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第三話:光る苔とサラリーマンの情報収集

 月曜日の朝。

 二条健志郎を現実に引き戻したのは、耳障りなアラームの音と、体にまとわりつくような疲労感と筋肉痛だった。週末の冒険で得た高揚感は、満員電車の圧迫と、デスクに山と積まれた書類の前では、儚い夢のように薄れていく。


「二条さん、なんだか今週は顔色がいいですね。何かいいことでも?」

 隣の席の後輩が、コーヒーを片手に話しかけてくる。

 

「あ、ああ。まあ、ちょっとな。週末、いい汗をかいたからかな」

 健志郎は曖昧に笑って誤魔化した。まさか「ダンジョンでスライムから逃げ回っていたら、体調が良くなった」などとは言えない。


 頭の中は、仕事のタスクよりもダンジョンのことでいっぱいだった。

 

(あの青い石……『スライムの核』とでも言うべきか。砕いて水を加えると、強力な接着剤になった。ということは、あの光る苔にも、何か特別な使い道があるはずだ)


 昼休み、健志郎はスマホを取り出し、こっそりと検索窓にキーワードを打ち込んだ。

 

『ダンジョン 光る苔 使い道』


 サラリーマンの情報収集能力を侮ってはいけない。キーワードを変え、複数のサイトを比較検討し、情報の信憑性を吟味する。それは、新規プロジェクトの市場調査と何ら変わりはなかった。


 数十分後、健志郎はいくつかの情報を掴んでいた。

 あの青い石は、探索者ギルドの正式名称で「スライムコア」と呼ばれていること。低ランクの素材で、換金所での買取価格は一つ数十円程度。主な用途は、やはり簡易的な接着剤や、子供のおもちゃの材料らしい。


 そして、光る苔の正体は「ルミナスモス」。

 これもまた低ランク素材で、主な用途は「観賞用の光源」や「低刺激性の塗料」として、ごく一部で取引されているだけ。買取価格もスライムコアと大差ない。

 

「やっぱり、そんなもんか……」

 

 別に、一攫千金を夢見ていたわけではないが、あまりの価値の低さに少しだけがっかりする。だが、健志郎は一つの記述を見逃さなかった。とあるマニアックな素材情報サイトの片隅に、こう書かれていたのだ。


『ルミナスモスは、その繊維構造に多量の水分と微量な魔素を保持する特性がある。極めて稀に、保湿や治癒効果の触媒として利用されたという古代文献の記録も存在するが、詳細は不明』


「保湿……治癒……」

 その言葉は、それから何日も健志郎の心に引っかかっていた。


 

 あっという間に一週間が過ぎ、再び週末がやってきた。

 

「じゃあ、ウォーキング行ってくる」

 

 すっかり定着したようにセリフを残し、健志郎は家を出た。向かう先はもちろん【桜ヶ丘ダンジョン】だ。

 今回は、前回よりも少しだけ準備を整えた。百円ショップで買った小さな園芸用スコップと、素材を入れるためのチャック付きポリ袋。これだけでも、すっかりベテラン探索者になった気分だった。


 二度目のダンジョン、心には余裕があった。スライムにも冷静に対処し、光で誘導してやり過ごす。彼は戦闘ではなく、あくまで「採取」が目的なのだ。


 前回の場所で、健志郎は壁に群生するルミナスモスを、スコップで丁寧に採取した。ハンカチに包んだ前回とは違い、ポリ袋に入れれば鮮度も多少は保てるはずだ。


 順調に目的を果たし、意気揚々と引き返そうとした、その時だった。

 通路の先から、カツン、カツン、と硬い足音が聞こえてきた。スライムではない。もっと大きな何かがいる。

 

 健志郎は咄嗟に、通路の脇にあった岩陰に身を隠した拍子に転んでしまった。ポケットの中の道具をぶちまけてしまったが、幸いモンスターには気づかれていない。


 道具を拾いポケットに詰め込みながら、息を殺して様子を窺う。角から現れたのは、緑色の肌をした小柄な人型のモンスター。手に粗末な棍棒を持った、ゴブリンだった。


(まずい……!)

 スライムとは明らかに違う。知性があり、武器を持っている。あれに殴られたら、ただでは済まないだろう。

 ゴブリンは、キョロキョロと辺りを見回しながら、ゆっくりとこちらに近づいてくる。心臓が、また激しく脈打ち始めた。


 どうする?

