第九話:鳴り響く警報と、残された謎
『緊急警報! 緊急警報! ダンジョン内に、規定レベルを超える高エネルギー反応を確認!』
無機質なアナウンスが、けたたましくダンジョン内に響き渡る。
健志郎の血の気が、さっと引いていく。高エネルギー反応。その原因が、自分の左腕にはめられた『影喰らい』であることは、疑いようもなかった。
(まずい、まずい、まずい!)
このままでは、ギルドの人間が調査にやってくる。ジャージ姿で、黒いガントレットをはめた中年のおっさんなど、どう考えても不審者以外の何物でもない。捕まれば、事情聴取は免れないだろう。そうなれば、この秘密の冒険も、家族との平穏な日常も、すべてが終わってしまう。
健志郎は、リーダーゴブリンが落とした革袋に未練を残しつつも、踵を返して入り口へと全力で走り出した。
疲労困憊の体に鞭を打ち、壁に肩をぶつけながら、必死に出口を目指す。左腕のガントレットが、吸収したばかりのゴブリンの『筋力』を供給してくれるおかげで、以前のような足は不思議ともつれなかった。
ゲートが近づくにつれ、外の喧騒が聞こえてくる。他の探索者たちの、慌てたような声。そして、何台もの車が急停車するような、けたたましいブレーキ音。
(げっ! もう、来ちまったのか!?)
健志郎は、ゲートを抜ける直前、通路の影に飛び込み、急いで袖をまくってガントレットを隠した。何食わぬ顔で、ただのウォーキング中に警報に驚いて逃げてきた、一般市民を装うのだ。
ゲートをくぐり、地上に出た瞬間、健志郎は息を呑んだ。
ダンジョンの入り口前には、パトランプを点灯させた数台の車両が停まり、『GUILD』のロゴが入った制服を着た職員たちが、慌ただしく走り回っている。中には、明らかに戦闘職と分かる、物々しい装備に身を包んだ探索者の姿もあった。
彼らは、ダンジョンから逃げてくる人々を誘導しながら、状況の把握に努めている。
「おい、あんた! 大丈夫か!?」
職員の一人が、息を切らして出てきた健志郎に気づき、駆け寄ってきた。
「は、はい……中で、急に警報が鳴り出したもので……」
健志郎は、必死に息切れを演じながら、一般人らしい狼狽した表情を作った。長年のサラリーマン生活で培ったポーカーフェイスが、今ほど役に立ったことはない。
「そうか、驚いただろう。怪我はないか? あんたのような一般の探索者が巻き込まれなくて、何よりだ」
職員は、健志郎のジャージ姿を見て、完全にただの運動中の市民だと判断したらしい。
「すぐにここから離れてください。これから、内部の調査に入りますので」
「は、はい!わかりました!」
健志郎は、何度も頭を下げながら、そそくさとその場を離れた。背中に突き刺さる、職員たちの緊迫した視線を感じながら、ただひたすら、自宅への道を早足で進んだ。
家にたどり着いた頃には、日はとっぷりと暮れていた。
玄関のドアを開けると、リビングからテレビの音と、家族の楽しそうな笑い声が聞こえてくる。そのあまりに平和な光景に、健志郎は、自分がほんの数十分前まで死闘を繰り広げていたことが、信じられない。
「おかえりなさい、あなた。あら、今日は随分と汗だくじゃない。そんなに頑張ったの?」
キッチンから顔を出した友里が、少し驚いたように言った。
「あ、ああ……今日は、ちょっとペースを上げてみたら、思ったよりきつくてな……」
「もう、無茶しちゃだめよ。シャワー浴びてきなさい。夕飯、できてるわよ」
「おう……」
健志郎は、ふらつく足で風呂場へ向かった。シャワーを浴びながら、鏡に映った自分の体を見る。腹の肉は、まだ健在だ。しかし、その体にはゴブリンのリーダーに殴られた脇腹の鈍い痛みや、短剣にかすめられた頬のヒリヒリとした感触が、確かに残っていた。
夕食の席では、左腕をテーブルの下に隠しながら、何事もなかったかのように振る舞った。友里の作った生姜焼きは、疲れた体に染み渡るように美味しかった。凛は、学校での出来事を、珍しく楽しそうに話している。
この日常。俺が守るべき、かけがえのない宝物。
健志郎は、その温かさを噛みしめながら、同時に、それを脅かす存在になってしまった自分に、罪悪感にも似た感情を抱いていた。
食後、健志郎は自室に戻ると、ベッドに倒れ込んだ。
左腕のガントレットが、服の上からでも、確かな存在感を主張している。彼は、今日の戦いを反芻した。
シャドウ・ウィップ、そして、シャドウ・クッション。
どちらも、土壇場での即興クラフトだったが、驚くほどの効果を発揮した。もっと『影』を吸収し、その特性を深く理解すれば、さらに強力で、多様な武器や道具を創り出せるはずだ。
(そうだ……)
その時、健志郎は、はっと気づいた。
(あの、革袋……!)
混乱の中で、拾うのを忘れてしまった、リーダーゴブリンのドロップアイテム。
知性を持っていた、あのリーダーが、大事に持っていた袋だ。中には、一体何が入っていたのだろうか。ただのガラクタか、それとも、何か特別なアイテムか。あるいは、このダンジョンの謎を解く、手がかりになるようなものが……。
今となっては、確かめようがない。
そして、今日の騒ぎで、桜ヶ丘ダンジョンは、しばらくの間、厳重な警戒態勢が敷かれるに違いない。ギルドの職員が、そこら中をうろついているだろう。
そんな場所に、再び忍び込むのは、あまりにも危険すぎる。
しかし、あの革袋のことが、どうしても頭から離れない。
まるで、解きかけの難解なパズルを残してきたような、もどかしい気持ちだった。
健志郎は、ベッドから起き上がると、窓の外を見つめた。
夜の闇が、街を静かに包んでいる。
(どうする、俺……)
リスクを冒してでも、謎を追い求めるのか。
それとも、平穏な日常を守るため、この力を封印するのか。
左腕のガントレットが、彼の迷いに応えるかのように、ズクン、と一度だけ、強く脈打った。
もっと『影』を喰わせろと言っているように感じられた。
そして、その革袋が原因で、人生を左右する大事件になることを、健志郎はまだ知る由もなかった。