5話
街は賑わっていた。
太陽が真上に差し掛かる頃、カイは地図を片手に山を降り、初めての人の群れに足を踏み入れた。
「……こりゃ、すげえな」
どこを見ても人、人、人。行商人の声に、子供たちの叫び声、何語かもわからない言葉が飛び交っている。
カイは圧倒されながらも、外の世界に、ほんの少しだけ心を弾ませていた。
だが――現実はすぐに牙をむいた。
「…………え?」
宿に入ろうとしても、買い物をしようとしても、まったく言葉が通じない。
山の上で話していた言葉とは微妙に発音が違い、相手は困惑し、やがて不審そうな顔を向けて追い払われる。
「まずい……非常にまずい……このままじゃ泊まれねぇ……飯も食えねぇ……」
人の群れに取り残されるようにして、カイは歩道の隅に腰を下ろした。
空は広く、街はにぎやかなのに、自分ひとりだけ世界から切り離されたような感覚があった。
そのときだった。
「追えっ! そっちの路地裏に逃げたぞ!」
耳慣れた声――正確には、“耳が理解できる声”が響いた。
「……え?」
それは間違いなく、自分の話す言葉と同じだった。
誰も彼もが異国の音で喋るこの街で、突然現れた“通じる声”。
カイは反射的に立ち上がり、声のした方角へと目を向けた。
視線の先には、2人の男が1人の少年を追いかけていた。
少年は小柄で、何かを叫びながら路地裏へと駆け込んでいく。
その声も、やはり同じだった――“自分と同じ言葉”だった。
「……くそ、面倒事かもな」
そう思いながらも、カイの足はすでに動いていた。
この街で、ようやく通じる誰かに出会った気がした。
そして何より――見捨てるには、あまりにも細く震える背中だった。
路地裏は薄暗く、湿った空気がまとわりついていた。
街の喧騒は遠のき、足音と荒い息遣いだけが響く。
「――いたぞ。もう逃げ場はねぇぞ、ガキ」
低く、嘲るような声が響いた。
路地の奥、壁に背をつけて怯えているのは、あの少年だった。
髪は淡い緑色で、目元は恐怖に染まっていた。
薄汚れた服に、泥と血がこびりついている。
年は自分より少し下だろうか。手足は細く、今にも崩れ落ちそうだった。
「……やめて……こないで……」
少年の声が震える。それは、間違いなくカイの話す言葉だった。
街中どこを探しても見つからなかった、“同じ言葉”を、この少年は確かに口にしていた。
「なんでだよ……なんでこんなところに……」
カイの胸に、言いようのない感情が湧き上がる。
戸惑い、苛立ち、焦燥、そして――怒り。
その少年の前に立ちはだかっていたのは、2人の男だった。
ひとりは骨ばった体格にギラついた目をした痩せ男。
もうひとりは、大盾のような体格をした巨漢で、手には鉄パイプのような大剣を背負っている。
「チッ、野次馬か?」
痩せた男がこちらに気づき、軽く舌打ちする。
「見られたな……始末しろ」
「……はあ。やっぱり、面倒事じゃねぇか」
カイは深く息を吸い、背中にくくりつけていた木の鞘を外した。
視線を落とすと、少年と目が合った。
怯えと、戸惑いと、救いを求める光が、その瞳に宿っていた。
その姿にふと重なる姿があった。
三年前に守られるだけで何も出来なかったあの日の自分が。
「任せとけ。俺が、あんたを守る」
短くそう告げて、カイはゆっくりと前に出た。
この少年を守ったところであの日自分を、そしてリナを助けられるわけではない、それでも守らなければと思った、修行を経て、変わった自分を、自分自身に示さなければと。
巨漢が一歩前に出た。
彼の背中から引き抜かれたのは、鉄の大剣。
もう一人の痩せた男も、腰に差していた細身の剣を構える。
「……あーあ。やる気満々って顔だな」
カイは木の鞘を投げ捨て、背中の剣を抜く。
冷たい金属音が、狭い路地裏に響いた。
次の瞬間、太った男が真っ直ぐに斬りかかってきた。
その大剣は重く速い。だが、ただの力押しではなかった。
「──っ!」
避けた直後、今度は背後から風を裂く音。
痩せた男が、仲間の斬撃に合わせて回り込んできていた。
「……連携、してるのかよ……!」
力と速度。まるで対照的な2人の攻撃が、隙なく押し寄せる。
防いでも、防いでも、次の攻撃が来る。
カイはわずかずつ、後退を余儀なくされていた。
太った男の剣が横薙ぎに振るわれた。
それを地面を転がって回避しながら、カイの目にあるものが映った。
――巨漢の肩の動き。
斬る瞬間に力を溜めすぎて、予備動作が大きくなっている。
しかも、痩せた男はそれを読んでいない。
「──そっか。お前ら、息は合ってるようで、“合わせてない”んだな」
カイは息を整え、あえて太った男の懐に飛び込んだ。
「今だッ!」
巨漢が構え直すよりも早く、カイは剣を振り上げた。
一閃。
その刃は、太った男の首筋をなぞるようにして斬り裂いた。
崩れ落ちる巨体を前に、痩せた男が目を見開く。
「バカな、あいつを……!」
怒りと動揺に任せて突っ込んでくる。
だが、もうカイの目には、相手の動きが見えていた。
「同じパターンばっかじゃ──通じねぇよ」
細剣が振り下ろされる寸前、カイは剣を立てて受け止め、
そのまま刃を滑らせながら脇に踏み込む。
「っらあ!」
反撃の一太刀が、痩せた男の腹部を貫いた。
刃が骨を裂く鈍い音が、耳の奥に残る。
荒い息を吐きながら、カイは剣を抜く。
「……案外、殺せるもんだな……」
息を整える彼の手は、震えていなかった。
戦いの終わりを告げるように、血に染まった剣が路地裏に影を落とす。
路地裏に、沈黙が落ちた。
敵の気配はもうない。
ただ、血と鉄の臭いだけが、湿った空気に重く残っている。
カイは剣を振って血を払い、そのまま背中へと納めた。
後ろを振り返ると、壁際にいた少年が、座り込んだまま身を縮めていた。
その目は大きく見開かれ、震え、涙の痕が頬を伝っている。
恐怖か、安堵か、それとも両方か。
カイが歩み寄ると、少年は咄嗟に手を前に突き出して叫んだ。
「や、やめてくださいっ! 僕、何もしてません、殺さないで……!」
その声に、カイは思わず足を止めた。
ネイの言葉は、間違いなく“自分と同じ言葉”だった。
敵ではない。
いや、それ以前に――こんな声、殺せるはずがない。
「落ち着け。もう誰もお前を傷つけねぇよ」
ゆっくりと腰を落とし、カイは手を伸ばす。
ネイは一瞬だけ戸惑ったが、おずおずとその手を取った。
細く、冷たい手だった。
「名前、言えるか?」
「……ネ、ネイ。です……」
「そっか、ネイ。とりあえず、ここはまずい。移動するぞ」
立ち上がったカイは、ネイの手を引いた。
震える手は、けれど拒まなかった。
カイの胸の奥に、ぽつんと温もりが灯った気がした。
それは、命を救ったという実感でも、戦いに勝った誇りでもなかった。
ただ――この少年を守れたことが、嬉しかった。
(少しは俺も、変われたのかな…)
カイはその手を強く引き寄せ、薄暗い路地裏を駆け出した。
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