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第一話:四十二歳、メタボ宣告とダンジョン

 二条(にじょう)健志郎(けんしろう)、四十二歳。彼の人生は、日本の大多数を占める中年サラリーマンのそれと、寸分違わぬものだった。


 朝はぎゅうぎゅう詰めの通勤電車に揺られ、日中はパソコンの画面と睨めっこ。上司の機嫌を(うかが)い、部下の愚痴を聞き流し、取引先には頭を下げる。夜は安売りの発泡酒でささやかな晩酌。そんな一般的なおっさんを版画で刷ったような毎日が、もう二十年近く続いている。


 若い頃は、それなりに夢もあった。しかし、結婚して、娘が生まれて、三十五年ローンで家を買って。いつしか夢は現実という名の分厚い地層の下に埋もれてしまい、今では掘り起こす気力すら湧いてこない。


 最近の悩みは、三つ。

 一つは、階段を上るだけで切れる息。

 二つ目は、スーツのズボンに重くのしかかる、ぽっこりとせり出した腹。

 そして三つ目は、高校生になった一人娘・(りん)との、絶妙に気まずい距離感だ。


「あなた、また溜息ついて。幸せが逃げるわよ」

 

 食卓で向かいに座る妻・友里(ゆり)が、味噌汁をすすりながら言った。彼女とは大学時代からの付き合いで、健志郎のことは何でもお見通しだ。

 

「いや、ちょっとな……」

「どうせ、凛のことでしょ。あの子も年頃なのよ。それに、人のことより自分の心配したら? そのお腹、本当にすごいことになってるわよ」

 

 友里の視線が、容赦なく健志郎の腹部に突き刺さる。否定できない事実だった。ベルトの上に乗った肉は、もはや威厳ではなく、ただのだらしなさの象徴だ。


 

 そんなある金曜日の夜、事件は起きた。

 先月受けた健康診断の結果が、一通の封筒で届いたのだ。リビングのソファで恐る恐る封を切る。そこに並んでいたのは、無慈悲な活字の羅列だった。


『腹囲:基準値超え』

『血圧:高め』

『中性脂肪:要経過観察』


 そして、最後の総合所見の欄に、とどめの一撃が記されていた。

 

『判定:メタボリックシンドローム予備軍。生活習慣の改善を強く推奨します』


「メタボ……」

 健志郎の手から、診断結果がはらりと落ちた。

 

「あら、健診の結果来たのね。どうだった?」

 キッチンから顔を出した友里に、健志郎は正直に告げた。友里は「やっぱり……」と眉をひそめ、隣の部屋でスマホをいじっていた凛が、ひょっこりと顔を出した。

 

「え、パパ、メタボなの?」

「よ、予備軍だ!」

 

 見栄を張って言い返すが、凛の目は冷ややかだった。そして、残酷な一言を放つ。

 

「ダッサ……」

 

 凛の言葉は、鋭利な刃物となって健志郎の心臓を貫いた。

 仕事の疲れも、満員電車のストレスも、この一言の前では霞んでしまう。愛する娘に「ダサい」と思われることほど、父親にとって辛いことはない。


 何かが、ぷつりと切れる音がした。

 健志郎はソファから立ち上がると、家族に向かって高らかに宣言した。

 

「よし、パパ、やるぞ!今日から生まれ変わる!」


 宣言は、妻と娘の冷ややかな視線を集めるのだった。

 

 

 翌日、健志郎は早速行動に移した。

 

「やっぱり運動だよな。手っ取り早いのはジムか」

 ネットで近所のフィットネスジムを検索する。


 最新のマシン、清潔なシャワールーム、魅力的なプログラムの数々。しかし、その目に飛び込んできた月会費の金額に、健志郎は愕然とした。

 

「い、一万円……!?」

 毎月一万円。年間十二万円。ただでさえ小遣いを減らされている身には、あまりにも重い出費だ。

 家のローン、凛の大学の費用だってまだまだかかる。自分のメタボ解消なんかに金を使っていられない。


 家族の手前、「生まれ変わる」と大見得を切ったばかりなのに、今更「やっぱり高いからやめる」とは口が裂けても言えない。


 ――どうする、俺。このままでは、口先だけの「ダサいパパ」のままだ。

 

途方に暮れ、意味もなくスマホの画面をスクロールしていると、ふと、ニュースアプリの地域情報が目に留まった。


『【祝オープン】初心者向け!安全な『桜ヶ丘ダンジョン』で健康づくり!入場無料!』


「ダンジョン……」

 

