第二話:サラリーマン式、危機管理術
目の前でぷるぷると震える、青いゲル状の物体。スライム。
その存在を認識した瞬間、健志郎の思考は完全に停止した。手足は鉛のように重く、心臓だけが暴れ馬のように胸の中で跳ねている。
(逃げろ)
頭の片隅で誰かが叫ぶ。
(でも、足が動かない)
別の誰かが答える。
(戦え)
無理だ、武器がない。
(じゃあ、どうするんだ!)
脳内で繰り広げられる、パニック会議。その間にも、スライムは一センチ、また一センチと、着実に距離を詰めてくる。その時再度、健志郎の脳裏に、雷鳴のように娘・凛の冷たい声が響き渡った。
『ダッサ……』
そうだ。俺は、このまま何もできずに逃げ帰るのか? スライム一体にビビり散らかして、すごすごと家に帰り、また溜息をつくのか? そんなダサい親父の姿を、凛に見せたいのか?
――嫌だ。
その一心だけが、凍り付いた思考を無理やり動かした。
健志郎は、サラリーマンだ。彼の二十年間は、理不尽な要求と無茶な納期、そして絶体絶命のトラブル対応の連続だった。そのスキルを、今こそ使う時だ。
彼は、震える頭で必死に現状を分析し始めた。
まず、【目的の明確化】。目的は「スライムを倒すこと」ではない。「この場を無傷で切り抜けること」だ。
次に、【リスクの洗い出し】。相手は未知の生命体。体当たりされたらどうなる? 酸で溶かされる? 粘着質で動けなくなる? 最悪の事態を想定しろ。直接接触は絶対に避けるべきだ。
最後に、【リソースの確認】。手持ちの装備は、作業用手袋、LEDライト、履き古したスニーカー。戦闘力はゼロに等しい。
導き出される結論は、一つ。
「戦う」という選択肢は、ない。ならば、「やり過ごす」しかない。
健志郎は、ポケットからLEDライトを取り出した。スイッチを入れると、白い光が一直線に伸びる。彼はその光を、スライムの少し横の壁に当てた。すると、スライムの動きがぴたりと止まった。そして、まるで光に興味を引かれたかのように、ゆっくりとそちらへ方向を変える。
(いける……!)
確信した健志郎は、光を壁に当てたまま、ゆっくりと後ずさる。スライムは完全に光に釣られ、健志郎とは逆方向の壁へと向かっていく。
十分な距離ができた。今だ。
健志郎は息を殺し、壁際をすり抜けるようにして、スライムの横を駆け抜けた。背後を振り返る余裕はない。ただ、無我夢中で通路の先へ走った。
どれくらい走っただろうか。息が切れ、足がもつれそうになったところで、ようやく立ち止まる。心臓はまだバクバクと音を立てているが、背後にスライムの気配はない。
「はぁ……はぁ……やった……」
やり過ごした。自分の力で、この危機を乗り越えたのだ。
その瞬間、猛烈な達成感が全身を駆け巡った。汗が噴き出し、呼吸は荒いが、不思議と気分は悪くない。むしろ、爽快ですらあった。
「これ……すごい運動になるな……」
ジムでマシンを動かすのとは違う。生命の危機(大げさだが)に裏打ちされた、究極の有酸素運動だ。
少し落ち着いた健志郎は、再び慎重に探索を再開した。今度はさっきよりもずっと注意深い。壁の角を曲がる時は、まずライトで先を照らして安全を確認する。安全の基本、「指差し確認」だ。
しばらく進むと、少し開けた空間に出た。そこには、数体のスライムがいた。しかし、二度目となると、もう恐怖はない。健志郎は距離を取り、落ち着いて観察することにした。
スライムたちは、ただゆっくりと動き回っているだけだ。そして、健志郎は奇妙な事実に気づいた。一体のスライムが、壁際で動きを止め、その体が徐々に透明になっていく。そして、数分後には完全に消滅し、その場にはビー玉くらいの大きさの、青く澄んだ小さな石だけが残されていた。
「あれが……ドロップアイテムってやつか」
ネットで読んだ知識が蘇る。モンスターを倒すと、素材やアイテムを落とすことがあるという。倒さなくても、寿命か何かで消えることもあるのか。
健志郎は、周囲に他のスライムがいないことを確認してから、その青い石に近づいた。作業用手袋をはめた手でそっと拾い上げる。ひんやりとしていて、硬い。ただの綺麗な石ころにしか見えない。
(何かの役に立つのか……?)
