」
数週間後、涼介が切り出した。美咲の心臓が、小さく跳ねる。
「……だから、結婚を前提に、一緒に暮らさないか」
プロポーズだった。
二人の部屋探しが始まった 。お互いの職場への通いやすさを第一に 、間取りは、二人の時間と、それぞれの時間を両立できる2LDKを選んだ 。家事や生活費の分担も、真剣に話し合った 。その一つ一つが、未来への確かなステップに思えた。
そして、引っ越しの日。
美咲が横浜で一人暮らしを始めた部屋から、最後の荷物が運び出されていく 。
ガラン、とした部屋。
家具が置いてあった場所だけが、日焼けせずに白く残っている。
この床の上で、「恋愛に向いていない」と何度泣いただろう。恋に恋い焦がれ 、空回りし、自分を責めた。
荷物がなくなった「空っぽの部屋」は、まるで、彼女の「過去」そのものだった。
美咲は、窓から差し込む午後の光の中で、一人、静かに思った。
恋愛は、タイミングもある。焦っても、いいことはない 。
あの夜、涼介と出会った。
もし、あの出会いが一年早かったら?
A子たちの嫉妬に負け、自信を失い、「私なんかが、彼と釣り合うわけがない」と、涼介を手放していたかもしれない。
「運命の人」と結ばれるには、自分自身が、その運命を受け入れるだけの「成熟」が必要だったのだ 。
「いつか、運命の人に巡り合える」
美咲は、そう呟いた。
それは、もう「恋に恋する」少女のため息ではなく、確かな相手を見つけた大人の女性の、実感のこもった言葉だった。
カバンの中には、涼介との新しい部屋の鍵が入っている。
美咲は、静かに部屋のドアを閉めた。カチリ、と鳴った施錠の音が、過去との決別を告げる。
まっすぐ前を見て、彼女は歩き出した。
もう、ため息はつかない。
彼が待つ、新しい生活へと。




