亡国の姫と哀しき悪臣
揺蕩う、ように、生きて来た。
ゆらゆら、ゆらゆら、流されるまま。波間に浮かぶ、海月のように。
苦しみや悲しみはなく、けれど、喜びや楽しみもなかった。
まるで、物語を読むように、あるいは客席から、舞台の上を眺めるように。自分の生だと言うのに、どこか幕一枚挟んで、他人の生のように傍観していた。
それは、周りから、悲劇と憐れまれる運命を辿っても。
苦しみも、痛みも、悔しさも、悲しみも、怒りも。なにひとつ、鮮明に感じることはなかった。
自分はなにか、ひととして、大切なものが、欠落しているのでは?
そう、考えて、けれど、それに嘆く気持ちすら、持つことはなかった。
そんなわたしが、不意に、覚醒するのは、ふたりめの我が子を抱いたとき。
懸命に、産声を上げる、その子を見て、ふと、ああ、と、理解した。
自分は、この子を産み、育てるために、この世に生を受けたのだと。
守らなければ。誰からであろうと、この子を。
産後の朦朧とした意識のなか、けれど、いつになくはっきりと鮮明な心地で、わたしはそう、心に刻んだ。
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とは言え、皇帝唯一の妃が産んだ、初の男子である。確かに命を狙われやすい立場ではあるが、それ以上に守りも堅い。
事実、その子は、何不自由なく、五歳まで育った。
けれど平穏はそこまでだった。
隣国から輿入れした姫君が正妃となり、側妃の産んだ第一皇子を、いずれ生まれる我が子の邪魔と考えたのだ。
偶然か策略か、起きた叛乱の動乱に紛れて、正妃はわたしの子を殺そうとした。
供を揃える余裕もなく、ただ幼い我が子ひとりを抱いて、わたしは王宮から落ち延びた。娘もふたりいたが、女であれば帝位を脅かすこともなく、政略の駒に使える。ひどい扱いを受けることもないだろうと、連れ出すことはしなかった。
それで、死んだ、と、思って貰えていればと考えたが、甘かったようだ。
正妃は己の謀略などお首にも出さず、狂った側妃が皇子を攫って逃亡したと喧伝した。
あまりの言い分にぽかんとしたあとで、思わず笑って、これが怒りと言う感情かと、状況も忘れて感動してしまった。
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「良いですか。しばらくは、女の子として生きるのです。あなたは女の子。女の子です。わかりましたね」
我が子にドレスを着せ、言い聞かせる。
幸いにも、男女の差が出る前の歳で、我が子ながら色白で、美しい顔立ちをしている。女児の服を着せてしまえば、男と思うものはいない。
「母上、」
「わたしは母ではありません。リオと、呼び捨てなさい。あなたの侍女です」
目立つ銀髪を茶に染めて、地味な服に身を窶す。
「どうして」
「見付かれば、無事では済まないからです」
幼いながらも、聡明な子だ。誤魔化さず、きっぱりと告げる。
「皇子と気付かれれば、追っ手をかけられます。捕まるのが、陛下の手の者であればまだしも、正妃殿下の手の者であれば、あなたはその場で殺され、わたしはその罪を着せられて処刑されるでしょう」
青褪めた息子の頬をなでる。
「そのような未来には、絶対にさせません。なんとしても、わたしがあなたを守りましょう。だから、どうか、言うことを聞いて下さい」
「わかり、ました、リオ」
微笑んで頷き、続ける。
「あなたはライラ。商家の娘です。王都の動乱を避けるため、侍女と共に、遠縁を頼ろうとしています」
「私はライラ」
「そう、あなたはライラ。これから、ヨハン小父さまの家に向かいます」
「私はライラ。これから、ヨハン小父さまのところへ行く」
聡い子だ。すべてを飲み込んで、従ってくれる。
「行きましょう、ライラお嬢さま」
「ええ。リオ」
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「あなたも豪胆なことだ」
かつてわたしを陥れた男は嗤う。
「よりにもよって、政敵の家に転がり込もうとは」
「いまは政敵ではないでしょう。国が消えたのだから」
「まあ、そうですけどね。でも、普通は頼ろうと思わないかと。いつまた寝首を掻かれるともわからない。だからこそ、敵の意表を突けるとは言え、狂ってますよ、恐怖はないんですか」
いま、逃げ込むならば、この男の下が最良だった。それだけの話だ。
「協力は出来ないと言うなら、いますぐ出て行きますが」
「まさか」
男は首を振る。
「あなたに助けを求められるのは、悪い気分じゃない。まあ、瘤なしであれば、なお歓迎でしたがね」
「思ってもいない冗談を」
我が子こそ、この男にとっては価値があるだろうに。
「おや手厳しい。そうですね。我が家としても、あなた方を匿うことには利があります。このお話、お受けしましょう」
大仰な仕草で一礼し、男は悪辣な笑みを顔に載せた。こんな顔で、笑う男だったのかと、いまさらながらまじまじと見る。かつてのわたしは、誰の顔もまともに見てはいなかった。
「枯らしたつもりの竹林が虎視眈々と根を巡らし、寝所を突き破ることもあるのだと、思い知らせて……あの、」
悪辣な笑みのまま、つらつらと語っていた男が、ふと言葉を止めわたしを見返す。
「そう、じっと見られると、据わりが悪いのですが、僕の顔になにか汚れでも付いていますか?」
「いえ」
「では、なぜそうもまじまじと?」
「悪いお顔をしているなあと」
「……そう、ですか」
男が片手で自分の顔の下半分を掴み、目を伏せる。
「悪い顔の男はお嫌いでしょうか」
「いえ、特には」
首を振り、答える。
「他人に対して、好き嫌いを考えたことはありませんから」
「あなたはそう言う人間でしたね。ええ。だから僕としても驚きですよ」
男が、わたしの息子に目を向ける。
「いくら自分の子とは言え、あなたがなにかを救うために、ここまでするとはね」
「我が子を愛し、守るのは、母親として当然でしょう」
「そうですね。ご立派なことだ」
男は肩をすくめると、良いでしょう、と頷いた。
「あなたをお抱えの針子として雇いましょう。ライラは侍女見習いです。良いですね?」
「はい。寛大な配慮に感謝します」
「自分の食い扶持くらいは、稼いで貰いますよ」
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「あの」
「どうかしましたか、ライラ」
振り向いた男は、にこやかな笑みだった。
初めて会う男だ。母の、政敵だと、言っていた。
けれど。
「私は、邪魔ですか?」
瘤なしであれば歓迎すると、言った言葉に本気を感じた。
おそらく、この男は、本気で、母を。
「あの方にも、あなたの半分でも、その察しの良さがあれば良かったのですがね」
男が私の頭をなでる。
「邪魔ではありませんよ。あなたには、感謝しています」
「感謝?」
私のせいで、母は王宮から逃げることになり、いまなお、命を狙われているのに?
「彼女は自分に、執着がありませんから」
口調こそ淡々と。けれど、その目には悲痛さが見えた。
「地位も、名誉も、境遇も、待遇も、命さえも、彼女は頓着しません。誰も彼女を、活かせなかった。あなた以外は」
「私、以外は」
「あなたを守ると言う意志を持ったからこそ、彼女は正妃の魔の手に対抗し、ここまで落ち延びてくれた。あなたのおかげです。だから、僕はあなたに感謝こそすれ、邪魔と思うなどありえませんよ。どうか、彼女の錨を続けて下さい。ほかの誰にも、出来ないことですから」
つたないお話をお読み頂きありがとうございました!




