何度だって花は咲く
祭囃子に下駄の歯を鳴らして、私は神社の階段を駆け上がる。
息を切らしながら頂上に辿り着くと、鳥居の前で浴衣姿の青年が腕を組んで待っていた。
「……ごめん、待った?」
「ああ、待ちくたびれたぜ」
そこはお決まりの返しがあるだろうと、眉間に皺を寄せた私が彼の腕を小突くと、彼は子どもみたいに悪戯っぽい笑みを浮かべながら私を見下ろした。
「……変わってないね」
「ああ、変わらないな」
「私は随分変わっちゃったなあ」
「そうか? 一目見てアンタだって分かったぜ」
「嘘だあ。小六の頃から何年も会ってないのに」
「背が伸びたり、メイクをするようになったり、見た目は変わっても、女ってのは匂いで分かるからな」
「相変わらず気持ち悪いこと言うね……」
私が細目で彼を遠ざけるように一歩引くと、彼はまんざらでもない様子だった。
「じゃあ、早速だが行こうか、花火大会。もう時間がないしな」
「そうだね。ごめん。遅くなっちゃって」
私が後ろめたそうに声を沈めると、彼は無遠慮に私の顔を覗き込んで、屈みながら笑った。
「いいってことよ。アンタ昔から体弱かったろ。ここんとこ気温も上がってきたし、無理させられねえよ」
「……ありがとう。そういうところも相変わらずなんだね。私もうあなたが好きな小さくて可愛い女の子じゃないのに」
「別に俺にそういう趣味はねえよ」
「そうなの? 小五のときの祭りで口説いてきたから、てっきり若い子が好きなのかと思ってた」
「アンタが友達とはぐれて不安そうな顔してたから、大丈夫かって声かけただけだよ。昔のことだからって記憶を捏造するな」
「そうだったっけ。あなたこそ捏造してるんじゃないの」
「そんなことより、浴衣似合ってるぜ」
「話逸らしたな」
正直、私もあの時のことはもうよく覚えていないから、本当のことは分からない。
ただ、彼が善意で声をかけてきたにしろ、下心から声をかけてきたにしろ、どうでもいいことだ。
何もかも不安だった時に私のそばにいてくれたという事実だけは変わらないのだから。
「……そういえば、あの時はぐれた友達……ていうか、私を置いてけぼりにした人達なんだけどさ。あの日からしばらく悪夢でうなされてたらしくて。祭りのすぐ後だったっていうのもあって、祟りだなんだのって騒いでたんだけど、知ってる?」
「……さあ、知らねえなあ」
彼は明後日の方向を見ながら、頭を掻いて、不自然な抑揚をつけながらそう言った。
つまり、そういうことなのだろう。
「直接的な危害を加えなかったのはいいけど、あんまり人に手を出しちゃダメだよ。この祭りだってみんなあなたのためにやってるんだから」
「へいへい。といっても、この祭りなんて今は夏の風物詩ってだけで、形骸化しちまってると思うがな」
「それはまあ……確かに」
昔は彼のために上がっていた花火も、今はこの村に観光客を集めるために打ち上げられている。
村中の若い女性が集まって舞を踊る儀式もあったが、少子高齢化の影響で、女性を模した人形灯籠に取って代われらた。
「……はあ」
「どうした」
「いや、なんか……今更だけど、もうこんなに時間が経っちゃったんだなあって」
「……そうだな」
花火大会の会場に近づくと同時に、喧騒が大きくなってきた。
身長が高い彼の声が、少し遠くて聞き取りづらい。
「なあ、疲れてないか」
「別に、疲れてないよ」
「嘘つけ、さっき走ってきて息切らしてただろ。今も無理して大きい声出そうとしてる」
「全然。こう見えて昔より元気になったんだから」
私は腕に力瘤を作るようなポーズで彼に笑ってみせた。
額に汗が伝う。
すると——。
「ん」
彼が突然私の前にしゃがみ込んだ。
「……何」
「おぶってやるよ」
「……恥ずかしい」
「その辺のカップルもやってんだろ」
「カップルって……」
はたして、周囲の人たちから見て、私たちはカップルだと認識されるだろうか。
「それに、こっちの方が顔近いから、お互い声が聞こえやすいだろ」
「……まあ、確かに」
私が彼の背中に身体を預けると、彼が思いの外勢いよく立ち上がって、少しびっくりした。
「軽いな、アンタ」
「そういうのノンデリっていうらしいよ」
「なんだそれ」
「デリカシーがないってこと」
「褒めてやったつもりなのに……。難しい世の中になっちまったな」
「今の時代ならあなたがこの土地で崇められることなんてなかっただろうね」
「そりゃ恐ろしいな」
今を生きる私が当時の価値観にとやかく言う資格はないので、私はそれ以上追求しなかった。
