1話
小さな村があった。
国境からも街道からも遠く離れたその場所で、少年カイは十五年を過ごしてきた。
物々しい鎧も、物騒で鋭利な剣も、この村には存在しない。
あるのは人の手で耕した畑と、冷たい井戸水、そして木々のざわめきだけ。
それでも、カイはこの場所を嫌いだと思ったことは一度もなかった。
静かで、のんびりしていて、大切な人がいて——それだけで十分だった。
「カイ! いつまで寝てるのよっ!」
耳をつんざくような声が、粗末な木の扉越しに飛び込んでくる。
布団の中のカイが呻いた。「うぅ……あと五分だけ……」
「だーめっ! 朝の水汲み、もう始まってるんだから!」
怒鳴りながら戸を開けて飛び込んできたのは、赤髪の少女——リナだった。
ツインテールに結んだ髪が跳ね、目つきは鋭い。
背は低いが、動きに無駄がなくて、村の誰よりも手先が器用。
そして、カイの幼なじみであり、保護者のような存在でもある。
二人は幼い頃にそれぞれ親を失い、二人で身を寄せ合って育った。
だからか、家族のようで、でもそうじゃない距離感が続いている。
「まったく、あんたは昔から寝起きが最悪なんだから……」
「いや、いきなり入ってくる方が悪くない?」
「私がいなきゃ、永遠に寝てるでしょ。感謝しなさいよね、ほんと」
リナは呆れたようにため息をついた。
(ほんと、世話が焼ける……)
カイは着替えを済ませると、リナに背中を押されるようにして家を出た。
朝の空気は澄んでいて、林の間から差し込む光がまぶしい。
村の広場では、すでに何人かの村人たちが作業を始めていた。
井戸のそばにいる子どもたちがカイを見つけて手を振る。
「カイお兄ちゃん! おはよー!」
「おー、おはよ!」
村ではカイはちょっとした人気者だった。
困っている人には真っ先に手を貸し、危ないことにも躊躇せず突っ込んでいく。
本人は「当たり前だよ」と笑うけど、それができる人間はそう多くない。
「おーい、カイ! ちょうどよかった!」
鍛冶屋の親父が手を振る。村の入り口の方で騒ぎがあるらしい。
「誰か倒れてたらしくてな、旅人っぽいんだが、今どうするかで揉めてるんだ。
この村、宿屋なんて立派なもんないからな」
「倒れてた……?」
カイは顔をしかめ、歩を速めた。
村の入り口。そこに、ひとりの男がいた。
黒髪で、背はカイより少し高いくらい。
服はぼろぼろで、肌には傷がいくつも浮いている。
だがなにより印象に残ったのは、その“目”だった。
空っぽで、それでいて、どこか底知れないものを湛えた瞳。
(……この人、何者なんだろう)
「大丈夫ですか?」
カイが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
唇を震わせ、かすれた声で応える。
「……助けてくれるのか……?」
その言葉に、カイは一瞬だけためらった。
でも——
「うちに、空いてる部屋があります。とりあえず、そこで休んでください」
男の表情は読めなかった。
それでも、ふらつきながらもカイの背を追って歩き出した
「ここです。狭いですけど……好きに使ってください」
カイは家の一室を開け、男を中へ案内した。
リナには後で怒られるかもしれないけど、放っておくわけにはいかなかった。
「……悪いな……」
男はそのまま、何かを噛みしめるように床へ座り込む。
表情には疲労と、何かもっと別の——例えば、後悔のようなものが滲んでいた。
「名前、聞いてもいいですか?」
「……ザイン。あんたは?」
「カイです。じゃあ、何かあったら呼んでください。
あ、夕飯は……簡単なものでよければ作ります」
ザインは答えず、ただ小さくうなずいた。
「はああああっ!?」
予想通り、リナは声を張り上げた。
「なんで勝手に泊めてるのよ! 知らない人、しかも傷だらけの旅人よ!?」
「だって……見捨てられなかったんだよ。動けないほど衰弱してて、目も……」
「目?」
「……なんていうか、空っぽだった。何も映してないのに、何か全部見てるみたいな、そんな感じ」
「……」
しばらく黙ったあと、リナはため息をついた。
「ほんと、あんたって……優しすぎるんだから」
口では呆れているようでも、その声色にはどこか温かさが混じっていた。
「でもまあ、ちゃんと私が監視するわ。何かあったらすぐ叩き起こすから」
「ありがとう、リナ」
「別に……あんたが後悔するの見たくないだけ」
そう言いながら、リナはいつものようにそっぽを向いた。
—
夜。
寝室に戻ったカイは、布団に潜り込みながら考える。
(ザインさん……何者なんだろう)
あの目に、ほんの少しだけ、懐かしさを覚えた。
それが何なのかは、自分でもわからないまま——眠りに落ちていく。
——その夜、村は静かだった。
焚き火の残り香と虫の音が、夜気の中にぼんやりと漂っている。
家の隅、薄暗い客間の布団に横たわるザインは、目を閉じたまま動かない。
けれど、その胸はわずかに上下していた。
まるで、呼吸しているのではなく、何か“抑えている”ような——そんな沈黙。
やがてザインの目が、音もなく、すっと開かれる。
月明かりに照らされたその瞳は、
昼間に見せた虚ろな光ではなく、鋭く、底知れぬ何かを宿していた。
「…………フッ」
ごく小さな、声にならない笑みが零れた。
それは安堵でも感謝でもない。
まるで、すでに“全てが始まっている”ことを知っている者の笑み。
—
翌朝。
カイが目を覚ました時、外から異様な匂いが漂っていた。
焔のような、鉄のような、焦げた匂い。
胸騒ぎを覚えながら、カイは窓の外を見た。
そこには——立ち上る黒煙と、悲鳴のような叫び声が。
(……何が……?)
布団を跳ねのけ、慌てて扉を開けたその瞬間、
彼はまだ知らなかった。
この日が、“自分の英雄譚”の始まりになることを——。
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