とりあえず、ジャージのポケットにそれをしまった。
さらに奥へ進むと、壁一面に、ぼんやりと光る苔が生えている場所を見つけた。まるで天然のイルミネーションのようだ。健志郎は、その幻想的な光景にしばし見とれた。
好奇心から、手袋をした指でそっと触れてみる。見た目に反して、苔は驚くほど丈夫で、繊維質だった。
(これも、何かになるかもしれない)
彼は、壁から少しだけ苔を剥がし、ハンカチに包んで、これもポケットに入れた。
結局、その日は一時間ほどダンジョン内を歩き回り、青い石を三つ、光る苔を少々手に入れて、地上へ戻った。体は心地よく疲れ、大量の汗をかいた。気分は最高だった。
家に帰り、シャワーを浴びようとするが、友里が洗面所で何やら困っている様子だった。
「どうしたんだ?」
「ああ、あなた。ここのお風呂のタイルの目地、少しヒビが入っちゃって。水が入るとカビの原因になるし、困ったわ」
見ると、確かにタイルの間に数センチの亀裂が走っている。
その時、健志郎の頭に、ある考えが閃いた。
あのスライムの粘着感とあの石の感触……工作で使った接着剤みたいだ。
彼はポケットから、ダンジョンで拾った青い石を一つ取り出した。
「友里、ちょっと待ってろ」
健志郎はガレージから金槌と小さな器を持ってくると、器の中で青い石を慎重に砕いた。石は意外と脆く、すぐにサラサラの青い粉末になった。そこに、スポイトで数滴の水を加える。
すると、粉末は見る見るうちに粘性を帯び、強力な接着剤のようなゲル状に変化した。
「すごい……!」
健志郎は、それを指ですくい、タイルのヒビに丁寧に塗り込んでいく。ゲルはヒビにぴったりと密着し、数分もすると、まるで最初からそうであったかのように、カチカチに固まってしまった。しかも、色は半透明で、元の目地の色を邪魔しない。完璧な仕上がりだった。
「あなた、何それ!? すごいじゃない!」
友里が目を丸くして驚いている。
「ああ、これか? 会社の取引先が開発した、新しい防水補填材のサンプルだよ。試してみてくれって言われてな」
健志郎は、我ながら見事な口からでまかせを披露した。
「へぇー!あなた、たまには役に立つのね!」
「たまにはって……ひどいな。ハハ」
友里は感心しきりだ。キッチンからその様子を見ていた凛も、ちらりとこちらに視線を向けたが、すぐにスマホに目を戻した。だが、その横顔は、いつもより少しだけ、険が取れているように見えた。
健志郎の胸に、じわりと温かいものが広がった。
達成感。そして、家族に認められたという、ささやかな誇り。
これは、ただの健康づくりじゃない。もっと、何かすごい可能性を秘めているかもしれない。
健志郎は、ポケットに残った二つの青い石と、ハンカチに包まれた光る苔を、そっと握りしめた。
(この石、あと二つあるな。あの苔は、一体何に使えるんだろう……?)
健志郎の心は、いつしか仕事のストレスや将来への不安ではなく、未知への好奇心と、次なる探索へのわくわくで満ちていた。
そして、次の週末。ダンジョンで更なる発見をすることになるのだった。