8話
「……ん、ぅ……」
かすかな唸り声とともに、カイのまぶたが震えた。
重い。
身体中に鉄を巻きつけられたようなだるさがあった。
視界はぼやけていて、頭の奥がずきずきと痛む。
天井が見えた。
木造の屋根。雨漏りの跡。湿った空気。
(……どこだ、ここ)
少しずつ感覚が戻ってくると、傍らに誰かの気配を感じた。
「……お兄さん……!」
顔をのぞきこんできたのは、ネイだった。
少しだけ土で汚れた顔に、安堵と焦りの入り混じった表情が浮かんでいる。
「あ、あの、大丈夫ですか? 痛いところ……って、全身ですよね……すみません……!」
「いや……なんで、俺……ここに……?」
カイがかすれた声で問いかけると、ネイはどこか気まずそうに目を逸らした。
「……その、僕が……そのへんの扉が開いてた空き家に、引きずって……」
「引きずったって、お前……」
「だ、だって! このままじゃ誰かに見つかると思って……だから……!」
そう言いながら、ネイはわずかに俯いた。
それは恥じるような、けれど確かに“自分の意思で動いた”者の顔だった。
「……そうか。助かったよ」
カイはそう言って、目を閉じた。
「……落ち着きました?」
ネイの声が静かに響く。
カイは壁にもたれながら、ゆっくりと呼吸を整えていた。
「……まあな。まだ体は重いけど、意識ははっきりしてる」
「よかった……」
そう呟いたネイは、少し間を置いてから、ぽつりと聞いた。
「……あの、今さらですけど……あなたの名前、聞いてもいいですか?」
カイは一瞬きょとんとしたあと、小さく苦笑した。
「そっか、そういや名乗ってなかったな」
そして、わずかに姿勢を正し、口を開いた。
「カイ。よろしくな、ネイ」
ネイは一瞬驚いた顔をして、それからふわりと微笑んだ。
「……カイさん。はい、よろしくお願いします」
しばらく静寂が流れた。
「……その、どうして僕を……助けてくれたんですか?」
ネイの問いかけは、思っていたよりも真っ直ぐだった。
言葉を選ぶでもなく、怯えるでもなく、ただ知りたがっていた。
カイは一度だけ視線を伏せた。
胸の奥に、あの言葉が蘇る。
――『子共を助けるのに、理由がいるのか?』
確かに、そう言われた。
命の恩人がそう言った。
「……通訳が欲しかったんだよ。街の連中、何言ってんのか全然わかんなかったしな。
お前だけが俺の言葉を喋ってた。それだけさ」
口から出たのは、冷めた言葉だった。
それは本心でもあったが、全部じゃなかった。
ネイは少しだけ驚いたように目を丸くし、それからふっと笑った。
「……じゃあ、助けた理由は“便利そうだったから”ってことですね」
「……まあ、そういうことにしとけ」
そう答えながら、カイは視線を逸らした。
心の中でだけ、思った。
(理由なんて、あんまり必要じゃなかったんだよ。助けなきゃって、ただ思っただけだった)
「なあ、ネイ」
カイは壁に背を預けたまま、ゆっくりと問いかけた。
「……アイツら、一体なんなんだ? お前、何されたんだよ」
ネイはピクリと肩を震わせた。
目線が床に落ちる。しばらく黙ったままだったが、やがて、ゆっくりと口を開いた。
「……僕にも、よくわかりません。あの人たちが誰なのか…」
「けど、お前を狙ってたんだろ? 何も分からないなんてことは…」
ネイは小さくうなずいた。
そして、ぽつりぽつりと語り始める。
「僕……もともとは、小さな村に住んでました。山の麓の、名前もないような静かな村です。
父と母がいて、優しい村の人たちがいて、毎日が……当たり前でした」
そこで言葉が詰まる。
唇が小さく震えた。
「でも、ある日……突然でした。
夜中、変な気配がして、目が覚めて……気づいたときには、もう、あいつらが村にいました」
言葉は淡々としているのに、声にはかすかに震えがあった。
「誰も、抵抗できなかった。あっという間でした。
僕の目の前で、父も、母も……村の人たちも、みんな……殺されて……」
カイは何も言わなかった。
ただ、ネイの言葉を黙って聞いていた。
「僕は、連れ去られました。縄で縛られて、何も訊かれずに。
どこに連れていかれるのかもわからなかったけど……その道中で、騎士団の人たちと、あいつらが鉢合わせて……」
「騎士団?」
「はい。たまたまだったのか、待ち伏せだったのかは分かりません。
でも、あのとき、戦いになりました。……僕は、戦闘の混乱に紛れて逃げました。
でも……すぐに、追いつかれそうになって……」
ネイは小さくうつむく。
「……そのとき、カイさんに会いました。助けてもらったんです」
「……」
話は、そこで終わった。
けれど、カイには充分だった。
村を襲った“あいつら”。
騎士団と衝突するほどの組織。
そしてネイに宿る、“鬼化”という異能。
(こいつの背後にあるのは、ただの“事件”じゃねぇな……)
カイの中で、なにかが静かに輪郭を持ち始めていた。
ネイの話が終わったあと、室内にはしばらく静寂が流れた。
カイは天井を見上げながら、ゆっくりと息を吐いた。
(……南の国。リナがいるかもしれない。あいつと、もう一度会うために旅をしてる。
それが、俺の目的だったはずだ)
それは変わっていない。
けれど、目の前で震えるこの少年を見ていると、
心の奥が妙にざわついた。
あの日、村が燃えた。
守れなかった。何もできなかった。
だから、あのときの自分は捨てた――はずだった。
(……違ぇな。守れなかったからって、見捨てる理由にはなんねぇ)
カイは立ち上がった。
まだふらつく体を押さえながら、剣の柄に手をかける。
「……まずは、この街で情報を集める」
ネイが顔を上げる。
「え?」
「お前を狙ってる連中がどこから来たのか。何を狙ってるのか。
それが分からなきゃ、逃げるにしても動けねぇ。
だから、ちょっとばかりこの街で探ってみる。……大丈夫だ、なるべく目立たずにな」
カイはそう言って、ネイの頭を軽くぽん、と叩いた。
「なんだかんだで、お前を見捨てられねぇ性分なんだ。
……厄介な話だろ?」
ネイは驚いた顔をして、すぐに恥ずかしそうに目を逸らした。
「……でも、ありがとうございます」
カイはその言葉を聞きながら、窓の外を見た。
空は、いつの間にか曇っていた。
嵐の前の静けさのように、街が静かだった。
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