 ここでも、健志郎のサラリーマン脳がフル回転を始める。

 

 【現状分析(SWOT分析)】


 強み(Strength):隠密行動、土地勘(二回目)。


 弱み(Weakness):戦闘能力ゼロ、貧弱な装備。


 機会(Opportunity):ゴブリンは一体だけ、注意散漫。


 脅威(Threat):発見されれば即アウト、物理的な攻撃。


 導き出される最適解は、やはり「直接対決の回避」と「注意の誘導」だ。

 健志郎は、ポケットからスライムコアを一つ取り出した。そして、ゴブリンがいる通路とは逆方向の、さらに 奥の壁に向かって、それを力いっぱい投げつけた。


 カラン、コロン……!


 静かなダンジョン内に、石が転がる音が響き渡る。

 ゴブリンは、その音にビクッと反応し、健志郎が隠れている方向とは真逆に体を向けた。そして、警戒しながら音のした方へと歩き出す。


(今だ!)

 健志郎は岩陰から飛び出し、脱兎のごとく入り口に向かって走り出した。後ろは振り返らない。とにかく走る。ゴブリンが騙されている時間は、そう長くないはずだ。


 命からがら地上へ脱出した健志郎は、ぜえぜえと肩で息をしながら、自分の機転の良さに感謝した。

 

「ったく、心臓に悪い……」

 

 だが、収穫はあった。健志郎には、ポリ袋に入った新鮮なルミナスモスが、確かに握られていた。


 

 その日の夕方。

 健志郎がリビングでくつろいでいると、妻の友里が庭から戻ってきた。彼女は趣味で小さな家庭菜園をやっており、週末は土いじりをするのが習慣だった。

 

「あー、疲れた。土を触ると、どうしても手が荒れちゃうのよね」


 友里は、ハンドクリームを塗りながら、少しカサついた自分の手を見て溜息をついた。


 その瞬間、健志郎の頭の中で、昼間に調べた情報がフラッシュバックした。

『保湿や治癒効果の触媒として利用されたという記録も……』


「友里」

 

 健志郎は立ち上がると、ポリ袋に入ったルミナスモスを持ってきた。

 

「これ、ちょっと使ってみないか?」

「何これ? 苔? また会社のサンプル?」

「まあ、そんなところだ。いいから、ちょっと貸してみろ」

 

 健志郎は、ルミナスモスを数本取り出し、乳鉢(これも百円ショップで買っておいた)ですり潰した。苔はすぐにペースト状になり、ほのかに森のような、清涼な香りを放つ。


 緑色のペーストを友里の手に取り、優しく塗り込んむ。

 

「うわ、何これ!ひんやりして気持ちいい……!」


 友里が驚きの声を上げる。ペーストは肌にすっと馴染み、ベタつく感じは全くない。

 そして数分後、友里は自分の手を見て、さらに大きく目を見開いた。

 

「嘘でしょ……!?」


 さっきまでカサついて荒れていた手の甲が、まるで高級なエステに行った後のように、しっとりと潤っている。キメが整い、透明感すら出ているように見えた。

 

「あなた、これ、本当に何なの!?そこらで売ってるハンドクリームより、ずっとすごいじゃない!」

「だろ?だから言ったろ、いいものだって」

 

 健志郎は、得意満面の笑みを浮かべた。娘の凛も、遠巻きにその様子を見て、少し興味深そうな顔をしている。


 家族からの賞賛。それは、どんな出世やボーナスよりも、健志郎の心を温かく満たした。

 

(う〜ん。ダンジョン、最高だ……)


 友里の手を潤したペーストは、まだ半分以上残っている。

 

(残りは、小分けにして冷蔵庫にでも入れておくか……)


 健志郎が、後片付けをしようと立ち上がった、その時だった。

 ジャージのポケットの中で、何か硬くて、ごつりとした感触があることに気づいた。

 

(ん……?なんだこれ……スライムコアじゃないな……)


 彼はポケットに手を入れ、取り出したものを見て、息を呑んだ。


 それは、黒光りする金属でできた、手袋のようなものだった。指先は鋭く、手の甲には見たこともない複雑な紋様が刻まれている。明らかに、この世界の製品ではない。おそらく、ゴブリンから隠れてる時に拾ってしまったのだろう。


 これは一体、何だ……?

 誰の落とし物だ?

 健志郎の心臓が、先ほどとは全く違う意味で、ドクン、と大きく跳ねた。


 

 それは、未知のアイテムへの好奇心と、厄介ごとに巻き込まれるかもしれないという、悪い予感だった。

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