花火大会の観覧場所になっている広場に着くと、すでに人がごった返していて、私たち二人が座れるスペースはなさそうだった。
「ごめん、私が遅れたせいで」
「さっきも言ったろ。無理はさせられないって」
「それは私が……」
私は言いかけて口を噤んだ。
これを口に出してしまったら、今が崩れてしまいそうだから。
「…………なんでもない」
私は黙って、彼の肩に顔を埋めた。
「そうか」
彼も察したのか、黙って気まずそうに空を見上げた。
……と思ったのだが。
「別に、アンタがもう婆さんだから気を遣ったわけじゃない」
……この人は相変わらず、デリカシーがない。
とはいえ、七十過ぎた老人に配慮も何もないかとも思うが。
「俺は女なら誰にでも優しくするぜ」
「普通に最低なこと言ったね」
「女は幾つになっても綺麗だからな」
「七十過ぎた私にもそう思う?」
「もちろんさ」
彼の声色には一切の澱みもなく、ただ純粋な青年の屈託のない笑顔だけがあった。
まもなく、一発目の花火が打ち上がる。
「……あ、すまん。やっぱ嘘ついた」
「やっぱり、七十過ぎた婆さんなんて嫌だったよね」
「いや、そうじゃなくてさ」
彼が徐に周囲を見渡す。
村の外から来た若い観光客や、外国人など、溢れんばかりの人間が集まっている。
その中には村の住人もいて、私の見知った顔もあった。
みな一様に、これから打ち上がる花火に対して期待に胸を膨らませていた。
「……人は枯れないんだよ」
彼は私にしか聞こえない声で、そう呟いた。
「女とか、男とか、関係なく、人ってのは幾つになっても美しいもんだ。たとえ一度散ったとしても、また芽吹いて、形を変えても、何度だって花を咲かせる」
「……そうかな」
「そうだよ。何百年も見てきたんだから、分かるさ」
彼は空を見上げて目を細めた。
「……俺は誰かに支えられてないと、存在すらできないからな。きっと、あと五十年も経たないうちに忘れられて、完全に消えちまう」
その言葉尻は、とてもか細かった。
「俺が消えるってことは、こいつらにとって俺はもう必要ないってことなんだ。俺からの恩恵なんかなくたって、こいつらは強く生きていける。この場所も、一度は焼け野原になったのに……本当に、大したやつらだよ」
花火が打ち上がるまで、あと一分。
喧騒が一層大きくなってきた。
遠くから拡声器の音がする。
花火が打ち上がれば、みなその美しさに心を奪われ、全て忘れるだろう。
そうすればきっと、彼ももうここにはいられない。
元は彼のための花火だったのに。
その花が開けば、彼はこれ以上咲き続けていられない。
「……ねえ」
「…………なんだ」
あと五十秒。
「私、耳が遠いからさ。さっきあなたが何を言っていたのかは分からないんだけど……」
あと四十秒。
「…………私、忘れないし、忘れさせないから」
あと三十秒。
「絶対に、忘れさせない」
あと二十五秒。
「……そうか」
「うん」
あと二十秒。
「…………そういや、あの時、俺がお前に声をかけた理由だけどな……」
あと十五秒。
「…………似てたんだ。俺と」
あと十秒。
「一人で置き去りにされて、忘れられて、萎れた姿が」
あと五秒。
「だが…………」
あと一秒。
「——変わったんだな。アンタ」
ゼロ。
一瞬、世界が静寂に包まれて、何百メートルか先で、何かの爆発する音がした。
光の尾が天を昇り、人々がそれを見上げている。
この場にいる誰もが、これまで何を抱えて生きていようと、これからどう生きていこうと、みな一様に輝きを追って、上を向いている。
——そして、万感の想いを込めた蕾は花開き、夜空を美しく彩った。
明日も頑張ろう。
自然とそう思わされる力強さが、そこにはあった。
私はいつのまにか、自分の足で地面に立っていた。
彼の姿はもう見えなくなっていた。
私は地面を強く踏みしめた。
……私はあと何年生きていられるだろうか。
元々丈夫ではない体だ。もうあと十年も生きていられないかもしれない。
けれど、人はいつだって、何度だって、咲くことができると知っているから、私は諦めない。
たとえ、私自身が散ってしまったとしても、私が蒔いた種は未来で芽吹き、花を咲かせるかもしれない。
彼がこの世に存在し続けることこそが、私が強く美しいことの証になるのだ。
私は夜空に次々と打ち上がる花火を瞳に捉え、拳を強く握りしめた。
次は、もう待たせないからね。
ここまで読んでいただきありがとうございまず。
よろしければ評価や感想も残していただけると幸いです。