 その単語は、もはや現代社会において特別なものではなかった。

 十数年前、突如として世界中に出現した謎の洞窟群、通称「ダンジョン」。当初は未知の脅威として恐れられたが、研究が進むにつれ、その内部構造や出現するモンスターには明確なレベル分けがあることが判明した。

 

 今では、高レベルのダンジョンは国が管理し、ライセンスを持つ「探索者」たちが挑む一方で、低レベルのダンジョンは徹底した安全管理の下で一般開放され、レジャー施設の一つとして人々に受け入れられていた。


 健志郎が住む街の近くに新しくできた【桜ヶ丘ダンジョン】は、その中でも最も安全とされるFランク。出現するモンスターは最弱のスライムやゴブリン程度で、「小学生でも倒せる」「下手をすればポメラニアンの方が強い」とまで言われているらしい。


 ――これだ……!

 

 健志郎の目に、光が宿った。

入場は無料。つまり、タダで運動ができる。モンスターと言っても、相手は最弱。ウォーキングの延長と考えれば、これほど都合の良い話はない。

 

「よし……!」

 

 健志郎は固く拳を握った。家族には「週末、ウォーキングしてくる」と言えばいい。これなら怪しまれないし、金もかからない。完璧な計画だった。


 

 そして、運命の週末がやってきた。

 健志郎は、クローゼットの奥から高校時代に使っていた色褪せたジャージを引っ張り出す。足元は履き古したスニーカー。念のため、押入れにあった作業用の分厚い手袋も装備した。武器と呼べるものは何もないが、暗がり対策として、防災袋に入っていた一番安いLEDライトをポケットにねじ込んだ。


「じゃあ、ちょっと汗流してくる」

 

 リビングでテレビを見ていた家族に声をかける。

 

「あら、本当に運動するの? 無理しないでね」と友里が微笑む。

「ふーん」と、凛はスマホの画面から目を離さずに気のない返事をした。まだ、父親への評価は変わっていないらしい。


(見てろよ、凛。パパは生まれ変わるんだからな……)


心の中で呟き、健志郎は玄関のドアを開けた。

目指す【桜ヶ丘ダンジョン】は、家から歩いて十五分ほどの公園の一角にあった。入り口は、駅の自動改札のような近代的なゲートになっており、その向こうに洞窟が口を開けている。ゲートの周りには、健志郎と同じようにジャージ姿の中年男性や、装備を整えた若者、さらには子供連れの家族までいて、思ったよりもずっと平和な雰囲気だった。


「よし……」

 健志郎は深呼吸を一つすると、ゲートをくぐり、薄暗いダンジョンの入り口へと一歩、足を踏み入れた。

 ひんやりとした、少し湿った空気が肌を撫でる。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、自分の足音だけが響いた。壁には非常灯が等間隔で設置されており、思ったよりは明るい。


 ――なんだ、大したことないじゃないか。これなら本当にただのウォーキングだな


 緊張がほぐれ、健志郎が二歩、三歩と足を進めた、その瞬間だった。


 目の前の通路の曲がり角から、ぬるり、と何かが現れた。


 それは、ゲームやアニメで何度も見たことのある、半透明の青いゲル状の生命体。大きさはバスケットボールほど。ぷるぷると体を震わせながら、ゆっくりとこちらに向かってくる。


 紛れもなくモンスター。スライムだった。


「――ッ!」


 声にならない悲鳴が、喉の奥で詰まる。頭では分かっていた。最弱のモンスターだと。しかし、映像で見るのと、今、ここで対峙するのとでは、訳が違う。本能が警鐘を鳴らし、全身の毛が逆立つのが分かった。足が、コンクリートのように地面に縫い付けられて動かない。


 スライムは、健志郎の硬直などお構いなしに、じり、じりと距離を詰めてくる。


 ヤバい、こんなのと戦うのか……。

 ウォーキングのつもりで来ただけなのに。

 俺、この先、生き残れるのか!?

 いや、そもそも、こいつどうやって倒すんだ!?


 

 健志郎の脳裏に、娘の「ダサ……」という声が木霊した。

 四十二歳、メタボ予備軍。彼の人生を賭けた(つもりの)挑戦は、ダンジョンに潜ってわずか五分で、最大の危機を迎えていた。

―― 

あとがき

読んでくださりありがとうございます!


わぁ面白いわ! 続き読みたいわー! と思ってくれましたら

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