第二十五話:影の傀儡師
「な……なんで、ホブゴブリンが、ここに……!?」
ギルド職員タナカの震える声が、広場に響いた。その顔は血の気を失なっている。
凛の友人、サキは、腰を抜かしたようにその場にへたり込み、小さな悲鳴さえ上げられずにいた。凛もまた、恐怖に体が凍りつき、一歩も動くことができない。
絶望的な状況。レジャー気分だった空気は、一瞬にして死の匂いが立ち込める処刑場へと変わる。
その中で、ただ一人、前に出た者がいた。
健志郎だった。
彼は、震える足で、娘たちの前に立ちはだかった。その背中は、父親として、決してここで娘たちを死なせるわけにはいかないという、意志に満ちていた。
「み、皆さん!私の後ろへ!」
タナカ隊員が恐怖を振り絞るように叫び、健志郎の前で剣を構えた。Dランクの彼が、ホブゴブリンの相手になるのだろうか。しかし、一般市民を守るというギルド職員、Dランク探索者としての使命感が、彼の闘争心を燃やしているのだろう。
「グ、ルルル……」
ホブゴブリンは低い唸り声を上げた。そして、標的を武器を持つタナカ隊員に定める。
次の瞬間、ホブゴブリンの姿が消えた。
そう錯覚するほどの、爆発的な踏み込み。
「しまっ……!」
タナカ隊員が反応するよりも早く、ホブゴブリンの強烈な拳が、彼の胸のあたりに叩き込まれた。
ゴッ、という鈍い音と共に、タナカ隊員の体は壁際まで吹き飛ばされ、一度も受け身を取れずに、ぐったりと動かなくなった。気絶したのだ。
「「きゃああああっ!」」
凛たちが悲鳴を上げる。
健志郎はその光景を前に、奥歯を強く噛みしめ拳を握った。
(やるしかない……!)
しかし、どうやって?この場で『影の仕事着』を解放すれば、正体はバレる。しかし、素手で勝てる相手ではない。
そのとき――極限状況で健志郎の脳裏に、悪魔的とも言える一つの策が閃いた。
それは、サラリーマンとして培った「使えるものは何でも使う」という発想と、ガントレットの力を組み合わせた、究極の「責任転嫁」戦術だった。
健志郎はパニックを起こしたふりをしながら、娘たちを庇うように、壁際で気絶しているタナカ隊員の背後へと、じりじりと後退した。
「だ、大丈夫か!?しっかりしろ!」
健志郎は、タナカ隊員の体を揺さぶるふりをしながら、その背後に完全に隠れる。そして、誰にも気づかれないように、『シャドウ・クラフト』を発動させた。
ガントレットから、極めて細くほとんど目に見えないほどの、無数の「影の糸」が出現する。それは、気絶したタナカ隊員の首筋、両腕、両足の関節、指の一本一本に至るまでに巻き付き接続されていった。
ホブゴブリンは、残った獲物たちをいたぶるように、ゆっくりと近づいてくる。
その、次の瞬間だった――
気絶していたはずのタナカ隊員が、ゆらりと身体を起こし、ぎこちなくその場に立ち上がったのだ。だが、その目は固く閉じられたまま。
「え……?」
凛たちが、信じられないものを見る目で、その光景を見つめている。
ホブゴブリンも、その現象に一瞬だけ動きを止めた。
健志郎はタナカ隊員の背後に隠れたまま、マリオネットを操るように、影の糸を操作していた。
(動け……! 俺の操り人形タナカくん!)
心の中で、無茶な要求を部下に押し付ける上司のように叫ぶ。
気絶したタナカ隊員――健志郎が操る「傀儡」は、落ちていた剣を拾い上げると、ホブゴブリンへと、再び立ち向かっていった。
「気絶したまま……戦ってる……?」
凛が、震える声で呟いた。
ギィン――ギィン――と、剣戟の音が響き渡る。
健志郎は、タナカ隊員の体を操り、大剣を持つホブゴブリンと戦わせる。それだけではない。糸を通して、自らの『影喰らい』のパワーを、タナカ隊員の腕へと送り込み、その一撃一撃を強化させていた。
ぎこちない動きなのに、なぜか速くて、重い。
跳躍なんて、不自然極まりない。まるで浮遊しているみたいな動きだ。
しかし、そのアンバランスな強さに、ホブゴブリンは次第に追い詰められてく。
「ギギギ……!」
理解不能な状況に、ホブゴブリンが苛立ちの声を上げる。そして、渾身の力を込めて、大振りの剣を、傀儡のタナカ隊員へと振り下ろした。
健志郎は、それを、タナカ隊員の体を無理やり捻じ曲げさせて回避させると、がら空きになった胴体へ、渾身の一撃を命じた。
(今だ!行けぇぇぇっ、タナカくん!)
健志郎が操るタナカ隊員の剣が、ホブゴブリンの鎧の隙間を、深々と貫いた。
「グォオオオオッ……!」
ホブゴブリンは断末魔を上げると、その巨体をゆっくりと地面に沈め、やがて黒い塵となって消えていった。
その直後、健志郎は、即座に影の糸を解除した。
糸の接続を解かれたタナカ隊員は、力尽きたかのように、その場に崩れ落ちる。
静まり返るダンジョン。
呆然と立ち尽くす少女たちと、気絶したままのギルド職員、そして息を切らしながら、必死に恐怖を演じている、一人のおっさん。
「た、助かった……!す、すごい……あの人、気絶してたのに、さすがギルドの探索者だ」
健志郎は、震える声でそう言うと、何食わぬ顔で、ホブゴブリンが消えた場所へと近づき、その強力な『影』を、誰にも気づかれずに吸収した。
――
凛は、無言で父親を見つめていた。
気絶しながら戦ったタナカ。それは、確かに信じがたいことだった。
しかし、凛の心にそれ以上に深く突き刺さっていたのは、別の疑念だった。
あの絶望的な状況の中で、友人たちも、自分も、ただパニックになることしかできなかったのに。
なぜ、父親があんなに冷静に、的確に、自分たちを安全な場所へと誘導できたのだろうか。
恐怖に怯えているように見えたけど、父親の瞳の奥には、この状況を完全に掌握しているかのような、底知れない光が宿っていたように見えた。
凛は、ただの「ダサいパパ」だと思っていた父の姿に、これまでとは全く異質の何かもやもやとする、深い疑念を抱き始めていた。




