第7話
「……ッくそ……」
喉の奥に血の味が広がる。
全身が軋み、右肩がうまく動かない。
それでもカイは、壁にもたれかかるようにして立ち上がった。
足元では、手放したはずの剣が転がっていた。
血に濡れた刃を、震える手で拾い上げる。
目の前には――鬼。
もはや人間の影すらない。
あの男の“死体”が、ただ無言で、ゆっくりと歩いてくる。
「まったく……冗談じゃねぇ……」
カイは短く吐き捨て、剣を構えた。
後ろでは、ネイが小さく震えていた。
声も出さず、ただカイの背中を見つめている。
その存在が、カイの背中を支えていた。
(守らなきゃ。俺が倒れたら、こいつは……)
呼吸を整える。視線を定める。
怖くないわけじゃない。体は正直だ。膝が、心臓が、勝手に動こうとする。
けれど――それ以上に、心が止まっていなかった。
「おい、怪物。……今度は、そう簡単にはやられねぇぞ」
剣を両手で握り直す。
足元を固め、目の前の敵へとまっすぐに向き合った。
そして――カイは、もう一度、踏み出した。
ガンッ──!
再び交差した剣と剣。
カイの体が軋む。
剣越しに伝わる衝撃が、骨を鳴らす。
(……無理だ。真っ向からじゃ、こいつに勝てねぇ)
一度、後方に跳ねて距離を取る。
鬼は無言のまま、剣を構え直すでもなく、ただ歩いてくる。
「剣で打ち合っても潰されるだけか……だったら──」
カイは呼吸を整え、剣を低く構えた。
足の重心を軽く、姿勢は柔らかく。
“かわして、刺す”。
力じゃなく、速さと精度で倒す。それが、今の自分にできる戦い方。
鬼が踏み込んでくる。
剣が振り下ろされるのと同時に、カイは半身で避けた。
その刹那――
「ッらぁあああっ!」
すれ違いざまに、脇腹へ鋭い一撃。
だが、斬ったはずの感触が、妙に重かった。
(……手応えが、ない?)
再び鬼が振り返る。
そのまま、迷いなく剣を横薙ぎに振ってきた。
「──っ!」
カイは紙一重で後退。
体勢を崩さずに距離を取ったが、じっとりと汗が滲む。
(避けて、刺して、下がって……それでも効かねぇのかよ)
鬼は無言。
ただカイの動きをなぞるように、剣を構え直した。
その目には光も、怒りもない。
まるで──“戦い方”すらも読み込んでいるようだった。
「……マジかよ」
初めて、胸の奥に“わずかな絶望”が芽を出した。
カイは走った。
斬った。かわした。飛び込んだ。下がった。
だが──手応えはない。
鬼はすべてを見透かしたように受け、流し、反撃してくる。
動きに迷いはなく、機械的で、だが“正確”すぎた。
(くそっ……どこだ、隙は……どこかに、絶対……!)
何度目かの斬撃を跳ね返されたとき、剣が弾かれて地面を転がった。
カイの目の前で、鬼が止まる。
一歩。二歩。確実に、殺すために。
「くそっ……!」
背中で、ネイが息を呑む音がした。
このままやられれば──守れない。
カイは、思い出した。
(そういえば……クレイグが言ってた……俺には、“力”があるって)
“遅延化”
対象の動きを、遅らせる力。
「でもあれは、体に……負担が──」
呼吸が浅くなる。
脳裏に浮かぶのは、あのときの警告。
『脳に負荷がかかる。時間をずらす処理は無理を強いる行為だ。最悪、意識を飛ばすこともある。身体もその後で動かなくなる可能性がある』
使わずに済むなら、それが一番だった。
でも──
今、目の前にあるのは“人間を超えた何か”。
そしてその後ろに、震える誰か。
ここで負けたら、自分はあの時と何も変わらない。
(……使わなきゃ、勝てねぇ。ここで終わるわけには……!)
歯を食いしばり、カイは再び剣を拾った。
目の奥に、決意の火が灯る。
「……来いよ。目にもの見せてやる」
低く呟いた声が、夜の路地に溶けていった。
カイは剣を構え、深く息を吸い込んだ。
心臓がドクン、とひとつ鳴る。
(意識を、一点に集中……“今”を止める……)
カイの視界に、世界が収束する。
目の前の鬼が剣を構えたまま、一歩を踏み出そうとする──その瞬間。
「──“遅延化”ッ!!」
光も音も、風すらも──
すべてが、遅くなった。
鬼の動きが、まるで水の中にいるかのように鈍くなる。
あれほど正確で、重く、鋭かった動きが、今はただの彫像のようだった。
(……止まってる……いや、“遅れてる”んだ)
カイはゆっくりと、確実に歩み寄る。
もう、焦る必要はない。今だけは、時間さえ味方だった。
目の前まで歩き、鬼の首元に剣をあてがう。
カイの顔には、汗と血が混じっていた。
けれどその目は、決して揺らいでいなかった。
「──終わりだ」
一閃。
鋭い斬撃が、時間をも断ち切るように振るわれた。
首が宙を舞い、音もなく地面に落ちる。
その瞬間――世界が、元に戻った。
ザァッ……と空気が流れ、風の音、遠くの喧騒、すべてが押し寄せる。
カイはその場に膝をついた。
「……っぐ……あああ……!」
鼻から、そして左目から血が噴き出す。
頭が割れるように痛い。視界がぐらぐらと揺れる。
「……ったく、これが……代償かよ……」
手が震える。全身が痺れている。
けれど、その感覚すらすぐに遠のいていった。
「リ……ナ……」
最後に誰かの名を呼んで、カイの意識は、暗闇に沈んだ。
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